おだやかなねむり


「夏油傑は私が殺しました。理由ですよね。それ───聞きますか?」

耳裏から、さらりと髪が流れ落ちた。髪を直すことは出来ない。夏油傑の殺人を仄めかす女の両腕は呪力を封じるもので固く、動きすら奪われているからである。その様子を殺害の加害者と被害者の担任教師である夜蛾正道は固唾を飲んで見守っている。


その日、東京術師高等専門学校には動揺が広がっていた。定まった正義の道において、誰かが誰かを殺すこともある。そんな未成年の子どもを置いておくにはあまりに物騒すぎる空間に、汗を振りまきながら1人の学生が飛び込んできた。ガラッという激しい音に、休憩中の補助監督ですら肩をビクつかせる。それも普段は汗を振りまきながら走る姿を到底想像も出来ないような学生の手による音であり、補助監督と教師は目を瞬かせた。

「どうした、硝子」
「かなたが!夏油殺して、それで!」

その言葉だけで異常事態であることを察し、座っていた者は全員立ち上がった。

「五条が、かなたのこと殺しそう」

語尾は震えていた。すぐに夜蛾が立ち上がり、家入硝子の肩を叩く。いや、手を置く程度だ。少し汗ばんだ温かい手の温度をもってしても、硝子は未だ青白い顔をしている。夜蛾はすぐに複数の補助監督を引き連れ、家入から場所を聞いて飛び出した。とは言え、状況は未だ理解出来ずにいる。なぜ同級生同士が殺し″っているのか。頭が理解を拒絶していた。人気のない静かな廊下は途端に騒がしくなり、殺風景な廊下は激しく軋んだ。日差しは陰り、小雨が降り始めたのを意識の端で感じる。一気に気温が下がった秋口、懸命に足を動かした。


「なんで傑を殺した」
「殺したかったからだよ」
「だから!それがなんでだって聞いてんだよ!!」
「何も気付かない五条に言っても意味ないんだよ!!!」

騒がしい足音にも掻き消されない確かな怒号が響いた。永遠に辿り着かないのではないかと思われるような冷たい廊下を抜け、正面ロータリーにまで進むと2人のまだ若い学生は姿を現した。2人は冷たい小雨に打たれている。サーッという軽い音がロータリーを囲む青い草木から流れる。

2人の呪力は満ちていた。目を血走らせ、その呪力をもって互いを力づくにどうにか≠オようとしている。いや、それはどちらかと言えば五条の方だろう。かなたという女生徒は手負いの獣のようだった。全身を血で赤く染めている。黒い制服に身を包んだ五条と対照的に、かなたはTシャツであり、かなりラフな格好を不釣り合いに赤く染めていた。夜蛾が2人の格好にまで意識が向かったのは、あまりの動揺から来る呪力量が凄まじく、声を掛けるのを一瞬でも躊躇ったからであった。「……夜蛾先生」そう、かなたに呟かれるまで誰も動けなかった。そして、その言葉でようやく五条は夜蛾とその一行を美しい碧眼に映す。その碧は今だけはとっぷりと昏く映っていた。

「夜蛾先生、コイツ、傑殺した」
「……硝子から聞いた。何が起きている。まずは俺に話せ」

構えていた2人はそっとその手を下ろした。少し落ち着いた2人の呪力に、やっと息がまともに吸えた。と同時にドンドン、と激しい鼓動が胸を叩いている。たまらずに右手で胸を軽く押さえた。雨は次第に勢いが増していく。重く変わっていく草木の音に背中を押されるように、2人に少し近付く。数歩近付くと、先程までは気が付かなかったがかなたの足元には黒いリュックが置かれていることに気が付いた。夜蛾は思わず注視する。

「それは何だ」
「ああ……夏油の首です」

足が止まる。場にいる全員が息を飲んだことが分かった。たじろいだ一瞬のうちに雨は大粒へと変わり、遠くでは雷鳴が轟いている。激しい雷雨は視界を悪くした。

夜蛾は教師として、学生たちを愛している。無論、中には道半ばでその命を落とす者も少なくは無い。しかし、その分教えてやれることは自分が教えてやろうと意気込んでいる部分は教師になりたての昔から変わらない。夜蛾は子どもを愛していた。その愛する子どもたちがどんな表情をしているのかさえ、この雨の中ではもう分からなくなっている。

