第七話


正直、ギリギリまで迷っていた。彼女に会いに行くことでこれまでの計画が崩れてしまう可能性はゼロではなかったし、運試しにしても私にはすでに守らなければならない家族がいる。では、いざとなればなまえも「家族」に引き込んでしまえばいい。揺れる自分にそう言い訳をして、彼女が派遣されるであろう広島までわざわざ出向いた。

8年ぶりに感じる彼女の呪力はまるで別人のもののようで、対峙したときには身体が少し震えた。強くなったのは、灰原のためだろうか。死に向かって突き進むように呪いを祓い続け、そうやって、彼女もいつか積み重なる屍のひとつとなるのだろうか、と。

「……下らないな」

私の存在がなまえの生への鎹になれば良い。灰原の代わりに、なんて言うと途端に陳腐になって、思わず自嘲の笑みがこぼれた。

私は、灰原を守れなかった。救えなかった。
そして、なまえへ抱くこの感情は恋慕ではなく──





新しく契約したスマホにデータ移行を済ませると、早速任務のメールが立て続けに入って慌ただしい。いつもならうんざりする筈のそれらは、今の私にとっては救いだった。夏油先輩の腕や髪、舌、あの目。思い出そうとしなくたって勝手に蘇るあの体温を、少しでも忘れるためには任務で忙殺してくれるほうがありがたかった。

しかし、あれから3週間経っても夏油先輩は現れないままだ。1泊2日の出張が何度かあって留守にしたけれど、訪ねてきた様子もない。そもそも連絡手段すら無いのだから、このまま夏油先輩が訪ねてきてくれなければ、私たちはもう二度と会えないだろう。


任務終わりの身体はくたくたの筈なのに、かれこれ2時間は寝付けずにいた。募る寂しさが変化した、怒りに似た感情を逃がそうと大きく寝返りをうつ。歯止めが効かなくなりそうで怖い、だなんてよく言ったものだ。このまま同じ夜が過ぎていくことが、悲しくて怖くて仕方がない。私はこんなに弱かったっけ。

じわ、と涙が滲んできて、それを仕舞おうと目を閉じると、敏感になった聴覚がカタンという微かな音を捕らえたような気がした。玄関に気配を感じて、滲んだ涙が一瞬で引っ込む。まさか、あり得ないと理性が声をあげるけれど、じっとしていられなかった。


そっと爪先立ちで冷たい廊下を歩くと、期待で浮かされた身体の熱には却ってその冷たさが心地良い。恐る恐る、ドアの覗き穴から外を見る。そこにはがらんとしたマンションの廊下だけが広がっていて、期待が萎んだ途端に廊下の冷たさが爪先から身体へ巡り、背筋がブルリと震えた。

「寒っ。……はぁ、わたし頭おかしくなったかな」

それでも消えてくれない期待を振り切るために、そう呟きながらドアを少し開けた瞬間、ドアのすぐ隣に佇む黒い豊かな布が視界に入った。驚きから反射的に閉めようとしたドアは、力強い腕によって阻まれる。そのまま玄関に滑り込んできた影は紛れもなく夏油先輩で、あれほど待ち望んでいたからなのか、なんだか現実離れしていてつい馬鹿みたいな声が出てしまった。


「うわっ、えっ!」
「や、なまえ。今夜は冷えるね」
「びっ……くりしました」
「頭、おかしくなったんだって?大丈夫かい?」
「……夜中に袈裟姿の大男が訪ねてくる幻覚を見てるかもしれないです」
「あはは、それはおかしいね。私が相談に乗ってあげようか」



楽しげな夏油先輩の腕を、感情のまま強く掴んだ。まるで怒気のような手つきに自分でも驚いたけれど、そのまま一回り大きな彼の胸に身体を沈めた瞬間、蕩けるような溜息が漏れた。さっきとは違う涙が滲み、彼の袈裟に染みを作る。

何故か、「帰ってきた」と感じた。私の心も肉体も、彼とこうしてくっついていることがごく自然であるように思えた。
夏油先輩の腕が私を強く抱きしめ返して、彼がくすくすと笑うと、私の身体も小さく揺れる。

「もう会えないのかと思いました」
「そんなわけないよ」
「会いたかったの、わたしだけですか」
「私も会いたかった。寂しかったよ」
「……人誑し」
「本心だよ。ここ3週間すごく忙しかったけれど、なまえのことばかり考えていたんだ」
「もう会えないのかと思いました」
「……泣かないで。昔から私はなまえに泣かれると、どうしたらいいか分からなくなる」

夏油先輩といる時、なんだか私はいつも泣いている気がする。いい歳して子どもみたいに思えてきて、涙目のまま笑いが込み上げた。

私の顎を指先で持ち上げた夏油先輩が「泣き顔も可愛いけどね」と言い終わる前に、どうにも堪え切れずに彼の首を引き寄せ、その唇を塞いだ。

柔らかく合わせた唇の隙間から、夏油先輩の少し冷えた舌を誘う。渇きを満たそうとする私の舌に応えるように、彼の舌もゆっくりと私の口内を這った。身体がふわりと宙に浮き、夏油先輩に横抱きにされながらも、私はずっと待ち望んでいた彼の甘い唇から離れられなかった。




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