最悪の出会い


 
 カンカン照りの真夏日、クーラーのよく効いた職員室に突然呼び出された。神妙な面持ちで担任に「今日は家に帰らない方がいい」と言われたのが1時間ほど前の話だ。

 理由は口元をもごもごと動かすだけで、教えてはもらえなかった。周囲の先生たちは顔を見合わせて、どうするべきか悩んでいるといった様子だったのは確かに見てとれた。
私はその場で分かりました、友達の家に泊まります。とは言ったものの、家に何かあったのならそれを確かめなくては、と私は職員室をあとにした。



 私の家はあまり“いい家”ではない。
 包丁で切りつけられたり、ビール瓶で殴られたり、階段から突き落とされたり、冬に薄着で2階から突き落とされて家に入れては貰えない。
いい子というのは大人にとって“都合のいい子ども”のことを言うのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 都合のいいサンドバッグ生活を17年間続けてきた。
 両親にとって都合の悪いことも多々あった。通報などがそれだ。しかし外面のいいあの人たちが学校を巻き込むのは珍しい。一体何が起きたというのだろう。



 私は息を切らせながら自転車を漕ぐ。額から吹き出る汗が丸い頬を伝って顎から垂れていく。バイト代で買った安いイヤホンも今はスクールバッグの中だ。
 強い陽射しが黒髪とハンドルを握る手の甲を容赦なく焼いていく。



 ガチャン、と自転車が大きな音を立てる。急いで自転車を下りるが、違和感。

 庭に普段ならある車が2台、無いのだ。別に両親が出掛けているだけ。そう思えば大した問題ではないのに胸騒ぎがその日は治まらなくて。


 私は急いでもつれる足を動かした。蜘蛛の巣が張った家の扉を開ける。普段なら固く私を拒絶している扉は何事もなく開いた。


 何も無い。


 靴立ても、スリッパ立ても、ソファーも、テレビも、カーテンすら。

 空っぽ。

 残っているのは母親が私を壁際に追い詰めて刺した包丁の跡だけ。


 少し埃っぽく、埃の絡まった長い黒髪がそこら中に落ちているフローリングには無数の足跡が歩き回っていた。大きさ的には男性だろうか。階段を上る足跡を見た瞬間、私は強く手すりを掴んで2階へかけ上った。左手すぐにある自分の部屋を開ける。

 その部屋も、空っぽ。

 もう何年も前に年の離れた姉が、両親から逃げるように出て行ってから、1人で使うようになった2段ベッドも無くなっていて、私は脱力してしまった。


 幸か不幸か、私を縛っていた何もかもが突然無くなってしまったのだ。
 
 突然、全て。
 


 瞬きを忘れてしまっていたのか、視界が揺れて、滲んで溶けていく。じわじわと目頭が熱い。焼けた手の甲では雫を止めることはかなわなかった。

 空っぽの家に、いや、空っぽの箱に私の息は妙に響く。思わず脱力して座り込んだ。つるりとしたフローリングは私に随分と素っ気ない。


「あれ、いるじゃん」

 フローリングを見つめていた視線をゆっくり上げると“いかにも”な人が私の部屋のベランダで煙草を吸っていた。

 白いジャケットに、蛇柄のシャツを着崩した白い髪の目鼻立ちの整った美しい男性。

 脳内でアラートが鳴る。

 だめだ、関わってはだめ。

 急いで立ち上がって振り向くと、そこには柔らかいが弾力のある壁があった。顔を上げると、そこにも“いかにも”な人が立っていた。

 先程の美しい男性とはまた違う印象の綺麗な人で、スカーフのような鎖が張り巡らされたシャツを腕まくりしている。その腕からは刺青が見える。太めの腕にスマートフォンは小さく見えた。ハーフアップに括られた長い黒髪は少し乱れていて、開いている窓からの風でゆらりと揺れていた。

「おや、まだ人いたんだね」
「僕も今見た。あいつらの子供でしょ」

 扉にも窓にも、きっと、ヤクザ。

 少し後ずさりして2段ベッドがあった場所にゆっくり下がっていくと、2人は何が面白いのか笑い始めた。

「警戒心丸出し。ま、そっか」

 白髪の美しい人の方が火のついたままの煙草を2階から落とす。私が両親によく落とされていたように。

「僕たちヤクザ。分かる?お前の親父が僕たちから借金して逃げたわけ」
「しゃ、きん……」
「そ、だからこれはその回収」
 まだ全然足りないけどね。とその人は言う。
「でも見つけたよ、悟」
「マジ?さっすが傑、仕事早いねー」

 握り締めていたスマホはそういう事か。恐らく私の父親は捕まったのだろう。

 父親が捕まったということは、母親も。

 美しい人は笑いながら土足で私の部屋を踏み荒らす。先の尖った高そうな革靴。

 私はただそれを見ていることしか出来ない。

「ねぇ、君さ。かなたって子でしょ」
「あ、はい」
「今日君の学校に電話したんだよね」

 成程、それで先生たちは帰るなと言ったわけだ。ヤクザがいるから帰るな、とは確かに職員室では言いづらいだろう。

「どうせ教師に止められたんじゃないの?帰るな、って」

 見透かされている。

 いや、当然のことなのかもしれない。私にとっては突然の出来事でも、この人達からすればきっと日常茶飯事なんだ。

「なのに、よく帰ってきたね」

 美しくて怖い革靴の人が私に近付いてくる。靴音に合わせて鼓動が大きく跳ねる。

 死だ。遂に私は死ぬのかもしれない。

 でも想像とは違っていて、いい子いい子と言ってその人は私の頭を撫でていた。つい呆けて、顔を上げてしまう。2人とも大柄で背の高い人達だ。見上げて少し首が痛い。


 いい人?