濡れ鼠となったかなたがそのリュックに手を伸ばすと、五条が再び手を構えた。術式順転蒼≠フ構えだ。ざわりと補助監督たちがどよめいた。そして何人かは状況を察して呪術師たちに電話を掛け始めたが、五条が本気なのであれば止められる者などいないだろう。あの、夏油傑でない限り。夜蛾は自らの無力感におもわず五条の名を叫んだ。諌めるような声音は出てこず、やめてくれと懇願するような声音だった。

「なんで傑殺したんだよ」
「だから!殺したくて!」
「それが分からねぇって言ってんだよ!!」

先程遠くから聞こえた押し問答が繰り返される。息を飲み、たじろいだ体に鞭を打って再び彼らの元を目指す。1歩1歩踏みしめれば、それは大した距離ではなかった。いつ術式を展開するか分からない五条の手に触れ、物理的にその手を下ろさせる。納得いかないという顔をされるかと思えば、意外にも間近で見た五条の顔は雨も相まって泣いているようだ。「先生」と2人の声が重なる。

「お前たちの話がキチンと聞きたいんだ。何があったんだ」
「私が夏油殺しました」
「なんでだ」

そう言いながら、夏油の首が入っているというリュックに夜蛾は恐る恐る手を伸ばした。職業上、教え子の死体を見ることはあれど。首だけを見るというのは初めてだった。その上、それが同級生同士の殺し合いとなれば尚更だ。リュックのグラブループに指を掛ける。指先にずしりとした重みが加わった。なるほど、頭1つ分ほどの重みだろう。

「殺したかったんですよ、先生。非術師を嫌いになって、この世界ではあまりに生きづらくて───でも、自分が過去に言った倫理観のせいで前に進むことも下がることも出来なくなった夏油を、私、殺したかったんです」

は、と五条が呼吸をもらす。夜蛾は横目で五条が構えていないことを確認してから、リュックのジッパーをスライドさせた。ジーッという音と、中から現れた白いビニール袋が雨に打たれてカサカサと音を立てる。むわりと漂う血の匂い。ビニール袋に封はされておらず、少し動かせば見慣れた髪型の首を覗くことが出来た。軽く目を閉じ、随分穏やかな顔をした生首だ。冷たい。死んでいる。

「死にたいの?って、私聞いたんです。聞いたんですよ。そしたら夏油は、そんなことは許されないだろうって言うんです。特級呪術師は数が少ないから生きないといけないんだって、戦い続けないといけないんだって。おかしいですよね、非術師が嫌いだって言っているのに。非術師のために呪術師はどうして消費されていかないといけないんだ、とか言いながらですよ。呪われてたんです、自分に。稚拙な言葉ですけど、結局自分の味方なんて自分しかいないんですよ。何かあれば自分だけは自分と一緒ですからね。なのに、夏油は自分を呪ってたんですよ。馬鹿ですよね。だから殺したんです。だから食べたんですよ」
「食べた?」

咄嗟に言葉が出た。いや、考えないわけではなかった。首がここにあるのであれば、じゃあ身体はどこにあるんだという話になる。下から見上げる女生徒の顔は昏い。昏くて、輪郭は雨に流されて、どんな顔をしているのか本当に分からない。

「食べましたよ。首から下、全部。」

ザーッと雨が降っている。五条の嗚咽が地に落ちた。





2007年8月14日発生
夏油傑特級術師死亡事件報告書


《調査報告書》平成19年8月14日

夏油術師を殺害したと月島元術師が自供。
「私が夏油を殺しました」という発言を繰り返す。理由は語らず。

殺害方法が刃物による刺殺であると思われたことと、被害が呪術師のため、呪術規定9条には当てはまらないと判断。しかし、特級術師を失った被害は甚大であることから秘匿死刑が決定された。




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