第十一話


その海の模様が騒々しい袋は、白い消毒液の壁にあまりにも不釣り合いだった。次々とちんすこうを取り出しては口に放り込む五条の前に、ゴトリとマグカップが置かれる。2つの立ち登るコーヒーの湯気が医務室独特の香りを誤魔化し始めると、途端に2人の間には旧友独特の柔らかい空気が漂った。

「あんがと、しょーこ」
「土産なら泡盛にしてくれよ」
「何言ってんの?これ土産じゃないよ、全部僕の」
「いらねえよ」

ぼちゃぼちゃと角砂糖を放り込む白い指に、抵抗するようにコーヒーが跳ねる。砂糖が溶けきる前に話し始めてしまおうと、五条が珍しく重たげに口を開いた。

「なまえがさぁ多分、……傑と会ってる」
「へえ。馬鹿だな」
「ほーんと馬鹿だよね。証拠は掴めてないけど、ほぼ間違いない」
「……掴めてないんじゃなくて、掴んでないの間違いじゃないのか」
「硝子、性格わるーい」
「今更。で、どうするつもりなんだ」
「正直なまえを殺すか、拷問でもしようかと思ったよ。それが正しいって事も分かってる。ただ」

スプーンを沈めたコーヒーからは、砂糖への抵抗はもう感じられなかった。くるくると渦を巻きながらも従順にそれを受け入れる様子を見ていると、五条は肺の奥の方から込み上げてくる笑いを堪えられなかった。

「なに笑ってんの、気持ち悪」
「オマエさっきからどうしたの?土産無かったからって拗ねてんの?」

ハァ、と心底面倒臭そうに溜息を付いた家入が脚を組み替える。そろそろ次の患者が訪ねてくる時間だ。

「良いのか、放っておいて」
「考えてもみろよ。この8年間となまえを天秤に掛けてるんだ。……下らない情なんかで自分以外を危険に晒すほど馬鹿じゃないよ、アイツは」
「さすが親友。分かるもんだな」
「……そうだったっけ?」
「後輩可愛さもあるだろ」
「ははっ。そりゃまあ、少しはね」
「なまえ、耳治さなくていいってさ」
「ふうん、変わってんね。……いじらしいって言った方がいいのかな」

砂糖の質量をたっぷり含んだコーヒーを飲み干した五条が席を立ったと同時に、医務室のドアががらりと開いた。

「ああ、待ってたよ。先に熱を測って」

家入が医師の微笑みを張り付けて対応する様子は、五条にとっては滑稽で胡散臭くて、見ていられないような気持ちになる時がある。ふと、家入から見た自分もそうなのだろうかと思い直して、8年前の自分たちはどんな顔をしていたかを回想する。

(全員、碌なもんじゃなかったな)
恥ずかしい、青い春。あの日を煙に巻くかのように、五条は白い医務室を後にした。





寝室の鏡に映る、指を頬にぎゅぅと押し付けたその顔はいつも通りの見慣れた自分だ。そのまま指先でそっと顎を撫でても、その質感も以前と変わらない。反転術式とは凄いものだ。五条先輩の脳みそは常に新鮮だと聞いた事があるけれど、実際に治療を受けた身としては、彼を人間と呼んで良いものかいよいよ怪しくなってくる。

「無くなったものは完璧には戻せないよ」と硝子さんが言った。そう言われるまでもなく、耳たぶは最初から治してもらうつもりは無かった。

指先でそっと触れると、あの瞬間の感情があの瞬間のままに蘇る。私は「死にたくない」と思った。生きて傑先輩に触れたいと、強く思った。この感情は、恋慕なんかではなくて──

「いまさら、かな」
「……何が?」
「私たちがこうなって、結構時間が経ったなと思って」
「そうだね。後悔してる?」
「全く。……先輩は?」
「フフッ、全く」
「よかったです。……会いたかった」

私が放った「会いたかった」の声は、自分で思っていた以上に切実な響きを持っていたようだった。少し驚いたような顔をした傑先輩の腕は普段よりも性急で、私は前のめりに、まるで転がり込むかようにまっすぐ彼の胸に飛び込んだ。

