血脈 H.25/09/12 |
(近土沖)2013怪談のつもりが怖くもなく秋になった感じです。沖田さんがけなげな良い子。ありえない。 近藤家の末っ子総悟は、これまで何をするにも不自由なく育ちました。 愛らしい容姿とは裏腹に兄の十四朗が弟の将来を悲観するほどの根性悪ぶりでしたけれども、父である勲は目の中に入れても痛くないほどにそれはそれは可愛がりました。 母親はとうに家を出て、もともと勲の大惚れで押し切って一緒になったようなものですから、時が経つにつれ母親は勲に嫌気がさしていました。子供を二人とも置いて行くほどだったので、よほど追い詰められていたのかもしれません。 総悟がまだヨチヨチ歩きのころ、現場監督として働いている勲が、肩のうしろを怪我したことがありました。 心配した総悟が「みてあげまさあ」と言ってくれたのを勲は喜んで、毎日のように「治ったかどうか見てくれるか総悟」と聞きました。 「きのうとあんまりかわらねえです」 勲は、総悟が真面目に答える様子に、かわいくてたまらないと毎日抱き上げてはあやしてくれました。 睦まじく暮らした家族でしたが、総悟が15の歳に父親の勲が突然に亡くなりました。 その頃には長男の十四朗が立派に働いていたので経済的に困ることはなかったのですが、家族がひとり減ってしまったのでとても寂しくなりました。 それでも総悟は、寂しいよりも毎日がおそろしくて仕方ありませんでした。 なぜならば、勲が亡くなった日、総悟はそのすぐそばに一緒にいたからです。 その日総悟は、十四朗と勲の帰りを待ちながら、空腹のために台所でなにか食べるものを探していました。 勲が帰ってくれば晩御飯を作ってくれることはわかっていたのですが、そこは育ちざかり。まちきれずに即席ラーメンでも作ろうと湯を沸かしはじめました。 ふと見上げるとレンジフードに汚れがついています。 何の気無しに洗浄スプレーを手に取って吹き付けようとした時、勲がダイニングのドアを開けて、大きな声で「あぶない!」と叫びました。 けれど一瞬遅く、総悟がスプレーをフードに吹き付けると、あっという間に小さな鍋を強火にかけたコンロの周りに火が上がったのです。 勲が総悟をかばって床に倒れ込み、総悟は衝撃と共に「うううっ」という父親の声を聞きました。 「おとうさん!」 総悟が目を開けたとき、勲は立ち上がってコンロの炎を己の上着でばさばさと消していました。 「総悟、怪我はないか」 勲は総悟の無事を確かめると、またふらりと立ち上がってダイニングのドアの方へ歩いて行きました。 勲の背中は洋服が焼け焦げて肌が露出しており、真っ赤に腫れ上がっています。 「おとうさん、おとうさん!」 震える足で立ち上がって後を追いますと、勲の顔も背中と同じように真っ赤になっていました。 「びょういん!救急車を呼びまさあ!」 必死になって総悟が追いかけましたが、勲はよろりよろりと二階への階段を登りながら、「大丈夫だ、大丈夫だから呼ぶんじゃあない」と言い続けました。 「どうして?真っ赤になってやす!」 泣きそうになった総悟が更に追うと、二階の総悟の部屋に勲が入って行きます。 どさりと総悟のベッドに突っ伏して、はあはあと荒く息をする父親に、必死になって薬箱の紫雲膏やらオロナインやらを塗ってやっていると 「俺はいいから総悟は台所を片付けなさい、綺麗に、何も無かったようにするんだ」 と息も絶え絶えに言います。 「いやでさあ、お願いですから救急車を・・・」 「呼んじゃいけない、呼んだらお前は俺の子じゃないぞ。それよりも早く台所を・・・うう・・・」 何故救急車を呼んではいけないのか、軽くパニックになりながらそれでも父親の言う事を聞こうと、ダイニングに駆け下りて片付けを始めました。 落ちた鍋を拾って洗い、床を掃除してコンロの周りの煤や焦げを拭き取ると、それほど被害が無かったのもあって、はじめから事故など起こっていないように綺麗になりました。 「おとうさん!おとうさん!綺麗にしたから!したから救急車呼んでもいいですかい?」 必死に階段を駆け上がって部屋に戻ると、俯せに寝た勲の背中はいつの間にか火ぶくれだらけになっていました。 「いやあっ!」 