同じ春を踏む



桜色の入学式も終わって、じめじめとした梅雨が鼻先までやってくる。ただでさえ憂鬱な授業に向かうまでの道も、この天気では一層憂鬱だ。雲が落ちてきそうなほど近い空は灰色で、5月をもっと楽しんでおけば良かったと後悔すらしてくる。結局ダラダラと部屋でゲームをしたり漫画を読んでいる間にあの輝く春は過ぎ去ってしまった。高校一年生の春はもう二度と戻ってこない。



がらりと教室のドアを開ける。くすんだ空から漏れる薄暗い教室の中で、一際ぴかぴかと光る髪が揺れた。

「なまえ、遅刻ー」
「あれ、悟だけ?」
「傑は任務」

硝子は反転術式についての研修会とやらで京都に出張中だった。反転術式を使える術師は貴重だから、上層部がツバ付けておこうとでも思っているのかもしれない。

「えーじゃあ悟と2人かあ」
「んだよその言い方。最高だろ」
「だって悟、ノート取らないじゃん。写させて欲しいのに」
「取んなくても分かんだろ、あんなの」
「それが全然分かんないの!」

黒板には『自習』の文字と、ご丁寧にプリントの束が机に置かれている。呪力の流れだとか、呪いの発生のメカニズムだとか、一般家庭で生まれ育った私にはさっぱり理解不能だ。傑も一般家庭出身者のはずなのに、元々の頭が良いからかすっかり理解している様子だった。逸材揃いの同級生たちに比べて、自分の見事なまでの凡人っぷり。もはや落ち込む気すら湧いてこない。

「そんな難しいもんかね」と悟が唇を尖らせる。組まれた脚は長すぎて、机の下に収まらず身体を斜めにしてこちら側に向けている。頬杖をついて圧迫された頬が唇の横に寄って、幼い印象をより強めていた。
悟は背が高いくせによくよく顔を見ると童顔だ。ぱちぱちとよく動く長いまつ毛の儚さ。黙っていれば夢みたいに綺麗な顔をしている。

「なに見てんの、なまえのエッチ」
「……そういうとこ」
「なにが?」

2人きりの薄暗い教室はがらんとしていた。傑と硝子の席を挟んで、悟の席から最も遠い自席に座るのも妙に思えてくる。悟の隣である傑の席に座ると、少し嬉しそうな顔をした悟が机に突っ伏してこちらを覗き込んだ。

「なまえが隣ってなんか新鮮だな」
「そうだね。傑が大きいからいつも悟の髪の毛しか見えないよ」
「やっぱり?俺座高低いしね」
「ウザっ。まあそうだね」

背後の曇天がまるで用意された背景かのように悟の六眼を浮かび上がらせる。小さな宇宙のように輝くその瞳は、何度見たってその美しさにうっとりする。悟の瞳が私達みたいな普通の瞳だったらそれはそれで綺麗なんだろうけど。

「悟の目ってほんと綺麗。不思議」
「……あー、これ。よく言われる」
「宇宙みたい。どうなってんの?眼科とか行ったことある?」
「ねーよ。実家いた頃は往診来たけど」
「へえ、なんか凄いね」
「ウザいよな」

ゆっくり瞼を上げ下げした悟が溜息を吐いた。私は、悟の瞳の小さな宇宙、その煌めきから目が離せなくなっていた。虹彩は青く澄み切っていて、瞳孔は深くて暗い群青を湛えている。縁取るまつ毛までが白銀に美しく輝いていて、時折瞬きを繰り返しながらもその瞳がじっと私を見つめ返す。

悟も私も、しばらく微動だにしなかった。悟の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。はたりと瞬きをする。その瞬間、私の唇に温かくて柔らかいものが触れた。気がついたときには既にそれは離れていって、目の前には青く澄み切った悟の瞳があるだけだった。


