そしてまた、




人は輪廻の上に立っているらしい。

暗がりの中、ぼんやりとした視界の中に浮かび上がる男の顔がそう言った。白い歯が見え隠れする。夜目が効かない私は、懸命に目に力を入れた。身体は締め上げられたロープが肉に食い込み、僅かに顔を上げることしか出来ない。圧迫された内臓をすり抜けるように僅かな酸素を身体に流し込みながら、なんとか顎を上げた。カブトムシの幼虫のように蠢く度、胴体に密着したロープのお陰で背中がぎしりと悲鳴を上げる。こんなことになるのなら、日頃からストレッチでもして身体を柔らかくしておけば良かったと思っても後の祭りである。

ぐっと痛みに耐えながら懸命に上げた顎に、そっと男の指が触れた。するりと輪郭を撫でる指は長く、関節がごつごつと当たる。大きな手だ。冷たくて、そして少しかさついている。ひどく男らしい手に思えると同時に、だからこそ、その男を前にして抵抗らしい抵抗が出来ないことに体温が下がる。つい周りを見渡すが、辺りにあるのはほぼ暗闇だ。内側にある窓に当たるのだろう場所には木の板が恐らく釘で打ち付けてある。伽藍堂の小さな本棚、子どもの学習机、それときっとどこかにあるのだろう見えない扉。扉の場所さえ分かればと思いながら、分かったところでどうにもならないだろうと思う自分もいた。

キョロキョロと動き回る私の顔が不愉快だったのか、顎に触れていた指には次第に力が込められていく。短い爪を立てられるわけではないが、とはいえ大きな手をもつ男なのだ。背筋がぞわりと粟立つ。顔の動きを止めると、目の前の黒い塊である男が動く気配がした。ほんの僅か、肌に風が当たる。黒い服を着ているのだろう男の体勢はハッキリと見て取れないが、恐らくは跪いているのだろう。大きな片足が眼前に迫る。ぎらりと光る目と視線が交わった。

「人は輪廻の上に立っているらしい。因果応報、知ってるだろ」

返事をしろとばかりに顎に添えられた指に更に力が加わる。仕方なく、私は「だからなに」とほんの少しばかりの抵抗をしてみせた。記憶が確かなら私の制服のポケットの中にはナイフが入っているはずだ。それを使えばなんとかロープくらいなら切る事は可能だろう。

「君のナイフならここにあるよ。ほら、」

私の心を読んだかのようなその言葉に身体が強ばる。男は空いている方の手を私の眼前に晒した。少し饐えた臭い。確かに嗅ぎ覚えのある、私のナイフだと言えた。

「私は今から君を殺すが、断じてそれは私の異常な欲ではないことを理解して欲しいんだ」
「……女子高生捕まえて閉じ込めて、それで異常じゃないって?」
「そうだよ。異常なのは私じゃなく、世界の方なんだ」

なるほど、この男は狂っているのだ。世界≠ネんていう曖昧なものに責任転嫁をして己を納得させている愚かで矮小な存在なのだ。そう思うと、途端に身体の力が抜けていくのが分かった。暗がりはステージ裾で、男は舞台上の役者に感じられる。ああ、シェイクスピア。偉大なる劇作家よ、この目の前の狂った男は私を殺すというけれど死にそうなのはお前だと言ってやったら名作になれるのかしら。

「疑ってもいい。信用しなくていい。でも理解だけはして欲しいんだ」
「それって矛盾してない?」
「していないよ。私がこれからする話をすれば理解出来るはずなんだ」
「舞台の台本みたい」
「似たような物だけどね。……昔話さ」

昔話、と脳内で反芻する。私の瞳の奥の視神経を覗くような視線は遠くへ伸びた。視線が外れれば、それは濡れた黒曜石に見えた。

随分昔の話だ、と男は語り始める。




歴史のある古い学び舎には特殊な生徒が集まっていた。自らの身体を宙に浮かせられる学生もいれば、かたや、もげた手足をくっつけられるような学生もいた。学生たちはその特殊性ゆえに学び舎において寮生活をしながら、任務をこなして生活していた。

任務なんていう響きは、平凡に暮らしていた学生からすれば「スパイみたいでかっこいい」といった印象を受けた。少なくとも、とある男子学生はそう感じていた。週刊少年ジャンプにもありそうなその生活に多少なりとも胸を躍らせたのだ。