震える手で携帯電話を持って、もうこれ以上は父親がなんと言おうと救急に連絡しようとしたところで、なにか様子が変なことに気が付きました。 父親である勲が、息をしていないのです。 「やだ・・・おとうさん・・・いやでさ・・・」 よろよろと近付いて父親をゆさぶりましたが、背中と同じように火ぶくれだらけの顔はぴくりとも動かず、その瞳も固く閉じられていました。 「おとうさん、おとうさん。・・・・うそでしょう?ねえ目を開けてくだせえ、俺おとうさんの言うとおり台所片付けてきやした。ごめんなさい、もう危ねえことはしねえんで、だから・・・目・・目を・・・あけて、くだせえ・・・」 茫然とした総悟はどうしていいかわからず、ただずっと父親を呼び続けるだけです。 両の目からは枯れることなくあとからあとから涙が流れていました。 どれくらい時間が経ったのかはわかりません。 けれど父親の身体が鉄のように固く冷たくなってしまってからもう随分長い事座り続けていたことは確かです。 あたまの中は、自分のせいで父親が大やけどをしてしまってそれが元で死んでしまったこと、ただそれだけしかなく、兄の十四朗に連絡することも、病院や警察を呼ぶことも思い至りません。 「・・・ぉと・・・う・・さん・・」 かすれた声で父を呼んだ時でした。 じっと見つめていた父親の瞳がカッと見開かれて、ギョロリと総悟の方を見たのです。 あまりの驚きに総悟は声も出ません。 「アッ」 と言ったまま身体が固まっていると、がばりとものすごい勢いで勲が起き上がりました。 「言うな・・・・」 ぼそりと、勲の膨れ上がった唇から声が漏れます。 「あ・・・あ・・・あ・・・・」 死んだはずの父親が突然動き出したことで、なによりも恐怖が先に立ってまったく動けません。 「十四朗には、言うな」 勲の顔は、それはおそろしく無残に真っ赤に腫れ上がり、真皮の下から血がにじんでいます。 びくりびくりと血管が浮いてあちこちべろりと皮がめくれ、いつもの優しい勲とはかけ離れた化け物のようでした。 まるで地獄の底から這い出てきたような声で、ゆっくりと勲が続けます。 「俺が死んだことを、十四朗には言うな。絶対に、言うんじゃあない」 「ヒ・・・・」 炎のように熱い手が総悟の手首を強くつかみました。さっきまでの氷のような勲の身体とは大違いです。 「いいか、わかったな。俺が、死んだことを・・・・十四朗には・・・言う・・・・」 そこまで言って勲はがっくりと頭を垂れ、瞳を固く閉じました。そうして総悟の手首を掴んだままばたんとマットレスに倒れ込み、もう動きません。 「う・・・・う・・・あ・・・・」 あっという間にすっかり固く冷たく戻ってしまった勲の身体。 必死になって勲の指をはずそうとしましたがあまりに固く、ぼきぼきと折るような感覚で引きはがしてようやっと離れました。 総悟の頭は混乱し、哀しみと恐怖がないまぜになって襲ってきます。 どうして良いのかわかりません。 けれど、さいごに勲が総悟に話した言葉、「俺が死んだことを十四朗には言うな」という声が耳から離れません。 どうして父親がそんなことを言ったのかまったくわかりませんが、とにかく勲は言いました。 「隠しておけって言ったって・・・どうすりゃ・・・いいんですかい・・・おとう、さん」 ぐすぐすと泣きながらそれでもどうにかしようと必死に考えて、押し入れから大きな古い長持を引きずり出し、中の衣類を取り出すと苦労して父親の身体を折りたたんで入れました。 死後硬直の身体をどうやって折り曲げたのか自分でもわかりませんでしたが、作業を終えた頃には全身汗びっしょりです。 涙なのか汗なのかわからないものをぐいと手の甲で拭いて、長持ちを押し入れの奥に押し込みました。 びっちりと襖を閉めて、疲れとショックの為にもう何も考えられなくなって、総悟は今の今まで勲の死体が寝ていた己の布団に、恐怖を感じる暇も無く倒れ込んで眠ってしまいました。 夢の中で総悟は、父親に向かって必死に問いかけました。 「どうして死んでしまったんですかい、おとうさん。たったふたりっきりの家族だったのに」 けれど、目の前にいると思った勲の姿は無く、ただ真っ暗闇の中に総悟は一人で立っているだけでした。 