第三話


わたしに会いに来た?夏油先輩が?

聞きたいことは山ほどあったけど、一先ず夏油先輩に抱きすくめられているこの状況を脱した方がいい。腕を解こうと力を込めてみたものの、既に身体の自由は奪われていた。

「なまえ、落ち着いて。まあ8年ぶりだからね。少し話をしようか」
「正直混乱してます。けど、分かりました。大人しくするので離してください」
「駄目だよ、離せない」

キッパリと言い切った夏油先輩に、袖に隠し持っていた呪具を簡単に奪われる。さすが特級、と思わず声に出そうになった。五条先輩に連絡する隙なんか、到底見つかりそうにない。


「なまえは昔から素直で良い子だけど、正直、今の君の実力は私の想定以上だったんだ。だから念の為にね。随分頑張ったんだね」
「はぁ、呪詛師の先輩にお礼を言うのも変な気がしますけど……ありがとうございます」
「……灰原の為に、なまえは強くなったのかな」


夏油先輩の唇から雄の名前が紡がれた瞬間、8年前の記憶が鮮明に蘇って後頭部を殴られたような衝撃が走る。硝子先輩が言っていた、「夏油は呪いが発生しない、呪術師だけの世界を作るんだってさ」という言葉を思い出した。

「……いえ。雄はもう、死んじゃいましたから。いつかわたしも死ぬとき、ああもっと強かったら、って後悔したくないんです」
「そうか。なまえは、死ぬ“いつか”のために呪いと戦っているのかな」
「正直、雄のこと思い出すと、これが正しい命の使い方なのかどうか分からなくなる時はあります。だから今はただ、死ぬまで目の前の呪いを祓うだけです」

雄は死んだ。五条先輩なら一瞬で祓えたような呪いによって、雄は死んだのだ。でもそれは雄が弱かったからで、呪術師というのはそういうもの。だから私は、強くなると決めた。

夏油先輩が、何かを探るように私を見つめる。月光に照らされた先輩の顔を見つめ返すと、8年前より大分精悍になった表情から、並々ならぬ決意と覚悟で生きてきた軌跡が伝わってくる。私たちはそのまま、しばらく見つめあっていた。夏油先輩が、何かを決意したように口を開く。

「呪術師の、……仲間の死体が積み重なっていく様を、私は見ていられなかった」
「昔から、夏油先輩は優しかったから」
「呪術師だけの世界なら、強者が弱者を守るという、ごく当たり前の秩序が成立する。弱者のために、強者が命を落とすということはなくなるんだ」

大きな手が私の頬をスルリと撫でる。その優しい手は、私の心の最も弱い部分にまでも触れたような気がした。

「先輩、わたしのこと誘惑してます?」
「察しがいいね。なまえに会いに来た、と言ったろう?……私の誘惑に乗ってくれると、嬉しいんだけどな」

見上げた夏油先輩は、不遜な笑みを湛えていた。艶気を含んだ低い声が近付いてきて、私の唇と、夏油先輩の唇がそっと触れた。そのひやりとした冷たい唇から、熱い吐息と舌が、私の口内に滑り込んだ。顎を支えられ、深く舌を絡められる。

動揺と息苦しさから、夏油先輩を睨みつける。不遜な笑みはそのまま、眉間に少し皺を寄せて、こちらをじっと見据えていた。睨みつけたことへの仕返しかのように舌を強く吸われ、酸欠と甘い陶酔につい目を閉じる。首元をツツ、と指先で撫でられ、思わず身体がびくんと跳ねる。

その拍子に、私をすっぽりと包んでいた夏油先輩の体温が無くなった。



「そいつはもう祓って構わないよ」

夏油先輩の声の方を見ると、彼は大きな鳥のような呪霊の上に乗り空高くにいた。すぐには届かないその距離から、夏油先輩の声が落ちてくる。

「これは時間稼ぎに預かっておくよ。今日は会えて嬉しかった。悟に宜しく。またね」

私のズボンのポケットに入っていたはずのスマホを握った夏油先輩が、にっこりと綺麗に微笑み、自分の唇を撫でてみせた。そのまま空高くに羽ばたいた鳥の呪霊は、あっという間に見えなくなった。呆然と突っ立っていた私の唇にじんわりと残る、夏油先輩の熱だけが確かなものだった。

「あ!うそ、スマホ……五条先輩に連絡……」

五条先輩どころか、補助監督にすら連絡できないじゃん。しかも帰りの新幹線のチケット、スマホで取ってるのに。

考えなければならない事が山積みだというのに、夏油先輩とのキスの余韻が思考を支配していた。キスの意味も、言葉の意味も、混乱する頭ではとても考えられなかった。

ひとまず、ぼんやりと細かい霧がかかったようなこの状況から抜け出さねば。かぶりを振って、目の前の2級呪霊を祓うために掌印を結んだ。




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