氷菓のゆめ*


※浮気





過ぎ去った夏の青空を四角く固めたようなソーダ味のアイスは、半分ほど食べ進めたあたりで下の方が溶けかけている。学生の頃はよく食べていたのに、いつの間にか夏の終わりのこの時期しか食べなくなってしまった。
『氷菓』と書かれた外袋をグシャリと握り潰す。親指に垂れてきた溶けたアイスを舐め取ると、窓から吹き込んだ初秋の風の匂いと、ソーダの匂いが鼻先で混ざった。途端に匂いに誘われた記憶が美しい色を持って蘇る。あの日の彼の柔らかい口付けはもう忘れてしまったのに、思い出そうとするかのように溢れ出る記憶で呼吸が上擦る。

学生の頃はこんなアイス、すぐに食べ終わったのに。もう1本食べたいなあ、なんて思っていたのに。あの日もこんな風が吹いていて、私は同じソーダ味のアイスを食べていた。木の棒の奥に微かに味が残っている気がして、名残惜しくそれをひたすら噛んだり舐めたりしていた。





ガリガリくんって大きく見えるくせに、食べ始めるとあっという間に無くなるよな。ソーダの甘さを懐かしむように、残った棒切れを口の中で遊ばせ続けていた。もう一本食べちゃおっかな。
自室の窓から見える木を眺めながらカブトムシもこんな気持ちで木にくっついてるのだろうかと思ったけど、もう夏は終わっているからカブトムシはどこにも見当たらなかった。高専のあちらこちらに居たはずの彼らは、一体何処へ行ってしまったんだろう。


「なまえ、そろそろ窓閉めないと風邪ひくよ」
「は」

ぼーっと見ていた木とは逆側に、音もなく立っていた黒い影。2週間ぶりに見るその姿は、髪を下ろしていたけれど間違いなく傑だった。

「……嘘でしょ、何やってんの。捕まるよ」
「うん。見つかったらね」
「早く部屋入って」
「ありがとう」

窓から器用に入り込んだ傑が、靴を窓の外にドサリと落とした。見られたらどうするんだと思いつつも、私の部屋の窓はちょうど死角になっているしもう22時だ。人通りはほぼ無い。悟は泊まりがけの任務に出ていて硝子は別棟の実験室。七海くんは大方、部屋で読書でもしているのだろう。
……ここまで考えて、きっと傑はそれら全てを踏まえた上で、私の部屋へ訪ねてきたんだと気がつく。息を呑んで傑を見上げると、焦りや恐れなんてちっとも窺えない、いつもと同じ顔でこちらを見ていた。

「なんなのその顔。どれだけ心配したと思ってんの」
「うん。本当にごめん」
「悟、見ていられないくらい落ち込んでて……わたしだって、硝子だって先生だって」
「ごめんね」

傑の私服なんて何回も見ていたはずなのに、今私の前に立っている薄手のニットにスキニーを履いた傑は全くの別人みたいだった。繰り返される「ごめんね」の声には、こちらに諦めを促すような色が含まれている。

「ねえ、悟に会ってあげてよ。話したらどうにかなるかもしれない」
「どうにかって、何が?」
「……傑が、死刑対象じゃなくなるとか」
「フフッ、それは無理だろうね」

傑の言うとおりだ。無理に決まってる。でもそれは、私達全員の願いだ。目の前で穏やかに微笑む彼はもう私達の同級生ではない。呪詛師で死刑対象の、夏油傑。

理由を聞こうとしても言葉が詰まって出てこない。手持ち無沙汰になって、並んでベッドに腰を下ろすとギシリと大きな音が部屋に鳴った。外の虫の声も何故か止んでいて、静けさが私と傑の間を満たす。
硝子は実験室にいて、悟は任務に出ている。22時に、傑が私の部屋に訪ねてきた理由。

「……傑、わたしのこと殺すつもり?」
「そんな訳ないだろ」

静けさに耐えられなくなって、ふざけた声色で冗談を言うとピシャリと窘められる。調子に乗るとこうして叱ってくれる傑がいなくなった私達3人は、これからどうしたら良いのだろう。尤も、当分は冗談なんて言えないだろうけれど。

