明日の匂いのする方へ



クリーニングから戻ってきたばかりの五条さんのスーツは、夜空のような光沢を持つ美しい生地だった。室内に瞬く東京の夜景がそれをより一層ぴかぴかと光らせる。そのスーツがどろりと夜に溶けるように、ソファから床へと流れた。五条さんの宝石みたいな六眼は、静かに私を見つめている。




最初は、忙しそうな伊地知さんの助けになれれば、それだけだった。
不在がちな五条さんの代わりに、彼の服をクリーニングに出したり受け取ったり。いくつも借りている部屋の様子を見に行ったり。たまに「あそこのマカロンが食べたい」なんて言われたら朝から並んだりもしたけれど、実はすごく優しい五条さんは結局、私にそれをくれる。お土産と称して色んなお菓子や小物を買ってきてくれたりもする。偵察とは名ばかりのショッピングや、食べ歩きにも同行したりする事もままあった。

お土産や美味しいカフェに行くことそのものよりも、五条さんが「なまえ」と名前を呼んでくれること、それだけで天にも昇る心地がした。自分が五条さんに恋をしていると自覚したのもその頃。
伊地知さんも私のその気持ちを汲み取っていたのかいないのか、五条さん関連の雑用を頼んでくれる機会が増えた。舞い上がった私は、自分がただの補助監督であるということを忘れかけていたのかもしれない。



先日、呪術界隈の団体が主催するパーティーに出たらしい五条さんが「これ出しといてー」と私に手渡したスーツ。出来上がったそれを片手に、『スーツ出来上がりました。明日高専でお渡ししますか?』とLINEを送ると、『持ってきて』と住所が送られてくる。そういえば今日は五条さん、珍しくオフだったっけ。おねがい、とハートマークが飛ぶ可愛いスタンプまで付いてきて、夜の高揚感と恋のときめきで足取りが軽くなる。

何回経験したって、恋が始まったばかりのこの胸の痛みには慣れない。拒絶されることが怖くて仕方がないのに、その心に触れたくて仕方がない。好きな音楽は何ですか、朝は何時に起きますか。そんなどうでも良い事だって、五条さんの事なら何でも知りたい。明日も明後日も私は、きっとずっとこの気持ちを抱えているのだろう。いつか報われる日なんてくるのかな。



タクシーよりも地下鉄の方が早いだろうと、メトロの階段を下る。生ぬるい風が頬に勢い良くぶつかったけれど、頬はちっとも冷めなかった。
五条さんがよく使う部屋の中間地点にある馴染みのクリーニング店に預けていたから、マンションまでは地下鉄で3駅ほど。見上げると首が痛くなるほど高い高い建物なのに、乗り込んだエレベーターは微動だにしないまま、最上階まで魔法かのように静かに私を運ぶ。五条さんの住んでいるフロアへ降りるには再度のロック解除が必要で、初めて訪れた時には何が何だか分からず伊地知さんに「辿り着けません」と半泣きで電話をしたっけ。
以前、何故マンションのコンシェルジュにクリーニングを頼まないのか五条さんに聞くと、少し驚いた顔で「だって僕、五条悟だよ?」と返された。今ならその意味が分かる。五条さんは色んな意味で狙われているから、こうして万全の注意を払って生活している。



エレベーターを降りると同時に、向かいの大きなドアの隙間から白銀の髪が覗く。恋しさに胸がグッと絞られて、無意識に口角が上がる。ぶりっ子しているわけじゃないけど、好きな人を目の前にしたら女は全員こうなるんじゃなかろうか。五条さんがひらひらと片手を上げて、少し高い声で私の名前を呼んだ。

「なまえ、わざわざありがとね」
「いえ、近かったので大丈夫です」
「上がっていきなよ。美味しいプリンあるよ」
「え!じゃあ、お言葉に甘えて」


部屋着にサングラスの五条さんはいつもと違う空気を纏っていた。少し気怠げで動きも緩慢で、まるで別人のようで緊張してしまう。
地面に落ちる寸前の果実のような色香を纏いながらも、美味しいプリンといつも通りの声でからからと笑う五条さんに緊張が解けてきた時。ソファに付いた私の手に、小さくて硬いものがコロリと転がってきて、触れた。

「あ、れ?五条さん、これ」
「……あぁ、忘れ物だね」

それは綺麗な、白い薔薇を象ったイヤリングだった。指先でつまみ上げたそれをどうしたら良いか分からないまま、耳の奥で自分の鼓動が徐々に大きくなってくる。
ソファに、イヤリングの忘れ物。いつもより気怠げな五条さん。浮かれていた私の恋心が無惨にも地面に墜落する。泥を飲んだみたいに心臓が重い。

「彼女さん、のですか」
「ううん。僕、彼女いないもん」
「……ご家族?」
「五条家の人間を自宅に上げるわけないでしょ」
「なるほど」

絞り出した私の声も、泥みたいに重たかった。五条さんが小さく笑う。気怠げにサングラスを外して、白い指で目を擦った。

「なまえ、気になるの?」

気にならない、と言ったらどうなるだろう。気になる、と言ったら?私は、五条さんとどうなりたいんだろう。選択肢から分かれる道を慎重に思い描こうとしたけれど、私の唇は理性を無視して言葉を紡ぐ。

「気になります」
「どうして?」
「……私じゃ、駄目ですか。そういう事するの」

頭に血が昇る。身体に廻る血液の音が聞こえているのかもしれなかった。気にならないと答えれば、きっと私は一生後悔すると思った。五条さんの顔をを恐る恐る見上げる。その宝石みたいな六眼が、静かに私を見つめていた。スーツを覆うビニールが床に落ちてバサリと音を立てる。

