第十三話


※高専時代




あと5分も歩けば、踵の皮膚がべろりと剥けそう。そんな微かな靴擦れの気配を誤魔化すために爪先立ちになりながら、私は地図と睨めっこを続けていた。
高専の敷地は広大すぎて、入学して2週間が経つというのに未だにどこに何があるのかさっぱり分からなかった。同級生の七海は勝手知ったる様子だから、頭の作りが違うのか、私がおかしいのかもしれない。オリエンテーションで貰った高専内の地図は折り目がこすれて色褪せてしまったから、無事に教室へ辿り着けたらもう1枚貰えるか先生に聞いてみよう。

もうすぐ授業が始まる時間なのに、女子寮から教室まで一緒に行く友達すらいない、というより同級生に女子がいないのだ。心細さと迫り来る時間への焦りで叫び出しそうになる気持ちを抑え、眉間に力を入れながら地図に指先を添えようとした瞬間。突然灰色の影が落ちてくる。

帳が下りたのかと思って慌てて見上げると、そこには真っ白な朝の光の神様みたいに綺麗な人と、夜の漆黒を丁寧に形にしたような美しい人が私を覗き込んでいた。

噂では聞いている、恐らくこの人たちが五条先輩と夏油先輩だ。サングラスからわずかに覗く五条先輩の宝石のような六眼が細められると、何もかもを見透かされているような気になって慌てて目を逸らした。

「あ、あの……」
「ふーん。傑の超ウルトラハイパーミラクル下位互換って感じ」
「悟、君ねえ。いくらなんでも失礼すぎるよ」
「これじゃ術式の持ち腐れだろ。近距離型って訳でもなさそうだし、おいオマエ4級とか?」
「3級です」
「へえ、意外だね」
「俺より傑のほうがよっぽど失礼じゃね?」

「なぁ?」とこちらを向いた五条先輩が心底楽しそうに笑う。どっちも同じくらい失礼だ。道に迷った挙句、怖い先輩たちに妙な絡まれ方をして、下位互換とか持ち腐れとかなんとか言われて。
地面に下ろした踵が、新品のローファーに擦れてヒリヒリ痛む。それに加えて、心細さに折れかけていた私の心はもう限界だった。自分への情けなさもひっくるめた心の内が胸から喉へと迫り上がって勢いよく飛び出す。

「あの!どっちも失礼ですよ。お二方とも先輩として敬えそうになくてがっかりしました。急いでますので失礼します」

五条先輩も夏油先輩もぽかんとした顔をしていたけれど、言い終わった後にもしかして私は殺されたりしないだろか、と急に不安になってくる。一応、「それでは」とちょっと高い声で付け加えてから、なるべく早足でその場を後にした。振り返ったらおしまいだ、靴擦れなんかよりももっと痛い目にあうかもしれない。



「……傑、どうよ」
「適当に愛想笑いするよりは素直で良いんじゃない?」
「へえ。気に入ったってか」
「悟、先に教室行ってて」
「傑先輩やっさしー」




やってしまった、これから少なくとも4年間、それどころか死ぬまでの付き合いになるかもしれないのに。謝った方がいいのか、でも失礼なのは向こうだ、とぐるぐる考えながらひたすらに前へと歩みを進めていると、突然大きな神社のような場所に出た。
鳥のさえずりと木漏れ日がぽかぽかと優しく広がっているそこに立つと、授業も先輩も呪霊も何もかもがどうでも良くなってくる。爪先立ちのまま、太陽へと両手を伸ばした。

「んー……!もう、授業行かなくていっかぁ」
「入学早々サボりはいけないね」
「えっうわ」
「や。さっきはごめんね、君の言うとおり失礼だった」
「あ、いえ……はい。わたしも、すみませんでした」
「なまえちゃん、だよね。術式が似ている子が入るから面倒みてやれって夜蛾先生に言われているんだ。2年の夏油傑です。よろしく」

握手だと思い差し出された右手を握ると、夏油先輩の肩に回される。大柄な夏油先輩に支えられた私の身体は簡単に宙に浮いて、やっぱりさっきの事を怒っているんだと一気に背中に冷や汗が滲む。

「ごめんなさい!殺さないで」
「あのね、私を何だと思ってるの?足痛いんだろ。教室まで送るよ」
「……なんで分かるんですか?」
「歩き方で分かるさ。場所、分からなかったらいつでも私に聞きな」

