第十四話


胸に鉛がぎちぎちに詰まっているみたいで、「はい」と返事をした筈の声がくぐもった。私は、傑先輩がどんな顔をしているのか想像も付かなくて顔を上げられずにいる。
困ったように笑った傑先輩の力強い腕が簡単に私を抱き起こすと、そのまま向かい合わせになる。それでもどう頑張っても下しか向けない私の顔が、傑先輩のしっとりとした手のひらであやすように包み込まれた。

「なまえ。怪我をした時のことを聞かせて」
「五条先輩は気付いていて、見逃してくれています」
「そうだろうね」
「五条先輩にどうするつもりなのか暗に聞かれて……今だけです、って答えました」
「うん」
「その後、特級相当の呪霊とやりあった時に、」

言葉を続けるために指先で左耳に触れると、あのシーンが鮮明に蘇ってきて思わず傑先輩の両手を強く握る。死の瞬間に心の底から求めたのはこの熱だけだった。私は生きて傑先輩に再び触れたいと、強く願った。
彼の手の甲に走る薄青い血管をそっと指先でなぞる。生きている喜び、とかいったような陳腐な言葉は嫌いだったけれど、対象が傑先輩ならとんでもない名言に思えてくるから不思議だ。


「油断して頭吹っ飛びそうになったんです。でも傑先輩の事が浮かんできて、死にたくないって強く思ったら黒閃が出て……そうだ。五条先輩が『愛の力かな』とかなんとか言ってたけど、あれって」
「へえ。なまえの黒閃のきっかけになれたなんて先輩冥利に尽きるな」
「茶化さないでください」

傑先輩がその綺麗な眉と口角を釣り上げて、からかうような口ぶりでおどけて見せる。その表情に隠された彼の照れ隠しは透けて見えるほどで、いつもの余裕に生じた小さな隙がたまらなく可愛く思えて私まで口角が上がってしまう。微笑んでいるというよりは破顔を堪えているような顔の傑先輩にじっと見つめられて、なんとか真顔を保ちつつ言葉を続ける。

「傑先輩とこうなる前のわたしだったら死んでいたと思います。仕方ないって諦めてました。……わたしは傑先輩がいるこの世界で生きたいです」
「うん。私もなまえに生きていてほしい」
「わたしが生きる理由は、傑先輩です」


だから、と続けようとした声が震えて、かすれて消えた。「迷うな」と自分に言い聞かせたけれど、傑先輩の鏡のような瞳に見つめられながら何とか紡いだ声には恥ずかしくなるくらいに迷いがそこかしこに浮かんでいて、おまけに途切れ途切れに小さく震えていた。

「わたしを、連れて行って下さい」
「…………ふ、あっはは、君は相変らず嘘が下手」


しばらくの沈黙の後で、傑先輩の笑い声とシーツの衣擦れの音だけがやけに部屋に響いた。話し始めた時にはうるさく鳴り響いていた私の心臓はもう静まり返っていて、鼻から小さく吸い込んだはずの酸素が大げさなほどに私の胸を膨らませる。
私は、自分で思っている以上に緊張しているのかもしれなかった。傑先輩は少しだけ顔を右に傾けていて、左頬に流れた髪がその表情を翳らせている。

「嘘だって分かってても騙されたふりして、わたしのこと無理矢理連れて行ってください。傑先輩ならできますよね。わたしも先輩と暮らして、それで」
「私は非術師を沢山殺した。両親も含めて」


明瞭な声が、暗い部屋に反響した。知っていたはずなのに傑先輩の口からその事実を聴くと途端に目眩がして、頭の奥に火が着いたのかと思うほど熱い。

「これからも、非術師を殺すよ。私と来たらなまえは見なくても良いものを沢山見ることになる。君にとっては意味が無くて、ただひたすらに辛いだけだろう。……何より」

傑先輩が、左頬に流れた髪を耳に掛ける。夜明けの光で露わになったその顔は、水族館で私を見据えた時の五条先輩と同じ、深く沈めた決意の上で生き続けようとする、強いひとの顔だった。


「なまえを悲しませてしまうことが、私は何よりも怖いんだよ」

言い終わると同時に傑先輩の瞳が大きく揺れて、目元の絹のように薄い皮膚が少しだけ赤らむ。
傑先輩は、あの日に全てを選んだのだ。
奪ってはいけない、と思った。衝動的にその身体を抱き締めると、傑先輩の腕も荒々しく私を抱き締め返す。
生命力に溢れるその首に耳を当てて彼の血潮の音を確かめる。拍動とともに低く廻るそのいのちの音を、今は一瞬も聞き逃したくなかった。昨夜からついさっきまで散々口付けを交わしたはずの私たちは、それを全て忘れてしまったかのように再び唇を合わせ、慰め合うように舌を絡めた。

私の愛に傑先輩が応えるということ。傑先輩の愛に私が応えるということ。それがもし、彼の大義の綻びとなってしまったら?彼がここまで生きてきた理由を、奪ってしまうとしたら?

