Beautiful World




眼前の君の顔が温かく目を閉じていて、短めの睫毛がひとつひとつ数えられる今。薄く開いた唇から吐息が流れて、その息が私の頬に当たる。私の頭の下に入り込んだ逞しい腕の温度に頬を寄せた。隆起した筋肉は今は優しく柔らかい。閉じたカーテンの向こうで日が昇って、うっすらそれが透けて室内がぼんやりと明るくなっていくのを私は見つめていた。傑と一緒に選んだカーテンのオレンジが広がる。

夢だ、と私は思った。それなら一生醒めたくない夢だとも思う。傑が離反したなんて嘘だ。そんなことは起きていない。1人で迎えた春なんて嘘だ。春が来たら桜を見に行こうと約束したじゃないか。高専の古い校舎を囲む桜が淡く色付く様子を見つめる私の横に君がいないなんて嘘だ。そう思って瞼を閉じる頬に触れる。途端に冷たくなって、私は黒い穴に落ちた。毀れる君の姿が遠ざかる。嫌だ嫌だと私は懸命に腕を伸ばして藻掻いても落ちるスピードは変わらない。詰まる息。水泡が姿と共に遠ざかり消えていく。

「傑!!!」

叫ぶのと大きな音は同時だった。ゴン、と床に腰をぶつけた音と衝撃に転がる。状況を飲み込めずに腰を撫で付けながら顔を上げると、ベッドからシーツが流れ落ちていた。ベッドから落ちたのか。状況を理解して、ベッドの縁に座る。腰の痛みが落ち着くと、今度は激しいズキズキとした頭痛で眉間に皺が寄った。カーテンのブルーが透ける光が煩わしい。近頃飲み慣れた白い箱に手を伸ばす。鎮痛剤だ。1回1錠のところを4錠取り出して喉に流し込む。常温の水はすっかり生ぬるい。少し前まで常温でも冷たかったというのに、その温度の変化までもが嫌で堪らなかった。


今年度で最後になる制服に腕を通す。黒くぬらりとした光を反射させる制服は任務の度に何度も作り直し、1年生の頃の制服は手元に残っていない。制服のカスタムは硝子と違ってプリーツスカートにしていた。その方が可愛いと思ってしていたが、戦う時に邪魔で結局そのプリーツスカートの形は2年生の夏に作り替えてしまったのだ。渋々だった私に、傑も同じように残念がってくれた。

「私はかなたの制服可愛いと思ってたから少し残念だね」

という言葉が私も嬉しかった。だけれど、その言葉ごと制服はもう可愛い形をしていない。制服を掛けていたハンガーが手を滑って落ちて、慌てて拾う。少しひしゃげたハンガーを掛け直す。手元を滑っていく物は多い。しんと静まり返っている部屋にぽつりと溜息が落ちた。それを拾うことなく、息を整えてからブルーのカーテンをしっかり開けて部屋を出た。まだほんのりと冷たい廊下を進むと、額縁のような窓には薄紅が覗く。風にざわざわと揺れる。丁度満開のその花は幻想的に視界を淡く染めた。ぐっと心臓を締めあげられる。春が来てしまった。

「何してんの」

その言葉に顔を向けた。冷たい廊下の先に大きな男が立っている。その男は同級生の五条悟で、桜の薄紅と白銀の髪が溶けて見えた。鶯が鳴いている。

「桜咲いてるし見に行かない?」
「お腹すいてるからいいや」
「食べ物ならありまーす」

気付かなかったが、悟は右手に持った白いビニール袋を掲げて見せた。花見用に何かを買ったのだろう。その姿の横にぼんやりと傑が透けて見える気がした。早く行こう、という言葉が聞こえる。なんだか悔しくて幻影の傑の代わりに「早く行こう」と答えた。


悟は変わった。一人称は僕になったし、前より落ち着きが出てきている。人当たりも優しくなった、というより丸くなった。まるで以前の夏油傑のようになっていくのが心苦しい。傑はいとも容易く私たちを変えて、そして立ち去っていった。

「とりあえず団子でしょ、あとはやっぱり腹減ってるから弁当も買ったし、お前が好きだから唐揚げも買ったよ」
「団子と唐揚げ一緒に買ったの?」
「あまじょっぱくていいじゃん」
「個人の自由ではあるけどさ」

見せられた袋の中身に当たり障りのない会話をしつつ、廊下を進んで校舎を出た。溢れ出す光に思わず目を閉じる。目の奥まで刺激するような光に暫くぎゅ、と強く目を瞑った。そんな私の左手を誰かが掴む。大きな手。もちろんそれは悟だと頭で理解しているのに心臓が跳ねた。どきりと心が反応してしまうのは、今朝見た夢のせいだろうか。

目を細めながら腕を引かれていく。大きな背中と白銀のふわふわとした髪が桜に向かって進む。嫌味なまでの淡い水色の空にはぼんやりと雲が掛かっていた。暖かい春の陽気にほんのり冷たい風は春特有の切なさを孕んでいる。

腕を引かれるままに悟に着いていくと、グラウンド横にあるベンチに案内された。ベンチに影をつくる大きな桜の木ももれなく桜が満開だ。水泡が連なるようだった。溺れるような気さえする。溺れる意識の中で何度も悟の姿が傑に重なって頭を振った。桜の花弁を少し手で払ってベンチに座る。

「……桜、綺麗だね」
「今日満開なんだって。まだ葉も出てきてないからタイミングとしてはベストでしょ」
「確かになあ」

私がちらりと桜から悟に目線を移すと、早速団子を口に頬張っていて少し笑った。そんな私を見て団子を口いっぱいに頬張っている悟は、私の口にも団子を差し出してくる。安っぽい三色団子を受け取る。口に含むともっちりとした食感で控えめの甘さが美味しい。なかなか飲み込めない甘さを繰り返し噛んでいると、風が吹く。ざわざわと桜の木の枝が揺れた。合わせて私たちの髪も揺れる。ふと、頬に温かいものが触れた。悟の指先だ。長くて綺麗な形をした指先が、私の頬に張り付いた髪を攫う。食べそうになっていた髪も攫って、ふわりと悟の匂いがした。悟の顔は優しいような、少し柔らかい真面目な顔をしている。咄嗟に顔を逸らす。


「それは言えない」

傑の声がして顔を上げた。桜の枝に顔を隠した傑が立っている。悟の表情は分かるのに、傑の表情は全く見えない。

「根性無しかもしれない、けど」

それでいいと答えたかった。それでもいいから、何も言わなくていいから。だから、今朝のように側にいて。私の髪を攫うのは君でいて。堪えても出てくる涙に触れるのは、やっぱり傑ではなくて悟だった。

悟に顔を思い切り掴まれて、私の視界は悟でいっぱいになる。春のような男だ。桜が舞うように悟の髪も揺れていた。春の空のような瞳には私が映っている。

「あのさ」

私は声が出ない。悟の背後には傑が立っている気がしたから。

「死ぬまで一緒にいてくれる男なんて僕くらいでしょ。僕で手打てば?」
「手打つって」
「だって、アイツじゃ無理だよ」

無理。


頭が痛い。鎮痛剤を飲まなくちゃ。
また、夢に会いに行かなくちゃ。
薬を飲まなくちゃ。


悟の吐息を吸っちゃいけない女なのに、
悟の唇はやはり春のように柔らかかった。

傑が笑っている。




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