そう言って優しく笑った夏油先輩に、あの日から私はすっかり心酔してしまったのだった。

夏油先輩は強さもさることながら、その洞察力と細やかな気配り、そして美しいほどに正しい優しさを兼ね備えていて、あの第一印象は私が勝手に見た悪夢だったんじゃないかと思うほどだ。五条先輩は相変わらず怖かったけれど、雄と付き合う事になってからはよく2人で夏油先輩にまとわりついては五条先輩に意地悪を言われ、自動的に七海も巻き込まれていたような気がする。

私も雄も、……七海は分からないけれど、尊敬する夏油先輩に褒めて欲しくて必死だった。それなのに、雄と七海ばかりがどんどん強くなっていった。最初は私たち3人で任務に出ることが多かったのに、七海と雄の術式は相性がいいのか2人で任務に出る事が増えた。


今日も雄は七海と2人で任務に出ている。やり切れない気持ちを抱えた私は夏油先輩にお願いしてグラウンドで1時間ほど組手をしてもらった。相変わらず一発も打ち込む事ができないまま私の呪力と体力の限界が見えた瞬間、咄嗟に夏油先輩の左脇腹に打ち込んだ蹴りがシャツを掠める。驚いた顔をした夏油先輩が、私を見つめ小さく頷いて笑った。

私は、夏油先輩がたまに見せてくれるこの顔が好きだった。褒められた事に嬉しくなってついつい油断したその足は、簡単に夏油先輩の腕に払われて芝生の上にストンと尻餅を付く。

「夏油先輩〜、も、むり」
「最後の蹴りはすごく良かったよ。 なまえは呪力のロスが多いのかな。悟に流れを見てもらおうか」
「怖いから嫌です」
「口調は乱暴だけど良い奴だよ。なまえと灰原が自分に懐いてくれないから拗ねてるのさ」
「良い人なのはわかってますけど、すぐ意地悪言うんですもん。第一印象も怖かったし」
「……私は良いのかい?」
「はい!夏油先輩は優しい人です」

何故か意味深な頬笑みを浮かべた夏油先輩が、私の隣に腰を下ろす。普段よりも髪が乱れていて、流れたおくれ毛が白いうなじにかかっていた。夏油先輩は任務帰りだったのに、稽古に付き合わせてしまった申し訳なさが今更襲いかかってきて背筋がピンと伸びる。

「あの、お疲れのところありがとうございました」
「ああ、構わないさ。大したこと無かった」
「取り込んだんですか?」
「うん、2体。雑魚だったけど一応ね」
「いいなあ」
「……コピーのほうが良いと思うよ」

その声が少し苦しそうに聞こえて夏油先輩の顔を見やると、なんともないような表情で遠くを見ていた。勘違いさせてしまったかもしれない。私が羨ましいのは、そっちではなくて。

「いえ、呪霊が羨ましくて」
「は?」
「夏油先輩みたいな優しくて綺麗な人に取り込んでもらえるなら、幸せじゃないですか」
「っふ、あはは!なまえは本当に変だね」
「え、なんですか」
「まさか呪霊の気持ちで喋ってるとは思わなかったよ」
「確かに。深い意味はなかったんですけど……」

目じりに流れてきたのであろう涙を指で拭いながら、夏油先輩は芝生の上で長いこと笑い転げていた。夏油先輩がこんなに笑うなんて珍しいな、と思いながらも、じわじわと私まで面白くなってくる。
でもきっと、雄に話したら分かってくれるだろう。彼が任務から戻ったら今日の話をする、と忘れないよう記憶にメモをして空を見上げる。それでもいつも雄の顔を見ると、その記憶のメモは全て吹き飛んでしまうのだけれど。

「なまえ、明日は灰原たちが帰ってくるんだろ。ゆっくり休んだ方がいい」
「はい、そろそろ戻りましょう。本当にありがとうございました」
「いいさ。またいつでも付き合うよ」

さっきの苦しそうな声は私の聞き間違いだったのかもしれないと思う程に、夏油先輩の声はいつもどおり穏やかで優しかった。こうして雄や夏油先輩、大切な人たちみんなとずっと一緒にいられたらいい。そのために私は少しずつでも強くなって、自分にできることを精一杯やる。

「自販機寄っていこうか。なまえ、好きなの選びな」
「え!そんな……じゃあ桃天で!」
「フフッ、もう決まってるんだね」

夏油先輩と並んで歩く帰り道で、私たちの頬を撫でる風は生温かい。その風は茂り始めた夏草の、青くて優しい香りがした。




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