「冗談だよ。もう高専には戻れないよね」
「戻れないし、戻るつもりも無いさ」
「じゃあもう会え、ないの」
「そうだね。もう会えない」

ぐっと喉が狭まった。もう会えない。傑と悟、硝子と交わした毎日の下らないお喋りや、夜にみんなで意味もなくコンビニへ行ったこと、そのまま朝までゲームしたこと。私の取るに足らないはずだった日常が、こんなにも遠い。

「なまえ、こっちを見て」

傑の目が私を真っ直ぐ射抜いた。いつも私に向けられていた傑のこの視線。15歳で出会った時も、16歳で悟と付き合い始めた時も、17歳の今も、彼はいつも私だけを見ていてその視線には迷いのない好意が含まれていた。
私は傑の気持ちを知りつつも、まるで水滴が地面に落ちるかのように悟と恋に落ちた。私と悟が付き合い始めたと聞いた傑は優しく笑って、心底そう思っているような口ぶりで「良かったね」とだけ言った。

私は傑のことが好きだった。悟に抱く恋愛の感情と同じくらい大きな、友愛の感情を傑に抱いていた。それはどちらも尊くて、同じくらい愛おしいものだ。


「私はまだ君が好きだよ。多分、これからもずっと」
「うん」
「なまえが悟の事を大切に思っていることは知ってる。2人とも、幸せでいてほしいとも思ってる」
「……うん」

傑が危険を冒してまで私に会いに来てくれた事が、嬉しくて悲しくて苦しかった。私の恋愛の情は全て悟のもので、傑のこの真っ直ぐな気持ちに応える術を持たない。それでも傑と私は全てを分かった上で、手を重ね合った。共犯でいいのだろうか。悟と傑どっちも傷付けてしまうであろう私の方が罪深いのかもしれない。傑の手が、私の指を絡め取る。

握っていた木の棒が床へ滑り落ちて、かちゃんと虚空な音を立てた。

懐かしくて愛おしい、親友のその顔を見つめていると視界がゆらりと揺れて、私の頬にこぼれた涙は傑の指にそっと拭われる。そのまま肩を優しく押され、背中にベッドの柔らかさを感じたと同時に、傑の唇が額へと押し当てられた。

「今夜だけ、私になまえの夢を見せてほしい」

もう会えない。さっき聞いたばかりの傑の言葉が頭の中を駆け巡って、傑の懇願に考える間も無くコクリと頷いた。私達は、共犯だ。



腰から太腿にかけて、熱い指先が這う。恐る恐る衣服が寛げられていって、私は無抵抗のまま傑に身を任せ続けた。肌を柔らかい舌が滑って、敏感な部分をいたずらに舐めては時々歯を立てた。私が嬌声をあげると傑は嬉しそうに笑って、何度も何度も私を強く抱き締める。
傑の大きな身体は熱に満ち溢れていて、何度も絶頂に追いやられてぐずぐずの私の身体なんて簡単に取り込まれてしまいそう。

「っ、すぐる、もう」
「ん。……本当に、いい?」
「いいから……入れて」

両脚の間に傑の身体が押し入ってくる。ぐ、と腰が進められると、普段とは異なる質量を膣壁がびくびくと食い締めた。何度も短く息を吐く。
全て入ったのを感じながら傑を見上げると、彼は下唇を噛んで、耐え難い痛みを堪えるような、悲しみを押し殺すような顔をしていた。私の頬に、傑の髪がぱさりと落ちる。

「……なまえ、ごめん」

気持ち良いのと同じくらい、悲しくて苦しくて目眩がした。私は、悟と同じくらい傑のことが大切だった。
それなのにどうしていつも傑は。

「そうやって、一人だけ悪者になるのやめて」
「なまえは悪くない」
「わたしも共犯だよ、こんなの」
「君は、優しいから拒めなかった。そこに付け込んだのは私だよ」
「ちがう、わたしが傑としたかった」

