恋しき事のまさるころ


耳の奥の方に細かい砂、例えば海の砂みたいなものが少しだけ入ってしまって、身体を動かすたびにそれがザァザァと音を立てている。夢なのか現実なのか分からなくて、ただその音に引っ張られて意識が浮上すると、真っ白なシーツに埋もれている私の頬はその滑らかな生地に押しつぶされていた。

さすが、さぞかしお高いシーツなんだろうなあと頬をぐりぐりとその生地に押し付ける。日常的に化粧をする年齢になってから、こうして頬を布に押し付けることに奇妙な背徳感と高揚感を覚えてしまう。「んんーーー」と覚醒のための声を上げると、ドアノブが落ちるかすかな音を右耳が拾った。

「なまえ、おはよ」
「おはよう。悟んちはドア開ける音まで高級だよね」
「はは、何それ。意味わかんない」
「うん。悟にはわかんないよ」
「今日すんごい大雨だよ。帰っちゃう?」
「これ雨音か。うーん、帰るの面倒くさーい」
「でしょ。僕、もう仕事終わらせてきた。今日は2人で家でゆっくりしよーよ」

壁に掛けられた時計の針は9時を指している。悟が一体何時に起きて、何をどう終わらせてきたのか分からないけれど聞くのも面倒だった。彼が私とこの雨の日を怠惰に過ごしてくれる貴重な幸せを堪能しようと、身体を伸ばしてなんとかベッドから起き上がる。

「久しぶりだね、2人でのんびりできるの」
「本当にね。何する?僕はこの間なまえが言ってた映画観たいけど」
「賛成!ネトフリにあるよ」
「オッケー。じゃあシャワー浴びといで」

昨日の夜、悟に放り投げられたキャミソールを爪先で掬い上げてバスルームへ入ると、頬と鼻腔に湯気の気配が飛び込んでくる。
シャワー浴びといで、なんて言ったくせにお風呂にお湯を溜めてくれていた悟は、今日は私のことを甘やかす予定なのかバスタオルまでセットしてくれていた。何か良いことがあったのかもしれない。お風呂から上がったら聞いてみようと湯船に口まで沈んで、そのまま「あ!」と思わず声を出すと、それはお湯に阻まれて音にならなかった。
そういえば、今日は私たちが付き合ってから12年目の記念日だ。


慌ててお風呂を済ませて、ろくに髪も乾かさずに悟を探しにリビングへ向かう。後ろから「あれ、早いねー」と間延びした声が聞こえて振り向くと、美味しそうなオープンサンドイッチが乗ったお皿を持つ悟が得意げな顔で立っていた。これにスープもあったら最高だな、と我ながら注文の多いヤツだと反省しつつテーブルに目をやると、そこには湯気を立てる野菜スープがすでにセッティングされている。
分かり過ぎているこの美しい恋人に、感動の叫びをあげずにはいられなかった。

「さーとーるー、最高。悟は本当に最高」
「ふふふ、でしょ〜?しかも最強、おまけに超イケメン、挙げ句の果てに超」
「うんうん最高!ねえ食べて良い?」
「いーよ。あ、オマエまた髪乾かしてない」
「大丈夫大丈夫、ゆっくり温まったから。お風呂沸かしてくれてありがと」
「食べ終わったら僕が乾かしたげる」
「やったね。いっただきまーす」

今日、記念日だねと言おうとしていたこともすっかり忘れてしまうくらい、悟の作ったオープンサンドと野菜スープは美味しかった。「美味しい」と10回は言ったかもしれないけれど、その度に悟はキラキラの六眼を細めて「良かったねえ」と私を優しく見つめた。




ドライヤーの音と、悟の大きな手が私の頭をすっぽりと包むその感覚。さらには食後というトリプルコンボの眠気に襲われて瞼を落とすと、私と悟の関係性はつくづく12年前とは真逆になったよなあと思えてくる。
付き合いたての頃の悟は絵に描いたようなクソガキだったけれど、傑の事があって以降、悟は人が変わったように私を甘やかすようになった。改まって理由を聞いたことは無いけれど悟なりに色々と思うところがあるのだろう。ヘラヘラしているように見えて意外に繊細なのだ、コイツは。


「はい、乾いた」
「ありがとう。お腹いっぱいだし気持ち良いしでまた眠くなってきた……」
「なまえはよく寝るよねえ。羨ましいよ」
「悟が寝なさすぎなんだよ。……雨だと余計眠くなるなあ。家にいる分には土砂降りも良いね」
「なんで?」
「雨音ってなんか良いじゃん」
「音か。考えたこともなかった」
「まあ、悟は濡れないし雨でも関係ないか」
「普段はね。今日は雨が降ってくれて良かったと思ってるよ」
「え、なんで?」
「なまえとこうして2人でゆっくりできるから」


