第十五話


白と青と灰色の色鉛筆を適当に塗れば、「夜明け」というタイトルで絵になりそう。傑先輩が出て行った部屋に残されたものはそんな夜明けの空と、ぐしゃぐしゃの顔をした私のそのふたつだけだった。

傑先輩が初めて私を抱き締めた日。あの夜の彼の瞳には、確かな決意の深淵があった。
蜂蜜に浸かるようなふたりの夜を重ねるたびにその深淵の奥が小さく揺らいでいるように見えて、私は何度も何度もふたりでこのまま遠くへ逃げてしまいたいという願望を込め、彼の名前を呼んだ。

私の背中を滑る、火のように熱い手のひら。何度も「なまえ」とうわごとのように私の名前を呼んで、全てを焼き付けるみたいなあの視線、欲望以外の意味が確かに込められていた優しい口付け。そんなものを繰り返し与えられるたび、このまま傑先輩が全ての大義を捨てて私だけを選んでくれるのではないかと、そんな傲慢な期待を抱いた夜もあった。

何もかもを捨てて、傑先輩に着いていけば良かったのだろうか。ずっとふたりでいられるのなら非術師なんかいくら死んだって構わないと、そう叫んでしまえばよかったのだろうか。あの時、ふたりきりでどこか遠くへ逃げようと言ってくれたなら。


窓を開けてベランダに出ると、青白い光がおかえりと言わんばかりに瞳孔を鋭く突き刺した。今日は風が無いから昼間は暖かくなるのだろう。

抜けるような鳥の鳴き声が、朝の空白にヒビを入れた。遠くでバイクのエンジン音がこだまして、誰かのハイヒールの音が響く。
大声を上げて泣いてしまえば最後、何も確かめることができないまま大きな暗い溝にすっぽりとはまってしまって、そこからは二度と抜け出せないように思えた。

笑った顔、意地悪な顔、困った顔、片目をつぶる癖、すぐに脚を組む所。私を抱き締める、燃えるように熱いあの腕、身体、唇。彼の首に腕を回すと、ひんやりと触れる髪の冷たさが好きだった。別れる時はいつも私が寂しくないように「またね」と言ってくれる生真面目な所。昔から知っていた所も昔は知らなかった所も、彼の全てが悲しいほどに愛おしかった。

傑先輩はこの世界に存在しているのに、私だけがどこか遠くの真っ暗闇にある小さな星に行ってしまったみたいだった。その小さな星から私は世界を眺めている。傑先輩に触れるということ。幸福に煌めいていたあの世界はとても遠くて、私に触れてくれるあの大きな手も、もうどこにも無い。




ガサリと無機物の音と共に、私の前に立つ人の気配が瞼に透けた。その気配の名前を呼ぼうと口を開いたけれど、無意識の私が呼ぼうとしたのは当然、傑先輩だった。この期に及んでまだ期待をしている自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れながら細く息を絞りだすと、目頭がじんと熱くなる。そっと瞼を上げる。

そこにはなぜか馬鹿みたいに大きなビニール袋をぶら下げた五条先輩が、薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。

「よっ、なまえ。おはよ。寝不足?顔ヤバいね」
「……おはようございます。すみません早朝に」
「起きてたから大丈夫。てかオマエんちの隣、ナチュラルローソンなの最高じゃない?早く言えよ。プリンめちゃくちゃ美味しそうなのあってさあ、あ!アイスも反則級なのありすぎて全部買っちゃった」
「あの、さっきの電話に出たの五条先輩ですよね?」
「うん、僕だよ」

それが?とでも言いたげな口ぶりで、その軽薄さがかえって私の心を落ち着ける。今なら私の口から、五条先輩に全てを話せるかもしれない。

「わたし、夏油せんぱ、いと」

その名前を口にした瞬間に、視界が小刻みに揺れた。耳の奥に氷柱が差し込まれたみたいに頭の奥が冷えて、呼吸が乱れた。泣くな、泣くなと理性が出し続ける指令を本能が捩じ伏せる。じわじわと滲んだ水分越しに見た五条先輩はいつか見た時と同じ、まるで朝の光の神様みたいに綺麗だった。

あーあ、と呆れるみたいな声を出した五条先輩がビニール袋を乱暴に地面に放ると、ひとつだけ転がり出たプリンがカップの中でどろりと流れる。それはひとりになった今の私によく似ていて、なんだか見ていられなくて起こそうと手を伸ばすと、身体は軋んで言う事を聞かない。

