第六話


夏油先輩の大きな手は、私の呼吸が整うまでずっとずっと、背中をさすっていてくれた。その手の温度はあの日とまるで同じで、少し泣いてしまった。

私はもう戻れない。元々、呪術師としての大義も何もないのだ。夏油先輩の言うとおり、いつか死ぬその時のために戦って、息をしているだけ。

快楽でぼんやりする目に、差し込む月明かりが眩しい。そういえば明日が満月だったかな、少し欠けているのにこんなに明るい。ふとどこかで聞いた故事を思い出した。ここは壺の中の別世界で、あの月の光は出口から差し込む光だったりして。現実離れしたこの状況に、そんな事を考えながら夏油先輩の腕に身体を預けていた。


「……何考えているんだい?」
「夏油先輩、手慣れてるんだなって」
「はは、そんな事もないけどね。なまえが気持ち良くなってくれたなら良かったよ」

そう言って私の額に柔らかなキスを落とした。見上げると、口角を上げて嫣然と笑う美しい顔と目が合う。その瞳は、相変わらず私の心の中を見通そうとするように仄暗い。

「……で。本当は何を考えていたのかな」
「はぁ、お見通しですか。昔からそうですよね」
「まぁね。なまえと悟は、特に分かりやすい」

五条先輩のことを“分かりやすい”と感じる人間なんて、この世界中で彼だけだろうな。
五条先輩の名前を口にしてから、何かを思い出した様子の夏油先輩が、途端に私をまじまじと見つめる。涼しげな目を軽く見開き、口角を緩く持ち上げたその顔がなんだか大きな猫みたいで可愛くて、思わず頬を撫でると、くすぐったいな、と小さく笑った先輩が私の指を掴んだ。お互いに指を絡めあっていると、彼がぽつりと言葉を漏らし始める。


「灰原が死んでからのなまえは、まるで死に向かって強くなろうとしているようだった」
「あはは。弱かったから、必死でしたもん」
「……私は、君の死体が積み重なる様を想像すらしたくなかったよ」
「夏油先輩や五条先輩みたいに、大義みたいなものがあればまだ報われるんですけどね」
「建前の話じゃないさ。私は、なまえに死んでほしくなかったんだ」
「……それ、どういう意味で言ってます?」
「さぁね。さっき散々甘やかしたのに、分からなかった?」

夏油先輩の指が、頬から首筋を滑った。余韻も相まってゾクリと震えた肩を、広い胸元に寄せる。

「正直、なまえが私と一緒に来てくれるとは思っていないよ」
「……大義が無いからこそ、わたしは五条先輩も七海も、雄のことも裏切れないです」
「うん、それで構わないさ」

あの日に置いてきてしまった私の心の一部が、目まぐるしく過ぎていく日々に耐えきれず、悲鳴を上げるときがある。きっと、夏油先輩にもそんな日があるのかもしれない。心の一部を置いてきた日が。
私たちは愛とか恋とかそんな綺麗なものじゃなくて、お互いの傷を舐め合っているだけだ。あのキラキラと瞬き続ける数年間を共にし、そして失った私達でしか癒し合えない傷。

手を伸ばして夏油先輩の頬に触れると、8年前と同じ優しい笑顔が返ってくる。あの頃はこんな風に触れることは無かったから、なんだか恥ずかしくなって照れ隠しでキスをすると、そのまま啄むような甘いキスを繰り返してくれる。

蕩けるような多幸感で頭がぼんやりとして、スルリとベッドを抜け出した夏油先輩をつい引き留めかける手に力を込めた。


「なまえ、悟や七海にうまく誤魔化せるかい?」
「へえ、わたしが報告しないと思ってるんですか」
「はは、意地悪な言い方するね。信頼してるんだよ。君が私を忘れてしまわないうちに、また会いにくる」
「……明日にでも、来てほしいくらいです」
「嬉しいお誘いだけど、念願だからね。歯止めが効かなくなりそうで怖いな」


またね、と言いながら、さっきまで私の身体を散々翻弄した唇をわざと指先でゆっくりとなぞって見せる。途端に触れられた箇所が熱を帯びて、さっきまで抱かれていた腕が恋しくて仕方ない。あんなのを知ってしまって、歯止めなんか効くわけがないのは私の方だ。

夏油先輩がいなくなった部屋は、まるであの時間が幻だったかのように静まり返る。明日は早起きをして、新しいスマホを契約しにいかなくちゃいけない。なんとか眠ろうと何度も寝返りを打った肌とシーツからは、夏油先輩の残り香がいつまでも、いつまでも消えてくれなかった。





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