織姫は春に泣く



夢を見た。

視界いっぱいの木目に目を白黒させる。顔を上げればそこは静寂に包まれた教室だった。服装は日中自分が着ていた服ではあるものの、教室はもう10年近く前に卒業した部屋だ。机に彫られた相合傘がそれを物語っている。うっすらと彫られた名前は私と同級生の名前であり、好きな人の名前であり、同時に憎い名前でもあった。頬に風が触れ、顔を明るい方向へ向ける。

傾いた陽が窓という四角から惜しげも無く降り注いでいる。四角い縁の端では満開の桜が揺れていた。そよぐ薄紅は連なっている。高専の敷地内には桜が多く植えられており、春になると様々なところから桜を見ることが出来るのは高専の良いところであった。4年間過ごしたこの教室からも桜並木の片鱗は見られ、毎年それを楽しみに過ごしていた事を覚えている。

オレンジ色に透けた生成りのカーテンはそよ風に流れていた。タッセルで留められたカーテンが三組並び、ちょうど真横のカーテンだけが控えめに流れている。そしてその手前には大きく深い陰を作る男が椅子に腰掛けていた。大きな男だ。180cmも後半はあろうかと思われる大きな男の髪は上半分あげられており、豊かな後ろ毛はカーテンと共に僅かに流れている。

───────あ、これ夢だ。

そう、すぐに理解した。もう何年も前に姿を消し、私の期待を露と消したその張本人が目の前にいるのは夢以外の何物でもない。それ以外の可能性があるとすればそれは、私が死んだ時だろう。しかし私は生きていて、馬鹿な同級生の遺骨を抱き締めて何日も部屋に篭って眠っているのだ。夕飯にはアイツが好きだったお店の餃子を持ち帰りで食べて、アイツがいい匂いだと言ったシャンプーで髪を洗った。もう新たな春だというのに。

大きな体躯を更に大きく見せる袈裟姿の同級生───────夏油傑は窓際の席に座り、顔は逆光で陰を作っている。椅子ごと私を向いている傑はにこりと作り笑顔を貼り付けていた。陰は濃い黒だ。思わず眉間に力が入るのと、傑が右手を軽く上げるのは同時だった。

「やあ、久しぶりだね。これは夢かな」
「……夢でしょ」
「そうか……。うん、そうなんだろう。君が綺麗で驚いたよ。綺麗になったね」
「思ってないなら言わない方がいいよ」

私の否定的な言葉に傑は肩をすくめた。暗いね、と文句を垂れる。ついチッ、と漏れた私の舌打ちに傑は軽い笑い声をあげた。私は1番廊下側の席についていて、間には悟と硝子の分の机が鎮座している。先程までそこにいたかのように、悟の机の上には任務の報告書だと思われる紙の束が置かれていた。そよ風で紙が少しずつ位置を変えていく。

早く目が覚めてほしい、とわざとらしく考えた。もう死んだ男に取り憑かれて生きていくのは飽きたのだ。これは夢枕だ。過去の男なんて忘れてしまえと言っているのだ。そうだ。そうに違いない。そんな思考の外側でがたりと机が音を立てる。音の出元を見遣ると傑が立ち上がり、距離を縮めようと一歩踏み出していた。静寂の室内いっぱいに感じる彼の呼吸。ギチギチに詰められている。狭い空間に思い出をいっぱい。反射的に私も一歩ひく。ガタガタと椅子がわざとらしい音を立てるが、背中側はすぐに壁でそれ以上は下がれない。

「来ないで」
「いや、行くさ」

力強い返答に思わず言葉が詰まった。やはり夢だ。現実の私はと言えば「行かないで」と何度も願ったものだった。どこにも行かないで。置いて行かないで。逝かないで。さも簡単にそれがひっくり返されるのは、それはやはり夢だからだ。ぱらぱらぱら、と紙の音がする。途端に強い風が吹いてカーテンと彼の長い髪が踊り出した。傑にとっての追い風と私にとっての向かい風が満ちる。

「これが夢だと言うのなら、目の前にいる君は私が会いたかったかなたなんだ。それなら、こんなに離れているなんて寂しいじゃないか」
「勝手だね」
「そうさ。私は勝手なんだ。じゃなければ離反も、君を置いていくなんてことも出来ないよ」

一歩、二歩と傑は近付いてくる。ドクン、と心臓が悲鳴を上げた。ぎゅう、と心臓を締めあげられる。向かい風が目にしみて目頭が熱い。たかだか数メートルの距離は180cmを優に超える傑からすれば詰めるに容易い。一瞬で詰められ、大きな手が私の頬に触れる。優しい温度なんかではない。何度も抱き締めて眠った、骨壷のように冷たい。ひやりとして硬いその手がするりと頬の曲線を滑る。

