駅のホームで誰かを待ってる


LEDの青白い光に照らされた電車内の人々は、ほとんど全員がスマホを見つめていた。たまに視線を外しては、目を閉じて小さなため息を吐く。
みんな、大人の顔をしていた。
何かを諦めているようで、それでも自分の人生の底のほうに、僅かに美しい煌めきが残っていることを願っているような顔だった。

『……次は、ーーー、ーーーです。お出口は、左側です……』

私も多分、大人の顔をしている。
8センチのハイヒールで擦りむけた踵が、じんじんと熱を帯び始めていた。やっぱり慣れない靴は履くものじゃない。
駅に着いたら絆創膏を貼ろう、と目を閉じてポーチの中の絆創膏のことを考える。

以前、任務で一緒になった猪野に「なまえサンってそういうの持ち歩くタイプなんすね」と驚かれた。ハンカチ、ティッシュ、絆創膏。
「そりゃ大人の女だからね」と笑うと、猪野は生意気にも鼻で笑いやがった。確かに、大人の女は未練がましく元彼の影を追い続けたりはしない、と思う。





傑は、いつもハンカチと絆創膏を持ち歩いていた。
手を洗った後、濡れた手をぶんぶんと振る私を見ては呆れたように笑ってハンカチを差し出してくれる。
傑は、私の青春の全てだった。

最後のデートは傑が離反したあの夏、8月にふたりで行った花火大会。浴衣を着たかったけどそれは叶わず、せめて少しでもお洒落がしたかった私は新しいサンダルを履いて行った。3センチヒールの、白いサンダルだった。



その日、高専の最寄り駅のホームは花火大会へ向かう人々でいつになく賑わっていた。
浴衣を着た女の子達の笑い声が蝉の声と混ざる。赤やピンク、青の浴衣が可愛くて羨ましくて、つい目で追ってしまう。

「はぁ、浴衣着たかったなぁ」
「仕方がないさ」
「傑はわたしの浴衣姿見たくないの?!」
「見たいよ。なまえは浴衣も似合うだろうから」
「……そうかな」
「その靴も可愛いね。よく似合ってる」
「気づいてたの?」
「勿論」

傑に見せたいがためだけに、新しくおろした白いサンダル。
実はさっきから踵が擦れて痛くなってきて、もう二度と履くもんかなんて思ったことを詫びよう。

似合ってる、だって。その言葉を飴玉みたいに転がすと、浴衣姿の女の子達を見て萎んでいた心が元気になってくるから不思議だ。

「……なまえ、ちょっとごめん」
「うわ、なに」

傑の大きな手が私の肩に置かれた次の瞬間、視界が滑るように横になって、気がついた時にはすっかり傑に横抱きにされていた。
力強い腕は軽々と私の身体を運んでいく。傑が「動かないでね」と言って、口角をほんの少し持ち上げて笑った。

女の子達がはしゃぐ声を小耳に傑にしがみついていると、ホームのベンチにふわりと落とされる。
地面に膝をついた傑が、さっきまで私の背中を支えていた左手でサンダルのフックを外した。

「傑?」
「靴擦れ、酷くなるといけないから」
「……気付いてたの?」
「足出して」

少し乾燥している大きな手のひらにそっと足を乗せる。シンデレラになったみたい、なんて言ったら子どもじみているだろうか。
傑は「小さな足だね」なんて笑いながら、ポケットに入っていたせいで皺の寄った絆創膏をぴりりと開けた。

「ありがとう」
「うん。こちらこそありがとう」
「何が?」
「新しい靴、見せてくれて。痛かっただろ」
「……大丈夫」
「本当になまえによく似合ってる」

私を上目に見た傑が、「可愛い」と噛み締めるように続ける。
丁寧に貼り付けられた絆創膏はあんまりにも綺麗に馴染んでいるから、このまま私の皮膚になってしまいそうだった。

「絆創膏貼るの、上手いね」
「そう?怪我慣れしてるからかな」
「わたし下手なんだよねえ。くっついちゃう」
「……じゃあ、」

その後、傑がなんて言ったかはもう忘れた。
正確に言えば、もう、忘れてしまいたい。





『ーーー、ーーーに到着です。お忘れ物をなさいませんようお気をつけください……』

電車のドアが開いて、晩夏の湿度を孕んだ空気が頬に吹き付ける。青草と、昼間の太陽に焼けたコンクリートの匂い。
どこかで夏祭りがあったのだろう、浴衣姿の女の子が帯を気にしながらホームを歩いていく。からころ、からころと下駄の音が遠のいて行く。

誰もいないホームのベンチに腰を落とすと、踵の痛みがじんじんと身体中に巡り始める。ポーチの中から絆創膏を取り出して、セロファンをゆっくりと剥がす。

大人になった今でも、私は絆創膏を貼るのが下手くそなままだ。それでも差し出してくれる人も貼ってくれる手も、もう何処にも居ない。


「……うそつき」

あの白いサンダルはとっくに捨てた。傑は、この8センチのハイヒールも「よく似合ってる」と褒めてくれるだろうか。


綺麗に貼ろうとしたはずの絆創膏は、やっぱり端がぺたりとくっ付いてなかなか上手くいかない。貼り直そうと頭を下げて身体を縮こませると、一気に脳に血が巡ってぐらりと視界が滲む。

ああ、暑いし痛いし最悪だ。くらくらする。

無造作に転がしていたハイヒールへふと視線をやると、脇に佇む黒い革靴が目に入る。誰もいないはずだったホームにいつの間にか人が居たことにすら気が付かないなんて、自分で思っているより疲れているのかもしれなかった。

「あ、すみません」
ハイヒールを寄せた私のすぐ頭上で、その人の押し殺すような笑い声が聞こえた。


「私が貼ってあげようか」

呼吸が止まる。蝉時雨が遠くなっていく。
あの日の、忘れてしまいたかったはずの傑の言葉。
それなのに私はいつまでもこうして、傑の全てを覚えている。



(JOIN:彗星図鑑とタルトタタン+加筆修正)





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