 なんてそんな筈ないのに希望を持ってしまう。その人は「傑」と一言言うと、傑と呼ばれた黒髪の男らしい人も私に近付いてきて私の腕を強く上に引っ張り上げた。思わず痛みを訴えそうになるが、言える空気ではない。ダサい青色の高校の制服がその人の手によって容赦なく脱がされていく。

 ハッとした時にはシャツ1枚にされていた。急いで下を隠す。でもその抵抗も無駄で、傑じゃない方の人が私の腕をいとも容易く掴んで身体から離してしまった。

 ただもじもじと動くことしか出来ない私は一瞬で下着だけの姿にされてしまった。上下の揃っていない綿の下着が更に恥ずかしい。すると2人の品定めするような視線がまとわりついてきた。じっとりと湿度を持った目線で頭が沸騰してしまいそうだ。しかし恐怖と羞恥で動けない。

 暫くしたあと、口を開いたのは傑と呼ばれた人の方だった。

「駄目だと思うけど。どうする?悟」
「確かに駄目かなー」

 口を揃えて駄目だ駄目だと言われるとは思わず、羞恥が恐怖を勝った。

 また目頭が熱くなる。

「顔が良くても、こんな傷だらけじゃ商品にならないね」

 傷。
両親に付けられたものだろうか。


 冷静に身体を見れば確かに私は傷だらけだ。若いので傷口はよく塞がるし、消えるのだが、完璧に消える前に上書きされるのだ。だからミニスカートも履かなかったし、タンクトップも着たことはない。出来るだけ半袖も嫌がった。夏のジャージは最悪だったけど、それでも切り傷や打撲痕を見られるよりマシだった。ゆえにこんな真夏日にも関わらず私はダサい青色のジャケットも着ている。

「分けるなら中身かな」
「それが無難だろうな」

 中身。私は思わず自分の身体を見る。
 傷だらけのお腹を擦ると呼吸に合わせてゆっくり上下していた。

「ねぇ、君。今ね、私たちの所にお父さんがいるんだけど。何か伝えたいことはあるかい」

 傑と呼ばれている人が優しく問う。
 黒く、小さめの黒目が私の目を覗く。私の本音を覗こうとしているのは下着姿の滑稽な、頭の悪いただの女子高生でも分かった。

「何でも、いいんですか」
「いいよ」

 じゃあ、と。
 私は息を深く吸った。



「死に晒せ、と」

 2人は目を合わせて、きょとんとした後、腹を抱えて笑いだした。それはそれは普通の人のように、箸が転がった高校生のように無邪気に笑うものだから私はまた呆けてしまった。

「だってさ、傑。そう伝えなよ」
「分かったよ。いいね、面白い」

 悟、と呼ばれた方の人は剥ぎ取った服を私に投げて、着なよ、と一言言った。私は急いで背を向け、ダサい青色の制服に腕を通す。その間怖い単語が飛び交う電話が背後でしていたけれど、聞こえないフリをした。その中に「死に晒せ」って言葉があったことだけは分かった。

 服を一通り着終わった私は再度2人に向き直った。急いで着たこともあって汗が鬱陶しくて、長い髪が顔に貼り付く。悟と呼ばれた人はその顔に貼り付いた髪を私の顔から解放しながら上から私を見下ろした。

「ねぇ、君さ、僕たちと来ない?」
「悟、猫を拾うのとは訳が違うんだよ」
「分かってるよ。でも僕気に入っちゃった」

 悟と呼ばれた人が私の乱雑に伸ばされた長い髪を掴んで視線を無理矢理合わせられる。
 こんなに綺麗な青、どこで見たんだっけ。

「ねぇ、かなたちゃん。君、処女?」
「え……あ、はい」
「うん。クスリってやったことある?」
「ない、です」

 クスリって麻薬ことだよね?と思いながら頭を引っ張られながらもほんの少しだけ頷いた。

「よーし、新品新品。連れて帰ろ!」
「はぁ……また親父に何言われても知らないよ」
「別に怖くないし」

 いつの間にか私の頭は解放されていて、大きな手が私の手を包んでいる。

 私の目線はその人の胸元。身長差を感じながらも顔を上げると、いいからいいから、と階段を上機嫌で降りていく。傑と呼ばれた人は仕方ないね、と溜息をついていた。

 あ、そーだ!と私の腕を引いている人が言った。

「僕は五条悟。そっちが夏油傑。これから君が頑張れるなら、末永くよろしく?」

 すると、私の額からちゅ、と随分可愛らしい音が聞こえた。

 額のキスってどういう意味があるんだっけ、なんて。それどころじゃないのに麻痺した頭でぼんやり考えながら私は黒塗りの車に乗ったのだった。






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