「はは、君は夢の中でも温かいんだな」
「傑が冷たいんだよ」
「……名前、呼んでくれるんだね」

ばちん、と音が鳴った。それは私が咄嗟に傑の手を払った音だ。払われた傑の表情も見ずに捻った身体を黒板に向けて身体を縮めた。肩で息をしていると、そっと彼の手が触れる。大きな手。唾液も飲み込めなくて喉が詰まる。荒くなる呼吸に合わせて首筋に太い親指が触れて、ゆっくり肩甲骨の方まで下がった。執拗なまでに上から下へ、上から下へ優しく手は動く。母が子にするような撫で方だ。背中にひんやりと冷たい温度を感じる。

気付けば私はその手に触れ、自ら縋っていた。温度や匂い、その質感を求めて頬を寄せる。手の温度も大きさもあまりに違う、その距離がもどかしくて頬を染めた10年前に強烈に引っ張られた。冷たい雫が頬を滑る。

「やっぱり夢だね」

傑は確かめるように言う。その通りだね、と私も小さく空気を震わせた。たった数秒その行為を堪能してから、傑は私のすぐ横の椅子に座った。そこは学生時代、硝子が座っていた場所だ。当時、勝手に座れば煙草の煙を掛けられたのだろうが今それはない。ぼんやりと歪む視界の中でそんなことを考えていると、傑は袈裟の袖から何やら袋を取り出した。小さな袋は見慣れた駄菓子のようで首を傾げる。

「……なにそれ」
「食べるかい?ビッグカツ」
「持ち歩いてんの、それ……」
「菜々子が好きでね。あ、私の娘なんだけど」

そこに興味はない、とぼやく私に傑はビッグカツを袖からもう1つ取り出して渡してきた。見慣れた緑と赤が印象的なパッケージ。伸ばすつもりもなかった手の中に滑り込んでくる。

「いや、好きだったのかな。小さい頃はよく食べていたのに、大きくなってから可愛くないからって食べなくなってね」
「へー」
「10代の後半って、なんでこうも素直に生きられなくなってしまうんだろうね」

また、ぱらぱらぱらと紙の音がした。さわりと頬に触れる風は冷たいと思っていたのに、すっかり陽に暖められた風は生暖かい。急かされるようにビッグカツの袋を開ける。チープなソースの匂いだ。捲って、その茶色い衣に齧り付いた。硬くて、懐かしい。隣の傑も同じように齧り付いている。

「硬いね」
「駄菓子だからこんなモンでしょ」
「そうだった」

世の中に食感というものはいく数多にもあるのに、思い出の味は大抵硬い。駄菓子、安い肉、火の通ってない野菜。傑の遺骨も硬かった。深みのない浅い味がして、だからこそ記憶に焼き付くのかもしれない。濡れた頬を手の甲で荒く拭き取って二口目を口に入れる。

「少し話をしてもいいかな」

どうせ私が何を言っても聞かないくせに、優しい口調で彼は断りをいれた。

そこから、傑は思い出したように語り始めた。死んだ今だから言えるんだけど、とした前置きはなかなか聞けるものではない。貴重な体験だ、なんてビッグカツを齧りながら耳を傾けた。もごもごとビッグカツを噛みながら静かな教室にその声はひっそりと響く。

高専2年の夏の出来事。世界の為に死ぬことを目的として生きてきた女の子を守ろうとしたこと。それさえ出来なかった未熟で弱い男の子のこと。だから親友に勝手に置いていかれた気持ちになって、一度歩き始めた不満と不安と疑問は明確な形を経て加速してしまったこと。死んでいく仲間たちの為に自分が出来ることを考えたこと。高専の仲間たちが憎いわけではないこと。笑えない世界で生きていくこと、死んでいくことを毎日考えていたこと。

「どうしたって思考を止めることは出来なかった。でなければ、私は私でなくなってしまう。生きる意味を失い、産まれてきた意味を失う。目の前の死から逃げれば、失った理子ちゃんや灰原の生まで否定することになるんだ。それはきっと何よりしてはいけないことだった」

斜陽が掛かるその声は淡々としていた。すっかり食べ終えたビッグカツの袋が風に吹かれて床に落ちる。悲愴な話であるはずなのに、何事もないように話す声のお陰で私もその苦々しい出来事たちを冷静に飲み込むことが出来た。死んだ彼にとっては乗り越えたことなのだろう。それは考え尽くされて、思い尽くされて、今私の眼前の言葉たちは思想の出涸らしなのだろう。

だからこそ、私は疑問を感じていた。夢というものは記憶の整理なのだという。私はこの夏油傑の腹の底を知らなかったというのに、この言葉たちはどこから生まれているのだろうと考えていた。本当に死んだ傑が私に会いに来たとでも言うのだろうか。そんな馬鹿な。考え込みながら彼と目を合わせないように後頭部を擦ると、考える時のそのクセ治ってないんだねとポツリと言われて手を下ろした。

