第十話


まっぷるって、経費で落ちるのだろうか。それならことりっぷも欲しいな、と、本屋で「沖縄」と表紙にある本を片っ端から抱えながら、片手でなんとかLINEを送る。

『旅本は経費で落ちますか?』
『なまえはアホなの?落ちる訳ないでしょ』

続けざまに送られてきた、溜息をつくフワフワの猫のスタンプは、送り主の五条先輩にそっくりだった。



経費で落ちないとはいえ、伊地知くんを信頼している私は2冊とも購入し、ちゃっかり領収書を貰ってきた。沖縄へ向かう飛行機の中では、アホなの?とか言っていた筈の五条先輩のほうがすっかり本に夢中になっていて、楽しげな場所や物を見つけるたびに「ねえねえ」と私を呼ぶものだから音楽すら聴けやしない。

「ねえねえ僕ここ行きたい。おきなわワールド。ハブいるんだって」
「わたしは美ら海水族館行きたいです。ていうかほぼ自由時間無いですよ」
「僕そこ行ったことあるもん」
「わたしはないですもん」
「オイオイオイ、僕先輩、オマエ後輩」
「後輩には優しくしてください」

やだ、と言って舌を出した五条先輩が、その長い脚を持て余すように小さく組み替える。特級と一緒の任務なら間違いなくファーストクラスだとばかり思っていたけど、ごく普通のエコノミーなのは意外だった。そもそも五条先輩はボンボンなだけで、別に贅沢好きってわけでもないんだろうな。

特級と一級で任務に当たるのはかなり珍しいことだ。今回は近場で2案件、どちらも特級呪物が影響していることと、どうやら軍の絡みもあるらしい。国際問題に発展することを危惧した上の指示で、私も同行する事になった。

「うわー五条先輩!下見てください、海!」
「なまえこの間も沖縄来たんでしょ?」
「何回来てもテンション上がりますよ」
「はは、子犬みてえ」
「先輩、昔っからそれ言いますよね」
「その通りだったろ、オマエと」

一拍置いてから「灰原」、と付け加えた五条先輩の顔を横目で見ると、何てことないような表情をしていた。雄と2人でいると、五条先輩はいつも私達のことを子犬が2匹だとか言ってイジってきたっけ。雄が居なくなってからぱたりと言わなくなったけれど、無遠慮に見える彼のそういう繊細な優しさは、まるで傑先輩みたいだなと思った。



帳を下ろすとはいえ国際問題が絡みかねない案件のため、人目が少ない夜の方が良いでしょうと伊地知くんも言っていた。それまでの時間つぶしに、方面的にも都合が良いですよ、とかなんとか適当に押しきって、私と五条先輩の2人で美ら海水族館に入館する。

あんまりにも広いから、閉館時間までに全てを観るのは難しそうだった。「僕、来たことあるのにー」とずっとぶーたれていた五条先輩も、平日で人が少ないからだろうか、入館した途端に人が変わったように楽しげに魚たちを見つめていた。

「お、本命」
「うわ……すご」
「うん、すごいよね」
「先輩が前来た時に見たサメとは別のサメですよね。きっと」

ジンベエザメの巨大な水槽を目の前にして、まるで空みたいな壮大さにしばらく呆然としていると、隣に立っていた五条先輩がサングラスを押し上げて、眩暈を堪えるように眉間を押さえた。

ふと気がつくと、私たちの周りには誰もいない。賑やかな水槽の中が、却って不自然なほどに。ふぅ、と聞こえないくらいの溜息をついた五条先輩が、独り言の様に口を開く。さっきまでの楽しげな声と同じトーンなのに、それはどこか奇妙にも思えるほどの明るさを孕んでいた。

「ここ、星漿体の護衛任務の時に来たんだ。その星漿体のヤツらと、傑と」
「あぁ、……七海と雄は空港から出られなかった、アレ。あの時、雄とすっごい喧嘩したんですよ。七海にまでズルい!って八つ当たりして、」

傑先輩の名前が出た瞬間、声が震えた。誤魔化そうとすればするほど、喋れば喋るほど私の声は不自然に宙に浮いて、五条先輩に届いていないのが分かる。眉間を抑えながら瞳を閉じていた五条先輩の瞼が開いて、鋭く細めたその六眼に私を映した。

「……五条先輩、覚えてますか」
「クソってほど覚えてるよ。なまえ、僕の言いたいこと分かるよね?」
「分かってるフリを、してます。今だけ」
「へえ、今だけ?」
「はい。今だけ」

鳩尾から絞り出した、あまりに真っ直ぐな声は自分のものじゃないみたいだ。五条先輩は、私の言葉の真意を確かめるように数回瞬きをした。その鋭い視線は、数十秒の逡巡の末、大きな水槽の青に溶ける。

いつもどおりの五条先輩が、「馬っ鹿だねえ」と乾いた声を漏らした。

「オマエの幸せがどこにあるのか知らないけど、どっち行ったって地獄だろ」
「私達、そんなの今更じゃないですか」
「……僕、やっぱりおきなわワールドが良かったな」
「付き合ってくれてありがとうございました」
「ちゃちゃっと終わらせて行こうぜ。ハブって夜行性だろ」
「えぇ、さすがに閉まってますよ」
「なまえが自信ないの?それともまさか、僕のこと舐めてんの?1分もかかんないよ」





五条先輩は1分で終わったんだろうな。

ギリギリで呪霊の攻撃を避けて、ありったけの呪力を込めて呪具を振る。本体が分裂するタイプだろうか、何体倒しても同じヤツが続々と現れ続けて、私はかれこれ30分はこうしている。うんざりしかけた頃、ようやく本体を捕らえた私のコピー呪霊が、それを破壊したことを私の感覚に知らせた。

「そうだ呪物」、忘れてたと手を伸ばした私は、疲れもあったのか油断していたのだ。特級呪物を取り込んでいたその呪霊は、最後の花火と言わんばかりに大きな攻撃を仕掛けてきて、その鋭い風が私の髪を横切ると空間が歪む。世界がまるで静止画のように見えた。


────あ、頭吹っ飛ぶ

死を確信した瞬間、揺らめく大きな感情が湧き上がって、私の眼はそのシーンの何もかもを理解していた。自分が呼吸を必要としている生き物だという事を忘れたように、これまで得た全てを完全に理解したように、はっきりと手に取れる私の呪力の形もその感情と全く同じように大きく揺らめく。他人事のように、幾度か黒い火花が散った。


気がついた時には、私は呪物を握りしめたまま地面に寝転んでいた。呼吸が深い。思考が音になって聴こえてくるようなハイな気分で、顎から耳にかけて火が付いたみたいに熱くなっている。そっとそこに触れると、ぬるりと指が滑った。そのまま耳たぶまで指を滑らせると、24年間連れ添った左の耳たぶが一部、無くなっていた。恐る恐る天にかざした手は、信じられないくらいに血塗れだ。


「…………嘘でしょ」
「よっ。なまえ、耳えぐれてんじゃん。ウケる」
「……見てたなら助けてくださいよ」
「助けなくて結果オーライだろ。オマエってああいう戦い方出来るんだね」
「黒閃、はじめて出しました」
「七海より先になまえとは意外だったよ。愛の力ってやつかな」

今度は雄の名前を付け加えなかった五条先輩は、呪物を受け取ったその手で私を引っ張った。何とか起き上がると、出血で冷えた頭がくらりと揺れる。

あの瞬間も、今も、傑先輩の映像ばかりが浮かんで消えた。私は「死にたくない」確かな理由を見つけたと、はっきり分かった。


「……死にたくなかったです」
「うん。なまえっていつ死んでもいいみたいな顔してさあ、想定内の緩い戦い方してたもんね。ちょうど良かったんじゃない」
「サイコパスですか?五条先輩には血みどろの後輩を労る気持ちが無いんですか」
「無いね。帰ったら硝子に治してもらいな。あ、飴いる?いちご味。労りの気持ち」
「……いらないです」


サイコパス、もとい五条先輩は、口では意地悪を言いながらも丁寧に応急処置をしてくれたし、報告も処理も全てを済ませておいてくれた。
それでもこの人は私を置いてどこかに行きかねないと疑っていたのに、帰りの飛行機まで何だかんだ世話を焼いてくれて、本当にあの五条先輩かと恐ろしい気持ちにすらなる。


じくじくと傷口が痛むのは、飛行機の気圧のせいだろうか。気を紛らわそうと、今更『ことりっぷ 沖縄』を隅から隅まで読む私のオデコに突然、五条先輩の冷たい指先がぱちんとぶつかる。

「いたっ……労る気持ちは無いんですか」
「ははっ、無いね」

サングラスで表情が窺えない五条先輩は、ぽそりと「耳だけで済んで良かったじゃん」と、笑っているみたいな口元でそう言った。




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