だから泣かないでよ。そう言う代わりにキスをしようと傑の首を引き寄せると、唇の代わりに傑の手のひらが差し出されて唇に当たった。「んむ」と間抜けな声が出てしまって、それを聞いた傑はほんの少しだけ笑った。

控えめな律動に下腹部が切なく疼いて、腰を前後にゆるゆると揺する。中で混ざっている傑の粘膜と私の粘膜がぐちゃ、と大きな音を立てた。じんと脊髄に走った痺れるような快楽に、切なさも後押しされて傑の背中に強くしがみつく。抽送を早めた傑の首筋に顔を埋めて、ひたすらに彼の全てを肌に移そうと何度もその肌に唇を押し当てた。

「ね、キスして」
「……なまえ、それは駄目だ」
「お願い。これは全部、夢だから」

傑の眉根に皺が寄って、また泣きそうな顔をした。私の唇の寸前まで寄ってから、傑の瞳が迷うように揺れる。

「好きだよ。なまえ」

掠めるように触れたその唇は、弱々しくて優しかった。私の唇をぺろりと舐めた傑が「ソーダ味だね」と言うから、なんだか恥ずかしくなってきて2人で顔を見合わせて笑う。それからはタガが外れたかのようにお互いの口内の隅々まで味わいながら、粘膜のどこもかしこもを溶かしあった。
口付けを交わしながらうっすら目を開けると、傑の頬に涙の筋が見えて、拭おうと触れた。それは窓辺に置いていた携帯のライトが反射した影で、私の肌にも同じ影が落ちていた。

「ぁ、すぐる、イく」
「私も」

叩き付けるような律動の後、お腹の奥で傑のものがどくどくと強く脈打ったのを感じながら何度目かの絶頂の波に揺蕩う。私の髪を撫でる優しい、大きな手。あまりにも穏やかな声で「好きだったよ」と傑が呟いたから、涙がとめどなく溢れてきて目が開けられなかった。

「すぐ、る」
「……ごめん」
「もう謝んないで」

行かないでよ、と言おうとしたのに声にならないまま、意識がしゅわしゅわと微睡みに溶けていく。


やっとのことで「行かないで」と声に出た時には、空は白く光る明け方になっていた。しんと静まり返った部屋も、服も下着もベッドも何もかもが元通りだった。私は夢を見ていたのかもしれない。
サイドボードに置いてある水を一気に飲み干す。空のペットボトルを放ったゴミ箱には、『氷菓』の空々しい色をした袋と木の棒だけがぽつんと捨て置かれていた。

チカ、チカと水色のライトが光る携帯を開くと、23時半に悟からメールが届いていたらしい。
昨夜、傑と私の肌に影を落とした携帯のライト。『明日の昼には帰れそう』とだけ書かれたメール画面を見て、私はやっと声を上げて泣いた。






ガチャ、と玄関が開く音で我に返る。無意識に噛んでいた木の棒は歯形まみれで、見ていられなくてもう一度口に差し込んだ。それとほぼ同時に足音がすぐそこで響く。悟は歩くのが早いのか、それとも瞬間移動でもしてるんだろうか。悟ならやりかねない。

「なまえ、ただいま〜」
「おかえり悟」
「あ、ガリガリくん食べてる。なまえがそれ食べてると夏が終わったなって感じするよ」
「なーんか夏の終わりに食べたくなるんだ」
「高専の頃から好きだったもんねえ」
「うん。でも一本食べ切るのキツくなってきた」
「ははっ、歳じゃん」
「砂糖そのまま食べる悟と一緒にしないで」
「それは僕もたまにしかしないよ」

身体を寄せてきた悟に触れようとしたけれど、溶けたアイスが垂れたせいで手がべとべとだった。ずらされた目隠しから覗く悟の青い瞳がそっと細められて、その意図を汲んでアイスの棒を口から引き抜く。何度か軽く唇を重ね合わせると、悟の薄い舌が私の唇をぺろりと舐めて、小さく笑った。

「ソーダ味だね」
「……うん」

手、べとべとだけどもういいか。『氷菓』と書かれたアイスの袋と歯形まみれの木の棒が、かちゃんと床へ落ちる。あの日と同じ、夏の終わりの匂いがした。





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