「総悟、総悟」 誰かに揺り起こされて総悟が目を覚ますと、目の前に十四朗兄さんの心配そうな顔がありました。 「大丈夫か総悟、いくら揺すっても起きないから心配したぞ」 「と・・しろ・・・にいちゃん・・・」 「どうした、変な声出して。風邪か?親父はどうした」 びくりと総悟の身体が震えました。 「お、とう・・・さん・・・」 「なんだまだ帰ってねえのか?学校は?帰ってからずっと一人だったのか?」 過保護な十四朗が矢継ぎ早に声をかけるのに、今気づいたばかりの総悟は何も言えません。 おとうさんが、死んだ。 急にそれを思い出して十四朗に泣き付きたい思いにかられましたが、さっきの勲の言葉を思い出します。 「十四朗には、言うな」 なぜ、勲はあんなことを言ったのか。 「本当に大丈夫か?しんどいなら病院に行くか?」 その時、十四朗のスーツのポケットからプルルと音がしました。 「はい」 携帯のモニタを見て、親父だと呟いてから応答した十四朗の眉が薄く寄りました。 『親父?・・・おとうさん?』 「あ?出張?ンなこと今朝は言ってなかったじゃねえか。ああ・・、ああ。にしても総悟が一人で寝てたぞ、不用心だろうが。あ?ああ、わかったよ、わかった。じゃあ俺は総悟に飯食わせっから。じゃあな・・・と、総悟」 十四朗が総悟に身振りで『代わるか?』と聞いてきましたが、総悟はそれどころではありませんでした。 死んだはずの父親から電話。 あるはずのない状況に混乱して首を横にぶんぶんと振りました。 十四朗は、父親っ子の総悟が電話に出ないことに多少首をかしげましたが、すぐに電話を切りました。 「親父、九州の現場に出張だってよ。なんか知らねえけど長くなるみてえだ。我慢できるな?総悟」 『出張・・・・。お父さんが、出張』 茫然と兄を見上げる総悟。 「お、とうさん・・・だったんですかい?ほんとうに・・・」 「ああ?だから出るかって聞いただろ?なんだ中学生にもなってパパパパもねえだろうが。一生帰ってこねえわけでもねえんだ、我慢しろ」 言葉とは裏腹に優しく総悟の髪を撫でて、十四朗は食事の用意をする為に部屋を出て行きました。 残された総悟は、じっと長持を押し込んだ押し入れの襖を眺めていました。 この中に、お父さんがほんとうに入っているのだろうか。 ひょっとしてさっきのことは、夢だったのじゃないかしら。 そう思ったけれど、どうしてもおそろしくて襖を開けて長持を確認することができません。 「総悟、飯ができたぞ!降りて来い」 十四朗の声に顔を上げてベッドから立ち上がった時に、ふと自分の右手首を見て総悟は驚きました。 さっき勲が蘇ったときにぎゅっと握られたそこには、くっきりと指の跡がついていたのです。 夢ではない、夢ではなかった。 どくどくと心臓に血が流れる音を聞きながら、総悟は真っ青になってしまいました。 * * その夜、総悟はベッドに入ってぐっすりと眠っていました。 押し入れの中に父親の死体がある。 そう思うと本当は部屋にも戻りたくなかったのですが、なんだかそのまま放置しておくのもおそろしくて、見張っていなければならないような気がしたのです。 けれど身体はすっかり疲れていたものですから布団に入ってすぐに寝てしまいました。 「・・・くれ・・」 「・・・・て、くれ・・・・」 誰かの苦しそうな声が聞こえます。 すやすやと眠っていた総悟がゆっくりと目を覚ましました。 「みて・・・くれ・・・・・」 ぞくりと寒気がするような、地獄の底から這い上がってきたような声です。 「みて・・くれ、そう、ご・・・・」 「せなか を・・・・みてくれ」 『おとうさん・・・・?』 「いたい。いたい。せなかのかわがぜんぶめくれて、いたい」 「いたい。むかしみたいに おれのせなか、を、みて・・くれ」 「いやっ」 総悟は掛け布団を頭までかぶって耳をふさぎました。 けれどおそろしい声はいつまでも止まりません。 「そうご、おれの顔もみてくれ。かおの皮がぜんぶめくれて、いたくてたまらない」 火ぶくれになったあの勲の顔。 思い出すだけでも気が狂いそうになります。 