非常階段で捕まえて
見ちゃいけないものを見た、と咄嗟に思った。
例えば、人の日記帳だとか、台所の棚の奥に隠してあるお母さんのへそくりだとか。
そういったものと同じくらいの、見ちゃいけないものを見てしまった。
どうして自分は今ここにいちゃったんだろう。
通いなれた場所だった。顔パスで通れちゃうような場所だった。
それがいけなかった。
誰か僕を止めてくれれば良かったのに。
誰でもいいから、今は駄目だよ、って教えてくれれば良かったのに。
そして咄嗟のことにその場所で頭を抱えて、目を瞑るしかしなかった僕を、外へ導いてくれる人がいれば良かったのに。
「ユウキくん?」
ガチャッとドアが開く音と同時に、その声が上から降ってきた。
今一番聞いちゃいけない声だと、即座に分かった。
分かったけれど聞いちゃったものは仕方ない。
瞑っていた目を開き、恐る恐るそちらへ視線を向ければ、大層驚いた顔のダイゴさんが、扉から顔を出してそこに立っていた。
「こんにちは…ダイゴさん」
とりあえず挨拶をして、踵を返して帰ろう。
そう思った僕の手を、サッとダイゴさんが掴んだ。
「それじゃあ、失礼します」
ダイゴさんは僕の手を掴んだまま、部屋の奥にいるであろう人へ向かって退席の挨拶をして、空いた手でドアを閉めた。
僕は帽子の中で汗が額を伝うのを感じた。
もちろんエアコン調節バッチリのこの建物で暑さを感じた訳じゃなくて、冷や汗だ。
一体どこを見ていいのやら、視線をあっちこっちへ向けながら、落ち着きなくソワソワとしてしまう。
ダイゴさんはそんな僕を見て、笑った。
「とりあえず、あっちへ行こう」
「え、あのっ」
言うが早いか、ダイゴさんは僕の手を引いてさっさと歩き出す。
僕はその後を、腕を引かれているので半ば強引に、やや駆け足でついていくしか出来なかった。
連れて行かれたのは、普段使うことのないいざという時のための非常階段だった。
建物全体と比べて、だいぶ照明を落としたそこは薄暗くてひんやりとしていた。
まるで今の僕の心そのままだなと思った。
ダイゴさんは非常階段に来ると引いていた僕の手を離し「さて」と口を開く。
「どうしてここに?」
「いや…説明すると長くなるんですが、ちょっとした顔パスで通れるほどその…お父様とは親しくさせて頂いてます…」
僕をジッと見つめてくるダイゴさんの視線から逸らすように、視線を地面にぶつけながら、しどろもどろで言葉を落としていく。
ダイゴさんは僕の返事に「ふーん」とだけ答えて、それから若干の間を開けて、僕がこれだけテンパっている核心を呟いた。
「もしかして、見ちゃった?」
「見てません!ちょっと聞いちゃっただけです!見てま…せん」
言ってから、あーあ言っちゃったよ、と冷静な僕がため息を吐く。
跳ねるように上げた顔に映ったのは、少し寂しそうに笑うダイゴさんだった。
「そっか…聞かれちゃったか」
参ったな、そう言って頬をかくダイゴさん。
その仕草を見て、ますます僕は本当に何でさっきあの場に居合わせたんだろうと、なんで今日ここに来ちゃったんだろうと、後悔した。
たまたま近くまで来たから寄っただけだった。
デボンコーポレーションは常に新しいものを発明していて、僕はそれを見るのが、話を聞くのが好きだった。
だから今日も、そういった物が見れれば、話を聞ければいいな、って思った程度だった。
それなのに、いざ社長室に入ろうとしたら、中で聞き慣れた声が聞き慣れない声色で何かを喋っているのを聞いてしまった。
いけないと思いながらも、ドアに耳を近付けると、その声は怒っていた。
「すいません」
と、別の声が謝った。
その声もまた聞き覚えのある声で、僕はその声を聞いた瞬間、全て理解してしまった。
ダイゴさんが、お父さんに怒られている現場だと。
僕はまた目を伏せて、自分のつま先を見る。
ダイゴさんのつま先も端に映っていた。
そのつま先が、コツコツと床を叩く。音が反響して響く。
「実はね、お父さんに怒られちゃったんだ、遊び過ぎたのかもね」
いつもあれだけ自信に満ちている声が、寂しそうにそう言った。
僕はその声だけで、何故だか自分が泣きたい衝動に駆られた。
ダイゴさんは常に自信満々だった。
僕はその態度が少し腹立たしかったけど、憧れてもいた。
そのダイゴさんが、今、寂しそうに笑っている。