するりと私の肩に落ちてきた悟の腕が、世界で一番大事なものを守るみたいに私を抱き締める。誇張ではなく心底そういう手付きで、まるで部屋の空気までが急に私という陶器を包むフワフワの真綿になってしまったようだった。
ちゅ、とこめかみに悟の柔らかい唇が押し付けられると、その表情が窺えない事に何となく安堵した。だって今の悟の顔を見てしまったら、私は愛おしさで胸が押しつぶされて息が出来なくなるかもしれない。


「……悟、どうしたの」
「なまえ、結婚しよ」
「え」

藪から棒にも程がある。無防備だった私の心臓が、あまりの驚きに痛み出して苦しい。
……確かにすごく幸せな、甘い良い雰囲気だったけれど案外ロマンチストな悟のことだ。無難に夜景が見えるレストランとか、ホテル、ドライブとか、そういう場面で言われるんじゃないかとばかり思っていた。まさかこんな、お風呂上がりですっぴんで部屋着の時に、そんな、こんな。

抱き締められていた腕が外されて、ソファに横向きに座っていた私の背もたれがわりになっていた悟の身体が急に無くなった。床に座り直した悟が、何かを切り替えるみたいにその白銀の髪を指先でかき上げる。

混乱が、一気に吹き飛んで真っ白になった。
この12年間で一度も見たことがないほどに不安げな顔をした悟が、そこにはいた。この最強を冠する男がこんな顔をするなんて、きっと世界中で私しか知らないに違いない。

ソファのカバーを指先で弄ぶくらいしか所在のなかった私の手を悟の手がそっと拾い上げる。小さい頃に読んだ絵本の王子様みたいに、その柔らかい唇が私の手の甲に触れた。上目にこちらを見る、ゆらと揺れた六眼に連動してゆっくりとその唇も開かれる。


「僕と、結婚してください」
「…………う、ん……、はい」
「決まり。キャンセル不可だよ」
「……返品も不可」
「ははっ、なまえが泣いて嫌がってもしない」
「こんな、すっぴんだし私、うわ。予想してなかった。ごめん、混乱してる」
「うん。僕たち、今日で12年目でしょ。13年目はなまえに奥さんとして隣にいて欲しかったんだ」

ソファに座る私の下でそう言った悟の目が、光の加減のせいか少しだけ潤って見えた気がした。その瞬間に私の目にじわじわと涙が滲んでくる。なんだ、自分か。と涙がこぼれる前に手で拭おうとすると、唇と頬に悟の肩の温かさと、柔らかいTシャツの感触が触れた。
朝、シーツに押し付けたみたいに悟の肩にぐりぐりと頬を押し付ける。「ちょっと、鼻水付けないでよ」と言いながらも、悟の腕は私を強く抱きしめて離さない。


「なまえが僕の奥さん、最高の響きだね」
「悟が私の夫……」
「うん、その肩書きもいいね。最強超イケメン夫」
「……やっぱやめとこっかな」
「駄目。一生離さない」
「……あ、鼻水ついた」
「あーあ。でもなまえのならいーよ」

私たちは強く抱きしめあったまま、何故かゆらゆらとソファの上で揺れながらこの12年間を回想しあった。今になって聞くと「そういう事だったのか」と思えるような話が山ほど出てきて、悟の事を全て知った気でいた自分が恥ずかしくなって思わず溜息が零れる。

「悟ってすごい人なんだよね。忘れがちだけど」
「まあね。でもなまえと2人の時は僕もただの五条悟だよ」
「うーん。わかるようなわからないような」
「なまえの事が大好きでたまらない、ただの1人の男だってこと」
「……わかった」

悟のその声も、瞳も、指先も。甘くて甘くて蕩けてしまいそうだった。私の頬を包む悟の手の意図は、逃さないようにするためだろう。

「なまえ、愛してるよ」
「私も愛してる」
「うん。……ふふ、僕の奥さん」
「……気が早いね悟」

大きな瞳が無くなっちゃうくらいににっこりと微笑んだ悟の唇が私の唇にそっと重なる。誓いのキスみたいなんて思う私も、よっぽど気が早いかもしれない。
部屋は叩きつけるような雨音に包まれる。今はそれが、まるで拍手の音みたいに聞こえた。






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