エピローグ



なまえを初めて抱き締めたあの広島の夜。私の瞳を真っすぐ見据える彼女の顔は、真っさらのキャンパスによく似ていた。美しいものも醜いものも何一つとして残っていないその顔は、死線をくぐり抜けてきたとは思えないほどに虚空で、静かだった。

「今はただ、死ぬまで目の前の呪いを祓うだけです」

月の光に肌が透け、頬の血管がぼんやりと浮かぶ。なまえは今、確かに生きている。あの瞬間、私の心は再びの選択をすでに終えていたのだと思う。


術式が似ている後輩。それ故に、高専の頃は戦術の相談に乗ることも訓練に付き合うことも多かった。当時の彼女は少し臆病だったけれど、他人の誠意や優しさを真っ直ぐ受け取ることが出来る素直さは今と変わらない。灰原もなまえも、その素直過ぎる人柄は時に術師として心配になるほどで気に掛けてはいた。だからといってそれは恋愛に結びつくものでは無かったし、何より、灰原の隣で笑う彼女はいつも幸せそうだった。

あの日、灰原を失ったなまえの瞳は、彼を取り込んだかのように強い決意の光を放っていた。それはまるで消えゆくために激しく瞬いているかのようで、高専を出てからも灰原の死を想う度に、なまえの存在がいつまでも私の中で小さく光り続けていた。


積み重なっていく仲間の死体の山に、彼女の身体が積み重なる前に。それだけだった。それだけのために私は、なまえとこの8年間の全てを天秤に掛けた。
“術式が似ている後輩”という薄い幕で覆い隠していたはずの恋心が暴かれ、なまえの事を愛しているのだと自覚したのは初めて身体を重ねた夜だった。


「…傑先輩、いなくなっちゃう、から」
「そう思う?」
「いつか」
「それはなまえ次第だよ」
「……地獄に落ちちゃった気分です」

小さく笑ったなまえのまつ毛が震え、そっと伏せられる。私を留めようとする指先が背中に沈みきる前に、激しい律動でその悲しい熱をかき消した。
カーテンから漏れる薄い月光は、揺れる私の深淵を隠してくれるだろうか。なまえを生へ繋ぎとめるため、と尤もらしい言い訳をしながらその身体を何度も強く抱きしめた。

蕩けてしまいそうなほどに柔らかい皮膚、小さな唇から紡がれる私の名前、頼りなげな指先に乗った薄い爪、彼女の髪に指先を埋めた時の感触すら、未だに憶えている。あの夜、もしも「ふたりで逃げようか」と言っていたら、なまえは何と答えたのだろう。

なまえの目が私の底を覗いたとき、全てを奪われてもいいと思わなかったと言えば嘘になる。彼女の全てを見ていたかった。それと同時に、なまえの目に映る私はずっとあの頃と同じであってほしかった。


最後の夜、途切れ途切れに震えた声で彼女が口にした嘘はあまりにも幼稚で、その嘘ごとなまえの手を絡め取ってしまえば、共に連れてくることは容易いように思えた。
永遠に似た沈黙の中に私となまえの肢体だけが白く浮かぶ。私の目を見据えるなまえは、生き方を決めた強くて美しい人の顔をしていた。その頬の下に流れる激しい生への執着は、紛れもなく私が創り出したものなのだろう。

(────いい 意味がない)
いつかの言葉が自分に返って来たような気がした。悟はもう、忘れてしまっているかもしれない。


非術師は嫌いだ。それは私の中で変わることはない。それに付随する怒りとも悲しみともつかないこの感情と向き合い続ける事も、生き方を決めたあの日から覚悟の上だ。

もしも。もしも全てが終わって、私の深淵を隠す必要が無くなる日が来たとしたら。今度は朝の白い光の中で、なまえを抱き締めたい。なまえの目を見て愛していると伝えたい。2人で朝を迎えて、微睡みの光の中で他愛もない話をしよう。そこは穏やかな楽園で、私もなまえも戦う必要なんか無ければ良い。




瞼に透ける光に引き寄せられるように意識が浮上する。コチコチと鳴る時計の音が、12月の静けさに満ちた部屋に響いていた。ほんの少しうたた寝をしている間に集会の時間が迫っていたようで、百鬼夜行を目前に控えたこの状況に自分で思っているよりも精神が摩耗しているのかもしれなかった。控えめなノックがそっと扉を揺らす。

「夏油様、集会のお時間です」

小さく息を吸い込み、さっきまで見ていた夢を反芻する。なまえのことを思い描くと、それは不思議と鮮明でもあるようで、セピア色のようでもある。
なまえの柔らかい体温、甘い声、輝く瞳。この世界で一番美しく光るそれらを、守るために。誰も強くなる必要がない世界で、なまえを幸せにするために。

「ああ。今行くよ」







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