その男子学生は夏油傑と言った。夏油傑の同級生は自分を含めてたったの4人だった。
五条悟という男子学生、家入硝子という女子学生。それから、かなたという女子学生だ。入学早々にある自己紹介の前に、かなたにノートの記名を見られてナツアブラ ハリツケ≠ネんて読まれた夏油傑は早々に名を名乗ることになったのである。変な名前に変な前髪だと笑った五条悟は1秒後には床に沈められることになったのだが、意外にも人間関係というのはそういったらところから変化していった。

五条悟は親友に、
家入硝子は女友達に、
かなたは気になる女の子に。

特殊な能力が発現するその世界で、重要視されるのは能力を伴った戦闘力の強さであった。中には特殊性と貴重性の高さが一等評価される場合もあったが、それも戦闘力が高ければある程度カバー出来るものだった。その能力には等級というものが存在する。実力に応じた4級から1級・特級である。それはどうしても必要に合わせたもので、呪霊という存在に合わせて区分された。木製バットで倒せるような4級と戦車でも心細いような1級相当で、対応する人間が同じでは問題があるのは火を見るより明らかだからだ。

五条悟と夏油傑は特級に区分された。世界にたった3人しかいないとされる特級呪術師2人が同時に入学するという異例な代だ。家入硝子も特殊な術式を用いており、それを鑑みるとかなたは平均的な能力の持ち主だった。それで腐るでもなく、常に努力を重ねる姿が夏油傑にとって輝いて見えたのである。親友と肩を組み、女友達に笑われ、気になる女の子と話して過ごす日々は間違いなく青い春そのものだっただろう。

「ねえ、夏油!この前借りたアルバムめちゃくちゃ良かった!」
「良かった、他のアルバムも貸そうか?」
「いや、もう買おうかな。タワレコ付き合って欲しい!」
「いいよ」

そう言って夕日に照らされる電車に乗り込んだ。真っ赤な血潮のような陽が彼女の頬を赤く染めて、そんな彼女がそっと目を伏せる。マスカラが乗った長いまつ毛が黒い影を作って、電車が揺れる度にゆらゆらと揺らめいた。彼女と触れる左肩が熱いくらいで、共有するイヤホンがいやに冷たかったことを覚えている。

「ね、夏油」
「なんだい、かなた」

周りに聞こえないようにそっと互いに耳打ちして、その擽ったさに胸が何度だってざわついた。某曲に合わせて『100歳までよろしくね』なんて笑った彼女に笑って答えた夏油傑だったが、その100年はあまりにも早いうちに亀裂が走った。

星漿体護衛任務以降、答えの出ない堂々巡りのコールタールが思考を濁らせていくのは早かった。蝕まれていく生活。侵される自我。当たり前だと思っていた生活の隅々にまで疑問を感じた。

なぜ、私たちは消費されなければならないのか。なぜ、私たちは力を持って生まれてきてしまったのか。なぜ、私たちはあんなモノの為に死ななければならないのか。なぜ、私たちは優劣の箱に押し込められてどうしようもないと納得しなければならないのか。なぜ、なぜと考えても答えが出たものはなかった。スティーブン・ホーキングみたいにたまに見つかる答え≠フ中に私の問いがあれば良かったのだが、それは存在しなかった。

到達した物といえば、それは憎しみだった。

ある意味の思考の停止であるが、同時に私が足を前に進ませる魔法の言葉でもある。

「夏油、痩せたよね。どうしたの?」
「ただの夏バテだよ」

そんな会話を両手でおさめられないくらいにした。彼女は諦めなかった。何度だって私に問うた。そんな彼女が愛しくて、だからこそ嫌になった。私は悟のようには強くなれず、硝子のように冷静にはなれず、かなたのように素直にもなれない。

問いかけは世界から自分へと変わった。
なぜ、私は何者にもなれないのか。

入った亀裂は次第に深まり、広がり、ある日に別れに至った。座敷牢に閉じ込められて震える子どもが、脳内に蔓延る自分の問いの答えになる気がした。愚かな世界。醜い猿。不出来な自分。飲み込んだ。何だってどれだけだって飲み込んだ。誰も知らない、私だけが知る世界の味。

村人を殺した。
両親を殺した。

自分の行動に驚きは無かったが、驚いたのはその後のことだった。

世の中にある偶然というものは知らなければ良かったと思うようなもので溢れている。だから私が美々子と菜々子を小学校まで送り届けた帰りに、空き家の前を通った時に偶然見えた赤に足を止めなければ良かったのだ。住宅街のど真ん中、細い道がくねる中、古い二階建ての空き家の窓に返り血が伸びていた。飛び散る数滴と、血の主の指によって数本円を描いて伸びている。私が呪術界を離れて1年近く後のことだった。

