お題企画 | ナノ


この夜は君にあげる




硝子と2軒目に訪れたこのバーは、隠れるように佇んでいたドアに似合いのクラシカルな内装が美しい。
隣に座る硝子が、指先で髪をくるくると弄びながら笑った。

「なまえ、わりと回ってるな。顔が真っ赤だ」
「うそ。弱くなったかな」
「五条の下戸がうつったのかも」
「医者のくせに非現実的なこと言うね」

グラスを身体に寄せると、しゅわしゅわと表面に消えていった気泡の残滓がかすかに手に纏わりつく。
鼻に抜けるアルコールの香りにくらりと目眩がした。1軒目でわりと飲んだとはいえ、こんなジュースみたいなカクテルがダメ押しになるとは。
硝子の言う通り、悟に合わせてジュースばっかり飲んでいたせいか下戸になったのかもしれない。

「んー眠くなってきたよぉ」
「誰が非現実的だって?」
「ごめんなさい硝子センセー」
「ちゃんと眠れてるのか」
「……あんまり」
「別に喧嘩別れした訳じゃないんだろ」

バーの烟るような暗闇に瞼が落ちかけるのを堪えながら、カウンターの木目を指先でひたすらになぞる。
硝子は私と悟が別れた理由を何も聞かなかった。そのせいか、自然と喋ってしまいたくなる。

「……私は、悟に望むことが多すぎたんだよね」
「アイツにはそのくらいで丁度いいんじゃないか」

ライムと塩が置かれた小皿を指先で拭って、ぺろりと舐めた硝子はどう見てもシラフだった。さっきあれだけ日本酒飲んでたくせに、さすが酒豪。
それに引き換え、私は相当酔っている。自分の血液が流れている音が耳の奥に響いて、視界の端っこが白く霞んでいく。

「あー、結構酔ってる。眠い」
「……未練があるならやり直したらどうだ」
「いや無理だって」
「何が無理なの?」
「え」

聴き慣れた声が突如、私と硝子の間に挟まる。
薄暗いバーの中で、こちらに顔を向けている彼の周りだけが光って見えた。

「は?さとる?」
「遅かったな」
「ごめんごめん。ミカン達に捕まっててね」
「なまえをどうにかしてくれ。私はもう少し飲んでいく」
「了解ー」
「え。硝子、私もいっしょに」
「じゃ。ちゃんと送ってもらえよ」
「ちょっと」
「あーあ、オマエ飲み過ぎ。ほら行くよ」

テキーラを飲み干した硝子が「今夜は眠れると良いな」と小声で呟いた。




店の前にはタクシーが付けられていて、半ば強引に押し込まれる。悟が「外苑西通りまで」と告げたその場所は、いくつかある悟の家のうち私が最もよく通っていた場所だ。
酔っていた頭は徐々に冴えてきて、それでも身体にはアルコールが泥のように絡み付いて重たい。せめてもの反抗に悟の肩を叩いた筈の手のひらは、大きな手によって掴み取られてしまった。

「ねえ、悟んちには行かないよ」
「少し休んでいきな。オマエの荷物まだあるし」
「全部捨てといて」
「えーバッグとか靴もいらないの?なんかエルメスの丸っこいやつも捨てていい?」
「……あれは駄目」
「他にも必要なもんあるでしょ。持って帰ればいいじゃん」

ボリードを人質にするなんて、なんて酷い男だ。とはいえあれも悟からのプレゼントだけど、物に罪はない。全て回収してさっさと帰ろう。そんな私の決心を読んだみたいに、悟の指が私の頬に添えられる。
くい、と顔を悟の方へ向けられると、タクシーの窓に流れる夜景が悟の頬へ影を落としていた。
一瞬、差し込む光が六眼に反射して白く光る。

「さ、とる」
「なまえの嫌がることは何もしない。誓うよ」

タクシーの車内には、やけに明るい声のラジオCMだけが流れていた。私は悟のその真剣な目に何も返事ができないまま、窓にもたれかかって酔ったふりをし続けていた。





悟の部屋は相変わらず殺風景だけれど、私が持ち込んだ物は殆どがそのままだ。馴染んだソファに腰を下ろすと、水を持った悟が私の隣へと座った。

「はい。ちょっとは落ち着いた?」
「ん、ありがとう」
「なまえが酔うまで飲むなんて珍しいね」
「もしかして弱くなったのかも」
「……僕の下戸がうつったかな」

そう言った悟の声は、低くて甘い。
まずい、と思った時にはもう遅かった。煌めく星屑をまぶしたような六眼は私の瞳を捉えていて、悟の手も、私の手に重ねられている。
動けなかった。何も言えなかった。
悟に見つめられると、私はどうにも駄目になる。