すっかり陽は落ちて、真っ暗な部屋の外側では星が瞬いている。桜はぼんやりと幽霊のように白く浮かんでいた。それは花にも水泡にも星にも見える。夕陽のお陰で赤く見えていた傑もすっかり白い。どことなく輪郭が滲んだような姿に、そろそろ目が覚めるのだろうと悟った。星が瞬くように、瞬きをする間にすっかりこの大きな体躯は消えてしまうのだ。傑は射抜くような目力を潜めて、柔らかい目元で呟く。

「かなた、探して欲しいものがあるんだ」

彼の大きな手が私の手をとる。絡む指。じんわりと汗がにじんだ。言われた言葉が頭の中で消えそうになって、慌てて私はオウム返しをする。

「探して欲しいもの?」
「ああ。この高専のどこかに私のノートがあるはずなんだ」
「傑の部屋じゃなくて?」
「ああ。この高専のどこかに。私も幼かったからね」

その言葉の意味が分からず再びオウム返しをするが、それ以上彼は何も言わなかった。ただ口元に微笑みをたたえている。途端に黙ってしまうので、じわりと気まずさが背筋を這った。そういえば会話をするのは10年ぶりなのである。どうやって会話していたんだっけ、思い出せない。もぞもぞと身体を動かす私に傑はただ優しげな顔をしていた。「ねえ」と声を掛ける。「なんだい」と声が返ってくることに、今更不思議な感じがする。

「なんで、今日会えたんだろう」

先程感じた疑問を咄嗟に口にした。傑は表情を崩さないまま、顔を外へ向ける。2人して四角い縁の中で揺れる夜桜を見つめた。水泡のような丸いかたちがゆらりゆらりと揺れている。春だ。古い春が揺れている。

「さてね。……そういえば知ってるかい?桜って花弁が5枚なんだよ」
「知ってるけど」
「それが星みたいに見えるんだ。天の川のようなものなんじゃないかな」
「会わせてくれたってこと?」
「はは、その言い方だと私に会いたかったみたいだね」

傑が笑うと絡んだ指まで力が抜けていき、私の指から逃げそうになるところに力を入れた。逃がさないようにぐっと力を込めれば彼の顔から笑顔が消える。

「……会いたかったよ」
「そうか。……うん、やっぱり夢だね」

何度目かの夢の確認。その度に私の心が打ち砕かれることを彼はきっと知らない。そっと手を離しても彼は何も言わないのがその証だ。押し上げられるような感覚に、私は自分の腕に爪を立てた。ぎちぎちと腕の肉に爪が食い込む。なぜか痛みが鈍い。やっぱり夢だからだ。

だんだんと痛みも息苦しさも喉がつかえるような気持ちも緩慢になる。傑を見れば、顔がない。髪が短くなり、袈裟は制服になり、目元の皺が消えていく。緩やかに視界が白くなる。白く消えていく。はた、と気付いて目を留めると白に思えたそれは白ではなかった。薄紅色。眩い光が瞬刻、薄紅色を透かして咄嗟に目を閉じた。暗い瞼の内側まで白く染めるような光にびくりと震え、目が眩んだかと思えば、再び暗い瞼は黒い世界へと戻っていた。一度目を開く。それでも強い光の余韻に何度も二つの瞼は上下する。そのうちに闇に慣れ、ゆっくりと目を開くと高専の休憩室の天井を見つめていた。

───────夢、だった。

焦げ茶色の革張りのソファーから身体を起こし、床に足をつけるとやってくる明確な現実感にこめかみを押さえた。鼻につくのは安い缶コーヒーの香りに、すっかり灰になった煙草の香りだ。ローテーブルの上にはタブレットと書類が広げられ、傍に置いてあるスマホがちかりと光る。手に取って見れば何でもない、立ち寄ったことがある居酒屋の営業LINEの通知だ。確か枝豆一皿サービスという言葉に惹かれて登録したんだと思い出す。枝豆と言えば、傑がだだちゃ豆の枝豆が好きで買ってくると勝手に食べてしまうので秘密裏に買っていた思い出がふわりと蘇った。

傑。昨年のクリスマスに泥臭く命を散らせた同級生であり、好きな人であり、同時に憎い相手でもあった。

探して欲しいものがあるんだ

溜息が溢れる。なんだって私はこんなに振り回されているんだと、自分自身に辟易した。しかし、同時にどうしようもないことは気付いていて窓の外に顔を向ける。夢の中の景色と同じで、暗闇の中で桜が揺れていた。アイツが彦星だなんて納得出来ないなあと心の中で毒づきながら、頭をぐしゃぐしゃと乱雑に掻いて立ち上がった。探し物は苦手だ。記憶の中にノートの記憶もない。そもそもどんなノートなのかも聞き損ねた現状に気付いて再び溜息が溢れた。なんだか胸がむずむずと痒い。仕方なく、缶コーヒーの底にほんの少しだけ残ったコーヒーを喉に流し込んでから休憩室を後にした。