行き場を無くした腕で自分の身体を抱きしめながら、空気を大きく吸ったり吐いたりする私の背中に、五条先輩の大きな手がそっと添えられた。あの日、雄が死んだ日の傑先輩がしたのと同じように上下にゆっくりとさすられる。
この人は、見てもいないのにどうして。


しばらく子供みたいに泣き続けながら、五条先輩はどうして傑先輩みたいなことするんですか。と何度か合間に聞こうとしたけれど、それは中々言葉にならなかった。私の嗚咽の合間、何度も混ざった「どうして」に五条先輩はぽつりと「分かるよ」とだけ言った。
私に向けて言ったのか、それとも別の誰かに向けて言ったのか、悲しみで白く濁った頭では分からない。からからに乾いた喉が声を無くしかけた頃に、やっとまともな呼吸と思考が戻ってくる。いつの間にか五条先輩の手も、私の背中から無くなっていた。

「……ちょっとは落ち着いた?」
「すみ、ません。ありがとうございました」
「世話が焼けるねオマエらは」

未だに途切れ途切れの呼吸を整えようとする私を、五条先輩はじっと待ってくれている。この人は、いつからこんなに優しい空気を纏うようになったんだっけ。

「わたし、一緒に、行きたかったです」
「うん」
「でも、……駄目になっちゃって。選べなくて」

通話なんか切って放り投げて、傑先輩の背中に縋り付くことだって出来たはずだった。そうしなかった。そうしないことを、選んだ。私は、やっと私自身で生き方を選んだのかもしれなかった。


「好き、だから、これ以上、傷付いてほしくなくて」
「うん」
「ほんとは、一緒に、いたかったのに」
「……傑もなまえも、ちゃんと選んだんだろ」

相変わらず軽薄な口調だったけれど、それは世界の後ろで鳴っていた生活の音がシンと一瞬失われたみたいに、私と五条先輩の間で強く響いた。

「頑張ったじゃん」

小さく笑った五条先輩の顔に、傑先輩が重なる。さっき私の背中をなでてくれたあの手の理由も、やっと分かった気がした。ふたりは親友だから。五条先輩の中に、傑先輩がいるから。

「……逃がして、すみませんでした」
「ははっ、自惚れんなよ。オマエじゃ戦ったって勝てないし」
「う、はい」
「それに『僕に連絡すること』って言ったでしょ。なまえはちゃんと僕に連絡した。んで、僕がコンビニ寄ったせいで逃げられた。オマエは悪くない」
「そんな、」
「いーから。はい。脱水で倒れるよ」

五条先輩から手渡されたのは結露に濡れたコーラで、普通は水とかお茶じゃないのかと思うけれど、シュ、という小気味良い音を聞いた途端に強い喉の渇きが目を覚ます。その音は、昔よく飲んだ缶コーラのそれと同じだった。喉に流し込むと久しぶりに感じる強い刺激でむせかけて、五条先輩はそんな私を見て「ガキじゃん」と小さく笑った。

目覚めきった街は、嘘みたいに昨日と何もかもが同じだ。ふと、いつか写真で見た雄の妹のことを思い出した。大きな瞳が雄に良く似たあの子は、今日もこの街のどこかで生きている。

私の胸を突き破ろうとしていた虚無は、コーラと一緒にどこかへ流れゆこうとしていた。

「……一緒にいることと大切にすることは、別物なんですね」
「やっと分かった?」
「へえ、五条先輩は分かってたみたいな言い方」
「うーわ。なまえのその言い方、アイツそっくり。似てきたんじゃない」
「…………泣きますよ」
「ご自由にどーぞ」

サングラスを指先で押し上げてからべっと舌を出した五条先輩の髪に、白い光がぴかぴかと反射する。自転車に乗る学生たちの、青い笑い声が耳を掠める。
私たちはみんな、どこかにあの頃の美しい世界を隠し持っている。そうして五条先輩も私と同じように、傑先輩が帰ってくる日をずっと待っているのだと、ぼんやり思った。

「オマエってさあ男を見る目がないの?」
「逆です。ありすぎちゃって」
「……そーなのかもね」
「2人とも、優しすぎますよね」
「うん。なまえのこと無理矢理連れて行かないあたり、本当に生き辛いヤツだと思うよ」
「……やめてください」
「あはは、すぐ泣く」

コーラを持っていたせいで冷えてしまった右手を瞼に押し付けると、ひんやりとした感覚に滲みかけた涙が引っ込む。手のひらを透過した白い光の中で、別れ際に小さく笑った傑先輩のこころを思った。
今度また会えたら、この白い光の中で愛を伝えたい。私の選択を、彼にも誇ってもらえるように。




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