09



ごぽっ、とウォーターサーバーが水を汲み上げる音を吐き出した。その音のせいで、深く沈んでいた意識が一瞬にして支配下に戻ってくる。


誰かが、血を吐いたと思った。

(──違う。水の音だろ)
自分にそう言い聞かせながらゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れた天井が広がる。未だにそれを信用しない僕の意識のために、答え合わせを続けようと隣に目を向けると、僕の手を握りしめて眠るなまえの髪が穏やかな白いシーツに散っていた。すーすーと規則正しいその呼吸音が、僕のざわめきを簡単に去なす。
それは小さくて、弱くて脆くて、止めてしまいたくなる程に愛おしい音だった。なまえが、僕の隣で眠っている。それを確かめてやっと僕は、さっきの音がただの水の音だと確信できる。

スマホを持ち上げると、そこには4:07と表示されていて、まあ3時間寝れば充分かと再び画面を見やると、すでに任務のメールが7件入っていた。伊地知は働きすぎだと労う気持ちが一瞬湧くものの、僕のせいと気が付くと途端に馬鹿馬鹿しくなってくる。どいつもこいつも、この界隈の人間はみんなこうだ。

右手に絡んでいた、柔らかくて温かい手をそっと外す。なまえのまつ毛がふるりと揺れた。

昨夜は所謂、“駄目な日”だった。
僕には特段、怖いものが無い。ただ、僕がおかしくなってしまった時、僕がそれに気がつけるのかそれだけが未だに不確かだった。

どうか、なまえにはやさしくて綺麗な夢を見ていてほしいと思う。彼女に続くものは、全てがやさしい。肌も声も、色も、空気すらも。だからきっと、繋いでいるなまえの手を辿っていけば僕は大丈夫だと思える。間違う事はないと、そう思える。






ごぽ、とリビングに響いたさっきと同じような音を無視して、グラスに落ちてきた水を一気に喉に流し込む。冷えた水が喉を通ってやっと、僕の声も戻ってきたような気がした。

「……まだ夜だね」

リビングから見える空に向け、声を投げる。
夜明けの準備で慌ただしい午前4時の空は遠くばかりが中途半端に白んでいて、僕の近くはまだまだ漆黒だ。グラスを持っていた自分の手の冷たさが、寝起きの額に心地良い。そのままぼんやりと空を眺めていると、さっき飲み込んだはずの冷えた水が、僕の中の底にばしゃばしゃと落ちていく気配がした。


僕の底には、常に何かが沈澱していた。
それらは普段、静かに眠っているけれど、たまに浮上させないと固まってしまう。そして不意に浮上してきた時に、僕はなまえを傷つけてしまう。
あの日みたいに。

なまえはあの日、「殺して」と僕に言った。
置いて行かれた僕は、僕たちは、2人とも目の前の肉体を傷つけ合って、そして慈しみ合っていたと思っていた。それなのに。僕はその言葉を聞いた瞬間、繋いでいた手を払われた子どものように動揺したのを覚えている。

── なまえも、俺を置いていくの。

『だから一緒いてよ。僕がおかしくなっちゃったら、なまえが止めて』
あれは僕が彼女にかけた呪いだ。絶対に死なせないし、殺さない。なまえは僕とずっと一緒にいなくちゃ駄目。

白んでいた空が徐々に黒を捨てて、夜明けが近い事を知らせる。部屋の空気がやさしく揺れて、なまえが起きたのだなと思った。


わざとフローリングに足をぺたりとくっつけながら歩いて、可愛い狸寝入りをするなまえの隣に滑り込んだ。僕に背を向けているのは、抱き締めてほしいからだと知っている。その愛おしい期待に応えようと、彼女の小さな身体に強く腕を絡めると、その柔らかい二の腕と温かい髪の毛の香りが僕を甘やかし始めた。
(ああ。本当に、なんて可愛い呼吸なんだろう)
小さくて、弱くて脆くて。

「止めちゃいたくなるくらい可愛いね」






夜明けの空気に微睡みながら、すでに起きている様子の悟の腕を待っていた。ぺたぺたと、私を眠りの底から引き上げるためにわざと足音を立てて部屋に入ってきた悟が可愛くて、笑みを奥歯で噛み殺す。望んでいたその腕が私の身体に強く回されると、悟の少し冷えた鼻先が私の耳に触れた。


「止めちゃいたくなるくらい可愛いね」

耳元に投げ入れられた悟のその声は、鼻先なんかよりもずっとずっと、冷え切っていた。


昨夜は悟の所謂“駄目な日”だった。私の手を強く握りしめながら、迷子の子どもみたいな顔をする彼の柔らかい髪に顔を埋めて、手を繋いで抱き合って眠った。
もう、夜明けだとばかり思っていた。私はまだあの夜の中にいるのだと気がついた時には、すでに私の身体は悟の支配下に置かれていた。静かに、哀れむように私を見下ろす彼の六眼が暗闇の中で一際、瞬く。

「なまえ、おはよ。寝たふりしてたでしょ。いけない子だねオマエは」
「おはよ、悟……」
「なあに。なんで震えてんの。…怖い?僕が」
「こわく、ない」
「うん。怖くないよね。愛してるよ」
「私も、愛してる」
「……なまえ、愛してる」

泣きそうな声で、自分に言い聞かせるみたいにそう言った悟の唇がひどく可哀想に思えて、そっとその唇を塞ぐ。真綿のような曖昧なキスを何度か繰り返すと、悟の瞳に揺らめいていた加虐の色がゆらりと大きくなる。

私の首筋に強く歯と爪を立てられると、ぶつりと肉がはじける音がした。もしかしたら血が出ているかもしれないけれど、私の傷はどうせ治るから構わなかった。だって、悟の傷はずっと治らない。

可哀想な彼の首に腕を回す。穏やかさを無くした夜明け前の白いシーツに、私と悟の身体が再び埋まった。






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