指先を組んで、そこに顎を置いた五条さんは何かを逡巡している様子だった。時折その長いまつ毛を伏せて、そうしてまた私を見つめる。ふぅ、と吐かれた溜息が私と五条さんの間にふわふわと漂い、澱みになった。

「……僕はね、僕のこと好きな子とは遊ばないようにしてるんだ。後輩なら尚更」
「好きじゃないです」
「ははっ、そうなの?」
「はい」

今すぐ大声をあげて泣いてしまいたい程に緊張していた。頭の奥は冷えているのに、頬から耳までが燃えるように熱い。自分じゃないみたいなセリフが口から次々と出てきて訳が分からなかった。それでも、ここまで言ったからにはもう戻れないという事だけは分かる。

「だから、私じゃ駄目ですか」

五条さんの身体がゆっくりと起き上がる。音もなく目の前に迫ってきた六眼が細められて、私の瞼にその長いまつ毛がそっと触れた。右頬には五条さんの大きな手が添えられて、左頬には柔らかな唇が押し当てられる。そのまま耳まで吐息と共に滑ってきて、水音が左耳に響く。熱い舌で耳介を舐められると、咄嗟に背中がしなった。

「じゃあ、朝まで僕に付き合ってくれる?」

耳元で低く囁かれて、腰を強く抱かれる。小さく頷いて五条さんの首に腕を回すと、夢にまで見たその唇が私の唇に重なった。
抱き上げられながらも、与えられるままに唇を合わせているとベッドにとさりと落とされる。少し冷たいシーツに肌が粟立つ。器用な指先で私の服を寛げた五条さんは、相変わらず静かな瞳で私をじっと見つめていた。



鎖骨に甘く歯を立てられる。なぞるように舐められて、五条さんの指先が胸元の皮膚を曖昧に撫でてゆく。確実に迫り来る快楽への期待と、五条さんに触れられているという事実が脳内でチカチカと点滅する。
このまま五条さんとしてしまうのかな。明日からも私は、五条さんの事を好きでいても良いのかな。数時間先の未来が急に真っ暗の底無しになってしまったようで、心細さに涙が滲んでくる。目尻に流れた涙はこぼれ落ちる前に、五条さんの指先で拭われた。

「ねえなまえ、僕のこと好きでしょ」
「……好きじゃない、です」
「それならどうして泣いてるの」
「泣いてません」
「いやめちゃくちゃ泣いてるけど」
「だって、」
「……ごめん。意地悪しすぎたね」


はだけたブラウスを直してくれたその腕が、優しく私を抱き締める。背中をぽんぽんと軽く叩かれて、おでこに唇を落とされると途端に緊張が解けて、思わず長い溜息が漏れた。抱き寄せられた五条さんの身体は温かくて、甘い匂いがする。薄手の部屋着越しに伝わる大きな心臓の音は、私だけのものだろうか。

「あの、五条さん」
「最初から抱くつもり無いよ」
「どうしてですか」
「なまえの事は、遊びにしたくないから」
「……それって」

耳から頬へと、五条さんの唇がふにふにと押し付けられていく。唇の寸前で止まった五条さんが、見たこともないくらい優しい顔で笑った。

「好きでもない子にあんなに優しくできるほど出来た人間じゃないからね、僕」

「まさか振られるとは思わなかったけど」と続けた五条さんの顔は、一瞬でいつもの悪戯っぽい笑みに変わった。離れていってしまう気がして、慌てて両頬を掴む。

私から合わせた唇は触れるだけで離れようとしたのに、五条さんの大きな手のひらが首の後ろへ回る。分厚い舌が入り込んできて、口内を掻き混ぜるように吸われると舌から頭までがじんと痺れた。
五条さんのふわふわの舌を夢中で追いかけているうちに、ちゅ、と可愛い音だったものが次第に少しの欲望を含んだ音に変わってくる。頬の粘膜を舐められて「ん」と声が漏れ出ると、五条さんが苦笑した。そっと身体が離れる。

「やば、止まれなくなる所だった」
「……止まらなくても良いです」
「だーめ。ちゃんとなまえの気持ちを聴かせてもらわないと」

五条さんが好き、何度も言いかけて心の奥にしまい込んだこの言葉を口に出せる日が来るなんて。想像もしていなかったこの状況に、心臓がばくばくと大きな音を立てる。五条さんの指が、言葉を促すように私の指をなぞった。

「五条さんのことが、好きです」
「うん。僕もなまえのことが好き」
「……あのイヤリングは」
「あれ野薔薇の。今日の昼間、悠仁たち来てたんだ。明日返しておいてくれる?」
「えっ……私、すっごい勘違いして馬鹿みたい」
「うん。びっくりした。ま、結果こうなれたし」

あはは、と晴れやかな笑い声が部屋に響く。
少し気怠げだったのは、生徒さん達といつもみたいにはしゃいで疲れていただけだったのか。それなのに勝手に勘違いして、あんな恥ずかしい事を口走って。
嬉しさと羞恥がないまぜになって膝を抱えていると、ぎしりとベッドが傾く。熱を持った耳にふぅ、と五条さんの吐息がかかった。


「って訳だから、止まれなくなっても許してね」

悪戯っぽい口調と微笑みに全然似合わない優しい手が、再び私の首へ回される。その宝石みたいな六眼も、見たことがないくらいに優しく輝いていた。「明日の朝、何時に起きますか」とキスの合間に尋ねようとしたけれど、五条さんの腕も、唇も、いつまでも私を離してくれなかった。






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