傑先輩が選んだ地獄は、仄暗くて悲しくて、さみしい地獄だ。愛という武器だけでその地獄を進もうとする果敢さを持ち続けるには、私たちは大人になりすぎてしまった。


「……8年前に誘惑してくれてたらな」
「一緒に来てくれていた?」
「もちろんです。あの頃のわたしは何にも持ってなかったですから」
「どうだろうね。君は変な所で理性的だから、振られてしまったかもしれないよ」

混ぜられた傑先輩の笑い声は、ぱさぱさに乾いていた。もう戻れない、何でもない過去が写真を捲るように思い出されては涙でぼやぼやと視界が滲む。それなのにグラウンドの砂埃と夏草の香りはもうちっとも思い出せなくて、役立たずの鼻の奥がツンと痛む。
雄を失って、傑先輩もいなくなってしまった空っぽのあの晩夏。もしもあの夏に戻れるのなら、私はどんな生き方を選ぶだろう。


「……傑先輩の決めた生き方は、地獄ですね」
「それでも私の大義だ。自分にできることを精一杯やるさ」
「はい。わたしも、精一杯生きます」
「うん。なまえ」

私の名前を強い声で、確かめるように呼んだ傑先輩がゆっくりと立ち上がる。空の色は紺色から白んだ青に変わり始めていて、カーテンの隙間から差し込む光が私たちに朝が近い事を教えていた。

時々触れるようなキスを交わし合いながら、傑先輩が袈裟を身に纏うのを揺れる心と瞳で見つめる。こらえようとした涙が下瞼に膨らんできて、ぱちりと瞬きをした瞬間にそれが崩れて頬に流れる。一度崩れてしまうともう止めようが無くて、着替え終わった傑先輩が私を優しく抱きしめてくれた時には、嗚咽で言葉を発するどころか呼吸もままならなくなっていた。

この人の全てを、何もかも覚えていたい。目をしっかり開けてその顔を焼き付けたいのに、私を見つめる傑先輩があんまりにも優しく笑うから、その愛おしい顔がますます涙で霞んで見えなくなる。
傑先輩の身体が離れていって、私たちを繋いでいるものはお互いの手だけだった。彼がここにいるという確信は、この手を離したら私の中から失われてしまうような気がした。
この手を離したら私たちは、ひとりとひとりになってしまう。

「やだ、嫌です、いかないで」
「なまえ。大丈夫だから」
「なにが、全然、だいじょうぶじゃ、ない」
「深呼吸して。私はもう行かなくちゃならない」

ひゅっと喉が鳴って、肺の奥が狭まる。息を吸っているはずなのにいつまでも苦しいままで、繋いだ右手に力を込めた。傑先輩の大きな手のひらで頬を拭われた、今この瞬間だって私の天秤は大きく揺れているのに。今すぐその手を掴んで、抱きついて、連れて行ってよと大声で泣き叫んで縋りたいのに。

「やだ、ねえ、すぐ、る、せんぱい」
「生きて、なまえ。私を信じていて」
「、っ……う」
「私は君を、幸せにする」

そう言った傑先輩の確かな声とその強いまなざしだけで、彼が心の底からの言葉を私にくれたのだと充分過ぎるほど理解できた。愛している、なんていう言葉よりももっと神聖な気がして、同じくらい神聖な言葉を傑先輩に伝えたい。そう思うのに、酸素が足りない私の頭ではこくこくと何度も頷くことが精一杯だった。

その拙い頷きに「うん」と噛み締めるように返事をした傑先輩が、私の手を解いて離した。
それと同時に、昨夜から置き去りにしていたはずのスマホを手渡され咄嗟に受け取る。無機質に光る液晶が眩しくて目を細めると、2コールの機械音が鳴ってから私たちの良く知る声が耳に響く。全てがあの頃と同じ様に見えていたのに。私たちが変わってしまったのか、それとも私たちが変えてしまったのか、わからないまま傑先輩を見上げる。もう彼は踵を返していて、振り返ってはくれなかった。

『もしもーし。なまえ、どうしたの?こんな早くに』
「…………五条、先輩」
『うん、なあに』


背を向けた傑先輩の身体がドアへと向かっていく。行かないで、と、傑先輩に向けてそう声に出しかけて唾と一緒に飲み込んだ。
違う。私が今、口にするべき言葉は────

「夏油先輩と、接触しました」


部屋を出ていく瞬間、振り返った傑先輩が小さく頷いて笑った。それは8年前と全く同じ、私を褒めてくれる時のあの顔だった。
ドアの隙間から袈裟の裾が廊下に消える。夜明けの静寂を取り戻した部屋には、通話が切れた液晶の灯りだけがぼんやりと浮かぶ。

笑った後の傑先輩の唇は「またね」と動いたような気がしたけれど、目が溶けて流れてしまいそうなほどに溢れてきた涙のせいで、それはよく見えなかった。




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