「……その顔、やめてよ」
「その顔って?」
「怖い顔」

私の一挙一動、呼吸の僅かなブレすらをも観察して、どうすれば籠絡させられるかを計算してる顔。
「酷いなあ」と笑った悟が身体を寄せてくる。その体温も匂いも、ちっとも嫌じゃない自分が情けなくて叫び出しそうだ。

「悟」
「嫌?なまえが嫌ならやめる」
「……ずるい」
「ふふ。うん、ずるいね」

部屋の中は静まりかえっていて、僅かなソファの軋みと悟の小さな笑い声だけが響いた。
ここから早く逃げなくては、そう思うのに身体は縫いとめられたみたいに動かない。悟の眉間が、切なげに寄せられる。

「ずるいこと言ってでもなまえを取り戻したい」
「も、やめて」
「なまえ」

目頭が熱くて、後ろに倒れ込んでしまいそうになる。いつの間にか背中に回されていた手に身体を預けると、悟の身体の熱がますます近づいてくる。
すぐ目の前に、見慣れた星空の瞳が広がっていた。けぶるようなまつ毛が小さく揺れて、悟の目元に影を作る。そのせいか、彼の表情はひどく悲しげに見えた。

「ついこの間までこの唇も耳も、髪も」
「や、」

少し冷えた悟の指先が、私の唇に触れる。そのまま顎を伝って、耳の形を確かめるように撫でた。

「全部、僕のだったのに」

ほんの数センチ。姿勢を正せばすぐにくっついてしまいそうな距離に、悟がいる。
別れてからもずっと、忘れてしまわないよう何度も思い出していた。悟の唇の柔らかさ、体温、抱き締めた時の感覚。悟からふわりと立ち上る香水の香りのせいで、それらが生々しく蘇ってくる。

「……絆されたくない」
「絆されてよ。……なまえ、僕を救って」

私の耳をなぞっていた指が、首の後ろへと回された。
逃げ出したかったはずなのに。唇が重なった瞬間、求めていたものを与えられた悦びに思わず涙が出そうになる。
長いまつ毛が重たげに持ち上がると、美しい青い瞳が私を映す。熱い舌が口内に入り込んでくる。いつもの悟らしくない、性急で、奪うかのような口付けだった。

「だ、っめ」
「何で」
「……私たち、きっとまた失敗する」
「しない。僕にもう一回だけチャンスをちょうだい」

口付けから逃れようと悟の鎖骨に顔を押し当てると、懐かしくて愛おしい感覚にますます心が揺れる。
悟を拒むための言葉を考えたいのに、受け入れるための言い訳ばかりが浮かんでくる。これは悪手だったかもしれない。

「なまえの気持ちに気付けなかったこと、毎日後悔してる」
「違う、私が子どもだった」
「それならもっと僕に甘えて。なまえのためなら何でもできるよ」
「……どうしよう」
「オマエは本当に頑固だね」

背中を叩くリズムが心地よくて、涙が滲んでくる。くすくすと笑う悟の身体が小さく揺れた。

「僕はまだなまえの事が好き。大好き。なまえは?」
「う、それは」
「いいよ。オマエが素直になるまでこうしてる」

悟がこんなに真剣な声で喋るの、初めて聴いたかもしれない。素直に背中に手を回すのが悔しくて、悟の黒いTシャツの裾を握りしめた。

「……何もしないって言ったくせに」
「うん。“嫌がることは”何もしないって言ったよ」
「本当に性格悪い」
「なまえのことになると必死になっちゃってね」

上目に見た悟は、叱られた子どものような顔をしていた。抜けるような白い肌にはかすかにクマが浮き出ていて、心なしか疲れている様に見える。
今夜はよく眠れるといいな、と硝子が言った相手は、私だけじゃなくて、

「悟」

呼び掛けへの返事の代わりか、悟の甘やかなため息が耳元に落ちる。背中を優しく叩いていた手がピタリと止まった。
絆されてしまったと、明日の朝には後悔するかもしれない。

「……僕を救ってくれる?」

それでも今夜だけはこのまま、ふたりで眠ってしまいたい。
再び重なった悟の唇は、ほんの少しだけ震えているような気がした。





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