7月某日の午前。出勤や登校の時間直後に住宅街は嘘のように静まる。添えられたように所々影を作る木々から蝉の鳴き声が溢れていた。堰を切ったように溢れ出す蝉時雨に茹だるような暑さを思い出す。その中の赤。閑静な住宅街の中にあるには治安の悪い状況に少し目を白黒させた。呪霊の気配ではない。しかし、それは非術師の気配でもなかった。弁明する訳でもないが、私は決して正義感でその空き家に足を踏み入れたわけではない。強いて言うなら、猿への憎しみを感じて同類の気配に引かれた程度のことである。結果的に、その行為はやめておくべきだった。

「……あれ?夏油だ」

高くも低くもないその声は聞き覚えのある声だった。かなただ。両腕で金属バットを振りかざし、転がる死体に執拗に打ち付けている。ヘッドバンキングのように身体を大きく前後させながら全身の体重を利用しながら、金属バットを降っている。空を切る音と硬いものが壊れる音。

ブンッ、ガンッ
ブンッ、ガンッ
ブンッ、ガンッ

私の脳ごとぶたれている気分だ。

ブンッ、ガンッ
ブンッ、ガンッ
ブンッ、ガンッ

「やめてくれ」の私の一言で、かなたは腕を止めた。血塗れの部屋の中で、蝉の悲鳴が響いている。彼女は気だるげに顔を持ち上げ、血に濡れた重い髪がだらりと下がった。笑っている。久しぶりに見る笑顔。

「なに?どうしたの、あ、久しぶりだね」

へらりと笑っても金属バットは手から離していない。私の頭は混乱していた。

なぜかなたがこんなことを。
かなたも呪詛師に?

そんなことを考えながら、こんなこと私は望んでいないのに、等と考える辺りやっぱり夏油傑は自惚れていたのかもしれなかった。何に、なんてのは薄汚れた正義感だ。そんな立場でないことはとっくに分かっていたはずなのに、彼女の凶行に手が震える。

「どうして、こんなことを」
「あー、なんかさ夏油って呪詛師で処刑対象なんだって。私、それ納得いかなくて。術式で人殺すと問答無用なんだって。えー?なにそれって思うじゃん。だからさ、術式使わずに人を殺す私を止めてみろよって話」

ね?と彼女が笑う。呪術師規定を逆手にとって、彼女は高らかに笑う。納得出来るようでいて、全く分からない。ドッドッと胸を打つ鼓動に押されて、1歩後ろに下がった。彼女は動かない。しかし蝉の悲鳴で血の海がだらーっと床を滑って私の足元にまで伸びた。饐えた臭い。




男はそこで言葉を止めた。男の震える呼吸が室内の空気を震わせて耳を擽る。泣いているのかもしれなかった。私は何かを言うべきなのか考えたが、その何か≠見つけることが出来ない。その代わりに手足を少し動かしてみる。後ろ手に縛られた手のひらがぬるりと濡れていた。ぬるりとした感触に親指と人差し指を擦り合わせる。それはぬるぬると滑って、次第に固くなっていった。ざらざらとした感触になり、粉状になる。

「かなた」

それは私の名前だったような気がする。再び跪いている男に顔を向けた。刹那、強い力で制服の襟を掴まれる。強く引き上げられる感覚にびくりと全身を揺らし、気付けば立ち上がらせられていた。久しぶりに足の裏に床面がつく。あわよくばこのロープを外して欲しいのだが、それは許されそうにない。

「かなた、人は輪廻の上に立っているんだ。だから、君がこうやってまた人を殺していることを知って納得したよ」
「何言ってんの」
「かなた、これは輪廻の中なんだ」

言われてみればそんなような気がする。輪廻という言葉を反芻する。ストン、と腹の底に何かが落ちた。ああ、なるほど。と思う。私が人を殺したくて殺したくて仕方ないのはそこから始まっていたのだ。走り出した車輪に人生を乗せて、走り出した道の半ばに私がいるのだ。私が真っ先に殺した両親は義務感に駆られた。殺さねばならない。その一心だった。それは夏油傑という男の悲劇の1ピースなのだ。

「ねえ、思い出したの夏油。輪廻の上に足を乗っけたのは私の意思だったの。もう一度、あなたに会えるように」

夏油の嗚咽が大きくなる。1度終えた命を巡らせて、そうしてまたこうやって出会えて良かった。あの時あなたは私を殺すことが出来ず、そうしてまた私もあなたを殺すことが出来なかった。互いに抱いた殺意のまま生きて、そして死んで、そしてまた生まれた。

「うん、そう。じゃあ、今度こそ終わらせないとね」

初めてのキスは血の味がした。




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