「どうしたの、なまえ。何かあった?」
「……傑先輩に、会いたかったです」
「それは私もそうだけど、」

私のこめかみに唇を押し当てた傑先輩の身体と腕に緊張が走ったと思うと、その指先が私の耳に優しく触れる。「ここ、」と低く響いた、くしゃくしゃにした紙のような声は、初めて聴く傑先輩の動揺の声色だった。

「ここ、怪我したのかい」
「ちょっとしくじって。でも大丈夫です。硝子さんに治してもらいました」
「無事で良かったよ。……痛かった?」
「うーん、まあ。はい」
「何だか妙な返事だね」
「痛いって気がつくまで、時間がかかりました。他に…色々と気がついた事があって」

言おうか、言うまいか。私の少しの逡巡は、唇に添えられた傑先輩の親指によって途切れた。そのまま、そっと口角から口角を撫でられ、真っ直ぐに目を見つめられる。傑先輩に瞳を捉えられると、自分でも制御できないくらいに心がざわめき出してしまう。私はいつもそのざわめきをどうにかしようと、焦燥感でおかしくなりそうだった。彼をしっかり捕まえなければ。いなくならないでと叫ばなくてはと、そう思っていた。

「……気がついたことって?」
「傑先輩に言わなくちゃいけないことです」

傑先輩の手を引いて、2人ですっかり慣れ親しんだベッドに腰掛ける。ぎしりといつも以上に響いたその音に、背中を押された気がした。

「聞くのが少し怖いな」
「怖くないですよ。前に先輩に、死に向かってるみたいだって言われた意味がやっと分かりました」
「……どうしてかな」
「わたし、生きることに執着が無かったんです。どうせ死ぬし、と思って生きてました。でも」

言い淀んだ私が次に紡ぐその言葉を、きっと傑先輩は知っているのだろうと思った。意味ありげに微笑んだ彼の顔に、ベットサイドのライトが影をつくる。まるで夢みたいに綺麗で、その言葉を紡ぐことが少しだけ怖い。

「死にたくなくなりました」
「うん」
「傑先輩のことを、愛してるから」

ライトで影が落ちている傑先輩の表情は、ぴくりとも動かなかった。私の言葉が彼に届いているのか不安になる程、その顔からは感情が窺えない。傑先輩はただ真っ直ぐに、私の目を見据えていた。彼が沈黙を選んでいることを利用して言葉を続ける。もしかしたら、私たちは今日で最後かもしれない。


「怪我をした時に、死にたくないって思ったんです。傑先輩に会いたいって。この世界で、傑先輩と生きたいと思いました」
「なまえ」
「わたし、傑先輩のことを愛してます、」
「なまえ、もういい」
「っん……ん」

頬を伝って、ベッドに涙の大きな染みができていた。しゃくりあげるせいで声にならなくなった私の愛の言葉を、傑先輩の唇が、その舌が奪い取っていく。重ねられた唇が深くなって、隙間ないほどに舌を絡め合う。このまま彼の火が私に燃え移ってしまいそうな程に熱いその身体は、私と同じくらいに雄弁に愛を伝えてくれていた。

その美しい黒髪がさらりと流れて、狂ったように口付けを繰り返す私たちを隠す。滑らかな頬、清しい歯、高い鼻梁に、柔らかい唇、その優しい瞼まで、彼を形作る全てが愛おしくて堪らなかった。全てを覚えていたいと思った。

「傑先輩の全部、忘れたくない」
「……私も、いつも思っていたよ。なまえの全てを覚えていたいって」
「ずっと一緒にいたいです」

返事の代わりに滑り込んできた傑先輩の舌を、逃すまいと絡め取る。泣き声なのか、弄り合う快楽からくる喘ぎなのか分からないような声が漏れる。早くその肌に触れて、私の肌にも触れてほしかった。今この瞬間、一秒も離れていたくなかった。


地獄みたいな愛だ。私はそれを得て強くなった。でも傑先輩はきっと、それを得て弱くなった。『どこに行ったって地獄だろ』というあの言葉は、誰のものだったっけ。

くっついてしまったように唇を合わせたまま私の服を剥ぎ取った傑先輩が、それを荒々しく放り投げる。壁に映るふたりの影と共に、終わりに向かう夜が揺れた。




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