春とはいえ、夜間の廊下は冷える。気温は8度程度だろうか。昼間の燦々とした陽光が嘘のようにひそめく廊下を進み、とりあえず一度自分の部屋に戻ることにした。高専の女子寮は殆ど生徒で埋まることがないため、私は学生時代から女子寮に居を構えている。10年の間に3度部屋を移動したものの、それでも大した差はない。女子寮2階の1番奥がそこであり、鍵を回せば軽い音が響いて扉は開いた。自分の部屋だと思うとなぜかどっと湧き出る疲労感に身を任せて床に転がる。まだ夜は0時を回って間もない。ノート探しは明日にして風呂に入るか否か悩みつつ、そこら辺に転がるテレビのリモコンにご相伴預かっていると動いた拍子にペンが転げ落ちていった。ころころとそのまま備え付けのベッドの下に転がっていく。ほふく前進の状態でベッドの下を覗く様子は誰にも見られたくはないが、ひとりなら問題はない。少々間抜けな形で蠢きながらベッドの下を覗いた。使い慣れた3色ボールペンに手を伸ばした、その時である。何かが指先に触れた。ペンではない。急いでスマホのライトをつけ、ベッドの下に明かりを照らす。それは、ベッドの裏側にガムテープで留められた大学ノートだった。

いや、嘘でしょ。と思わず声が漏れた。流石に気付かないだろうという気持ちと、逆にいつからあったんだコレと感心する気持ちが入り交じる。とりあえずペンを拾ってから、ペン先でガムテープを剥がして大学ノートを手に取った。『日記』と表紙に書いてある。その文字が傑のものかは分からない。筆跡鑑定なんてもののプロではないからだ。でも変な確信がある。ページを捲ろうとしたが、変に喉が渇いて早足で冷蔵庫を開けた。酒だけが詰め込まれた小型の冷蔵庫から缶ビールを取り出し、すぐに一口流し込む。二口。ごくりごくりと喉が鳴る。限界まで一息で流し込んでから再びノートと向き合った。ガムテープのせいで裏表紙はぼろぼろだ。ぺらりとページを捲る。日付は2006年の5月2日から始まっていた。

『2006年5月2日

9時半から豊島区で任務
昼は醤油ラーメン全部のせ 味まあまあ
⇒次はなし!』

内容はたったの3行だ。妙にそれがおかしくて笑ってしまう。そうだ、夏油傑ってこんな奴だった。その後日記の日付は飛び飛びで、他愛のない日常がシンプルに綴られている。主に食事の内容で、どうやら千葉で食べた海鮮丼が美味しかったということがハッキリと分かった。しかし、7月の半ばからその様子は変貌していく。

『なぜ』
『死ななければないのか』
『なぜ』
『消費されていかなければならないのか』
『なぜ』
『猿なんかのために』

ぐちゃぐちゃと書き殴られた文字の筆圧は強く、次のページまでべこべこになっていた。吐き気がして唇を噛んだ。そのままページを捲る。ノートの半ばほどまで来ると年は跨ぎ、2007年になっていた。2007年の7月。

『灰原が死んだ。
七海に悟だけでいいのではないかと言われ、私は何も言えなかった。
私たちは一体何をしているのだろう』

その直後、ページは真っ白だった。捲っても捲っても何も書かれていない。味気ない線だけが並んでいる。他にないかと全てのページに目を通すと、最後から3ページほど前の部分が破かれていた。何か書かれていたはずだ。絶対に。ページに触れると、べこべこと指が引っ掛かった。

すぐさま身体を起こしてテーブルの上にある筆箱からシャーペンを取り出す。指先が引っ掛かった紙面の上を慎重にシャーペンを走らせた。一定のスピードで黒鉛を乗せると、言葉が浮かび上がる。

『かなたに会いたい』

ぱたりと音がした。私の手からシャーペンが滑り落ちた音で、紙面に灰色が広がる。ぱたりぱたりと灰色が広がっていくのをただただ見つめた。なぜ傑がこのノートをこっそり私に託したのかが分からない。いや、きっと思いを託したのだろう。それしか分からない。でもそれなら直接言ってくれたっていいじゃないか。

これが夢だと言うのなら、目の前にいる君は私が会いたかったかなたなんだ

言葉が脳裏に過ぎる。馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だと何度も脳内で罵った。私が会いたかったのはアンタの死体なんかじゃなかった。

満開の桜が風にそよいでいる。




×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -