第九話


傑先輩は、中々に多忙な教祖らしい。いつも彼がうちへ訪ねてくるのは、早くても23時を過ぎてからだった。3回目ぐらいからおおよその曜日と時間を約束するようになったけれど、6回目の約束を取り付けた夜に初めて「夕方には来られそうだけど都合はどうかな」と言われた時は、思わず両手を上げて喜んでしまった。

18時に取り付けた約束のその日まで、私は毎日のようにふらりと本屋に立ち寄ってはレシピ本を立ち読みしてみたり、『おうちデート 何する』なんて検索したりしながら、2週間と3日をソワソワと過ごし、その日を迎えた。レシピ本を散々立ち読みし気合を入れて料理を作ったものの、特段料理が得意な訳でもない私が作るものなんてたかが知れている。それでも傑先輩は「美味しいね」と優しく笑って全部食べてくれたし、ご馳走になったからとお皿まで洗ってくれた。


いつもは深夜の秘密めいた時間を共に過ごす傑先輩が、普段着のまま私の日常に溶け込んでいる様子が不思議でたまらなくて、でもそれ以上にその温かな幸せが私の感情を昂らせた。傑先輩が咀嚼する時の顎や喉仏、箸を上げ下ろしする指、お皿を洗う背中にだって、もう散々触れているはずなのに、じっと見ているとむずむずと懐かしくて切ない感情が湧き上がって、触れたくて堪らなくなってくる。

それをなんとか誤魔化し続けるのがいよいよ辛くなってきた私の提案で、映画を観ながら夜の始まりを過ごすことになった。



「なまえ、まだ飲めるかい?」
「はい。ちょっとなら」
「これ、デザート代わりに。甘いからきっと君も好きだと思うよ」

ソファの前にあるローテーブルに、ごとんと綺麗な日本酒の瓶が置かれる。ラベルの裏側を読み上げると『貴醸酒』と見慣れない表記があって、何だか傑先輩がすっかり大人の男になってしまったことを痛感する。昔、雄や七海、傑先輩たちみんなでこっそりお酒を飲んでオールした事もあったけれど、あの時みんなで飲んだのは何の変哲もないコンビニの缶チューハイだったのに。

「へぇ。ぜひいただきます」
「バニラアイスがあったらかけても美味しいと思う」
「ありますよ!先輩も食べますか?」
「なまえのを一口貰おうかな」


バニラアイスをお皿にあけて、ソファに座りながら映画を選ぶ傑先輩の隣に腰を下ろす。雰囲気が出るかと思って電気を消すと、傑先輩がほつれた髪を耳にかけながら、こちらに向き直った。

「もう?積極的だね」
「は?!違います、雰囲気出るかと思って」
「そうだね。でもたまには明るい部屋っていうのもいいんじゃないかな」
「雰囲気違いです、映画の雰囲気です」
「ふふっ、冗談。なまえがさっき観たいって言ってたの、これ?」
「これです。あー、この次のもいいな」
「あぁこれ。面白いよ。ヒロインがムカつくんだけど、最後派手に死ぬんだ」
「えっすんごいネタバレ……」
「じゃあこれにしようか」

私が観たいと言った方にカーソルを合わせて、再生ボタンを押そうとしたはずの傑先輩の指がそのまま浮いた。リモコンが机に置かれる、大きすぎるくらい大きな音が暗い部屋に響く。

「ね、なまえ。映画が始まる前にキスしてもいい?」
「……聞かないでください」
「ふふ。可愛い」

顎に添えられた指と、腰に回された手のひらから傑先輩の体温が私の身体をじわじわと侵食する。軽く触れたと思うと唇で緩く食まれたり、舌先で軽く舐められたりする戯れのようなキスに思わず目を開けると、傑先輩の綺麗な黒い瞳と視線がぶつかった。

少し唇が離れるたびに、優しく笑いながら「可愛い」と何度も囁く彼の声とその視線が、まるで甘いお酒みたいに頭の中を痺れさせる。

ついさっきまであんなに触れたいと望んでいた背中がここにあって、腕を回した私の身体を彼の身体が包んでくれる。これが傷の舐め合いだとしたら、幸福というものに傷は必要不可欠なのかもしれない。


「……ここまでにしようか。アイスが溶ける」
「……そういえば」

数えきれないほど唇を合わせている隙間に、悪戯っぽく笑った傑先輩の視線を追うと、溶けかけのバニラアイスが申し訳なさそうにこちらを見ていた。

傑先輩が鷹揚とした手付きでそれに貴醸酒をかけ、キスの余韻で惚ける私の手にバニラアイスのお皿を乗せてくれると、その皿底の冷たさで幾分か冷静になる。薄暗いからだろうか、きらきらと光って見えるそれを口に運ぶと、とろりとした甘さと優しい日本酒の芳しさが鼻に抜ける。貴醸酒は、瓶ごとごくごく飲めそうなくらいに優しくて甘くて美味しかった。

「甘くてすごくおいしいです」
「気に入ってくれて良かった。一口くれる?」

するりと後頭部に傑先輩の大きな手が差し込まれると、私の唇はいとも簡単に彼に捕らえられてしまう。甘いバニラアイスとお酒の香りが傑先輩と私の口内を行き来するたびにどんどん酔いが回る気がして、抜けるような吐息が漏れる。私の舌ごと吸い上げた傑先輩の唇は、ゆっくりと離れると「本当だ。甘いね」と綺麗に笑ってみせた。


「も、映画観ましょう……」
「うん。なまえを目の前にすると触れたくなってしまって駄目だね」
「それはわたしもです、けど、今日はいつもより長く一緒にいられるので」
「そうだね。ゆっくり堪能しようか」


やっとのことで再生ボタンが押されたその映画は、ありふれたロマンスが詰め込まれたラブストーリーだったような気がする。最初は真剣に観ていたのに、隣の傑先輩の温かさに引っ張られて、お酒をちびちび飲みながら彼の肩に頭を乗せている内に、どんどん意識が保てなくなってくる。




食事の時に飲んだ少しの白ワインと、さっきの貴醸酒は浮かれた私の身体にいつもより早く回りきっていたみたいだった。ぼんやりと覚醒した時には、私の身体はすっかりベッドに横たわっていた。

私の目の前に、微笑んでいるわけでもないような初めて見る顔の傑先輩がいて、一瞬泣いているのかと思い右手でその頬に触れた。滑らかな頬の感触を確かめた私の手に、傑先輩の手が重なる。

「……寝ちゃってました」
「うん。なまえの寝顔、ずっと見ていられるな」
「えぇ、いやですよ」
「……いつもなまえと過ごす夜は、君の全部を覚えていようと必死だからね。たまにはただ見つめているだけっていうのも良かったよ」
「わたしも、傑先輩のこと見ていたかったな」

身体にまだ微かに残るアルコールが、程よい陶酔を誘っていつもより饒舌になる。私の髪を優しく梳きながら、思案するような顔でこちらを真っ直ぐ見つめる傑先輩も少し酔っているのかもしれない。私が何を言っても、今夜の彼はいつもみたいにはぐらかさないような気がした。


「……昔から、傑先輩はどんな大人になるんだろうって思ってました」
「はは、随分変わってしまったかな」
「変わってないです」
「……変わったさ、あの頃とは」
「傑先輩はずっとあの頃のままです。呪詛師としてどうとかは、分かりませんけど」
「君は、知らないから」
「ふふ、知ってますよ。傑先輩のこと」

やさしいひとです、と口にした私の視界が、突然暗転する。瞼の裏に感じる温かさで、傑先輩の掌で目元が覆われたのだと分かった。

柔らかい唇が落ちてきて、私の唇を啄むように触れるだけのキスを繰り返す。頬や鼻の先、顎からまた唇へ戻ってくる優しいキスを受け続けながら、掌の向こう側の傑先輩が笑っていたら良いな、と思った。柔らかい波に攫われるみたいに、傑先輩の掌の温かさが連れてきたそれに呑まれて、どんどん意識が遠くなる。「なまえ、おやすみ」と言われて、それに返事をしたかどうかは覚えていない。

ただ、いつもどおりの彼が隣にいない朝を迎えても、切なさは残っていなかった。次に会うときは、どんな話をしよう。そんなことを考えながら傑先輩の香りがまだ少しだけ残るシーツに頬を寄せる。思わず幸せな笑いが零れた。




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