それはきっとダイゴさんにとって、誰にも見られたくない姿で、僕も、そんなダイゴさんは見たくなかった。
だから僕は、自分の行動に後悔して、申し訳なさに泣きたくなっていた。
「あの、ダイゴさん、僕はここで聞いた事とか、絶対どこにも言わないから…」
今日の事は聞かなかった事にします。
そう言おうと思ったけれど、その言葉は最後まで出せなかった。
ふいにダイゴさんが僕を抱きしめたからだ。
大きな体が、力いっぱい僕を抱きしめたからだ。
息が詰まるほど強く、抱きしめられたからだった。
「ごめんね、ちょっと、らしくなく凹んだ」
ふふっ、と耳元で力の無い声が笑う。
大きな体が、体を曲げて、小さい僕を抱きしめる。
僕は、ズボンを握り締めて、目を閉じる。
「僕は、どうしたらいいですか…?」
これを聞くのはちょっと反則かと思ったけど、どうしたらいいのか分からないから仕方ない。
ダイゴさんはしばらく黙ってから、
「抱きしめてくれたら元気でるかも」
と、冗談めかしく呟いた。
僕は一瞬ためらったが、ズボンから手を離してダイゴさんの背中に手を回す。
大きな背中に精一杯腕を回して抱きしめた。
非常階段でこんなこと、それこそ非常識だ。
一体いつ誰に見られるか分からないのに、恥ずかしいったらない。
そう思ったけれど、こんな事でダイゴさんがいつも通りに自信満々な態度に戻るのなら、と思うと、そんな気持ちはゆっくりと喉の下に落ちていった。
それからどれくらいそうしていただろう。
薄暗くて肌寒いそこで大人と子供が抱き合う非常識な構図が、ふいに終わりと告げる。
のしかかるみたいに僕を抱きしめていた腕が、そっと離れた。
「ありがとう、ちょっと元気出た」
「僕がここまでしてあげたのに、ちょっとですか」
「いや、だいぶ、かなりかな?」
その顔に浮かぶ笑みは、さっきのと違って、いつも通りに見えた。
もしまだ凹んでいたとしても、いつも通りの笑顔が出来るほどまでには回復したって事かな。
僕はそう結論付けて、ダイゴさんの背中から腕を離して、一歩距離をとる。
「あの、今日の事は」
「いいよ、覚えてて、ユウキ君になら覚えてて貰って構わないよ」
「は?」
一歩距離をとってもまだ高い位置にある顔を見つめながら、首を傾げる。
ダイゴさんはそんな僕の顔を、まるで面白い物を見るような顔で見つめ返しながら、口を開いた。
「だって完璧な僕のちょっと凹んだ姿って、グッとこない?ユウキ君になら、覚えててもらって構わないよ」
この人、本気でそれ言ってんの。
いつも通りの自信に溢れまくった発言に、ピクリッと顔が引きつる。
そんな僕のちょっとした変化を見破ったのか、ダイゴさんは得意げに笑いながら僕の手を掴み、上機嫌に階段を下りだした。
僕はやはり半ば引きずられる様に、そのあとに続いて階段を下りる。
「その顔、やっとユウキ君らしくなったね」
「何ですかそれ、ダイゴさんこそ、さっきまで凹んでたくせに」
「ユウキ君のおかげでいつも通りだよ、ありがとう」
コツコツ、と規則正しく降りていく足がピタリと止まってふいに振り返る。
階段という段差でようやく身長差を縮めた僕の顔の前に、その顔はあまりに近かった。
ちょっと、そう言う前に、ダイゴさんが僕の口を塞ぐ。
触れるだけで、すぐ離れたその口が、笑顔で言う。
「迷惑かけたしレストランで何かご馳走させてもらうよ」
さ、行こうか。
また規則正しく階段を下りる足音が響く。
僕はそれに、半ば強引に引っ張られながら、ぐしっと袖で唇を拭って目を伏せた。
なんてこった、この男、凹んでいたと思ったらすぐこれだ。
恥ずかしさに唇を噛み締めながら、それでも、まったくいつも通りに戻ったダイゴさんに、良かったと、嬉しいと、思ったのも事実で。
やっぱり今日の姿を見るんじゃ無かったと、後悔した。
もし見てなかったら、キスされた瞬間、腹にパンチもお見舞いできたのに。
コツコツ、と二人分の足音が響く非常階段。
これが終わる頃にはダイゴさんはやっぱりいつも通りのダイゴさんに戻っているんだろう。
その自信に満ち溢れた足取りで、顔で、街を歩きレストランに入り、きっと僕の好きな物を注文させてくれる。
僕はその顔に向かって、その店で一番高い料理を片っ端から注文してやろうと決めた。
そんなものダイゴさんにとって痛くも痒くもない事だろうけれど、せめてもの、ささやかな仕返しである。
非常階段はもうすぐ終わる。
END