「……あ」
「いやそれ私のセリフ」

一瞬で離れていったはずなのに、唇にじんじんと何かが残っている気がして落ち着かない。口をぴったりと一文字に結んで、目を丸くしていた悟の顔がみるみる赤くなっていく。

「悪ぃ、つい。……うわ」
「私のファーストキスが」
「え、マジで?」
「マジで」

ずれて意味を成していないサングラスを机に置いた悟が、うわーだかはぁーだかよく分からない声を上げる。それも私のセリフだ。こんな形で、まさか悟と。

「なんで、キスしたの」
「オマエにあんな顔されたらそりゃそういう気分になるって」
「意味分かんない」
「……分かれよ」


どんよりとした空が、教室を別世界にしてしまったみたいだ。悟の姿だけが光って見える。薄い鴇色の唇が寄ってきて、私の4センチ先で小さく息を吸い込んだ。

背中に回された腕は力強いのに、再び合わさったその唇は真綿みたいに柔らかい。悟のまつ毛が揺れる。くっついた唇がゆっくりと離れていくたびに甘い痺れが唇から腰へ流れた。何度も重ねるだけのキスを繰り返している内に少し息が苦しくなってきて、一瞬口を開ける。待っていたとばかりに悟の舌が入り込んできて私の舌をそっとつついた。
同じようにつつき返したり、甘噛みしたり、絡め合ったり。悟の舌の動きに応えようと夢中になっているうちに、酸欠で頭がぼーっとしてくる。たまに目を開けて私の様子を伺っていたのであろう悟がキスの合間にふふ、と笑った。

「なまえ、息止めんな」
「……だっ、て、こんなの」
「はっ。ヘタクソ」
「うるさ、ん」

鼻にかかった声は、お互いの舌に絡んで消えた。悟の余裕があるみたいなその顔と声に腹が立ってくる。何でも出来ちゃうのは知ってたけどこんな事まで。わざと悟の舌を強く甘噛みすると、塞がれていた呼吸がやっと自由になる。

「痛って」
「悟、意地悪な顔してる」
「してねーよ」

悟の声が、いつもより低くて甘い。外は雨が降っているのかもしれない。梅雨の湿度が私達の肌にぺたりと纏わりついていた。

「してるよ」
「どんな?」
「こんな!」

照れ隠しにわざと変な顔を作って見せると、悟が小さく吹き出す。「変な顔」と軽口を叩いたその声までもが甘くて、私を抱き締めている腕も解かれる様子はない。
薄っすらと笑みを残した悟の顔が再び近づいてきて、おでこがこつんとぶつけられた。至近距離で瞬く瞳を見つめ返そうとしたけれど、さっきまでのキスと悟の言葉を思い出して一気に恥ずかしくなる。
分かれよ、って、何をだろう。

「さとる」
「なまえ、さっきみたいに目合わせて」
「う。恥ずかしい」
「俺のこと見てよ」
「……なに」
「もっかいキスしていい?」
「駄目って言ったらしないの?」
「する」

唇が重なる直前、悟はまた意地悪な顔をした。呼吸ごと奪われるみたいな、口内で悟の舌に暴かれていない場所は無いんじゃないかと思うほどの口付けにくらくらと眩暈がしてくる。快楽に声が漏れそうになって、悟の背中に回した指に力が入って腰の方へと滑り落ちた。刺激に反応した悟の身体がぴくりと反れる。その隙に大きく息を吸い込んだ瞬間、私の身体を痛いくらいに抱き締めていた腕と、名残惜しい唇の熱が離れていった。




教室のドアが開いた音と同時に、差し込む灰色の光が憂鬱な教室の空気を連れて帰ってくる。チラリと窓から見たグラウンドの地面は乾いている。雨は降っていないようだった。


「悟、なまえ。しっかり自習したか」
「してたしてた。なあ、なまえ」
「うん」
「本当か?オマエ達はすぐにサボるからな」
「信用ねーなあ。なまえ、放課後に予習しようぜ」

鷹揚に椅子へと腰掛けた悟がこちらを見る。小声で「今度は息止めんなよ」と付け足したそれが、夜蛾先生の耳に入っていませんようにと祈りながら私も席に着く。返事の代わりに苦し紛れに「馬鹿」とぶつけようと悟の方を向くと、その薄い耳たぶは少しだけ赤い。

余裕ぶってたくせに、かっこつけてたくせに、悟の馬鹿。横目に見える悟の姿だけが光って見えて仕方がなくて、今から息が止まってしまいそうになる。
早く授業が終わりますように。ペンを強く握って、真っ白のプリントを手のひらで撫でた。





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