『やめて、おとうさん、やめてくだせえ・・・』 総悟は布団の中でぶるぶると震えながらただやめてと繰り返すだけしかできませんでした。 * * 「どうした総悟、目が赤いな」 次の朝、十四朗が心配そうに聞きましたが、まさか勲の声が聞こえて眠れなかったとは言えません。 「なんでもねえです」 「もうガキじゃねえんだ、15にもなって親父がいねえくらいでシケたツラすんじゃねえ」 「そんなんじゃあ・・・・」 いつもは十四朗よりも勲の仕事が早く終わるので、19時前後には父親が帰宅していました。 「何時間もお前を一人にするわけにもいかねえから、俺も今日から仕事はなるべく早く切り上げる」 そう言ってくれた十四朗をとてもありがたく感じました。 * * 夕方学校から帰った総悟は、自分の部屋に入ることができませんでした。 けれどダイニングのテーブルにぽつんと座りながら父親のことを考えていると、あるひとつの考えが浮かんで心配でたまらなくなってしまったのです。 それは、昨日亡くなった勲の死体が、今日になり明日になって腐り始めて臭いを発したりしないかしらというものです。 がたがたと震える足を叱咤して階段を上りました。 手にはガムテープと大きなゴミ袋。 恐る恐る部屋を開けましたが、気になるような臭いはありません。 30分ほど襖と睨み合ってようやくそろりそろりと開けました。 一番奥の長持がじっと静かに総悟を待っています。 「うう・・・うう・・・」 異常に重い長持を引きずり出して、とても勇気がありませんでしたがそっと蓋を・・・・ほんのすこしだけ開けてみたのです。 すると間違いなく勲のスーツのパンツと大きな足の靴下がちらりと見えます。 「ううううっ」 強い吐き気に襲われてばたんと長持を閉め、慌てて90リットルのビニール袋をかぶせました。 一枚ではもちろん入りきらないので左右から向い合せに被せ、真ん中をガムテープで必死に貼ります。 裏は長持をごとんと倒して回転させて・・・・中の父親がどんな状態になっているのか想像すると気が遠くなりながらの作業です。 何重にもビニールをかぶせてしっかりガムテープを貼って。 作業が終わった頃にはやはり汗だくで肩で息をしているありさまでした。 『ごめんなさい・・・ごめんなさいおとうさん・・・・』 贖罪と恐怖でぐちゃぐちゃになった心で長持を再び押し入れの奥へ押し込みました。 これで一体どれだけ持つのかわからないけれど、できるだけのことはしました。 「ううう」 ぴったりと襖を閉めてそのままベッドに俯せに倒れ込みます。 『ごめんなさい・・・あんな、まっくらなところに閉じ込めて・・・ごめんなさい、ごめんなさい!』 どれくらい泣いていたのかわからないけれど、十四朗が帰ってくるまでに泣き止まなければとのそりと身体を持ち上げました。 鼻をすすりながら顔を上げて襖の方を見て、愕然としました。 きっちりと閉めたはずの襖が、5cmほど開いていたのです。 「いやあああああああっ」 バタバタと階段を駆け下りて、ダイニングの机に突っ伏しました。 いつ階段を降りてくる勲の足音が聞こえるかと怖くてたまりません。 あんなに何重にも袋をかぶせてガムテープでがっちりと止めたのに、一体誰が襖を開けたのか。 おそろしくて身動きもできず、用足しにも行けません。 ただ十四朗の帰りを待ちわびてダイニングの隅で震えていました。 その夜、総悟は自分の部屋で寝るのが怖くて仕方ありませんでした。 けれど十五にもなって何を理由に「一人が怖い」などと言えるでしょう。総悟は仕方なく自分のベッドに入って、襖がしっかり閉まっているのを確認するとまた布団を頭までかぶりました。 ようやっとうとうとと眠りに入った時です。 突然総悟の右腕が何者かに強く掴まれた感覚に襲われました。 はっと眼を覚まし右腕を布団から出してみると、昨日断末魔の父親に付けられた手首の痕がまだ消えずにくっきりと残っています。 何故かその痕から目を離せずじっと手首を見ていると、またあのおそろしい声が聞こえてきたのです。 「総悟・・・・総悟・・・・」 「総悟・・・・・。顔が痛くて仕方ないんだ。見てくれ、顔を見てくれ」 「背中も痛い。痛くてたまらない。助けてくれ、総悟」 「やめて・・・お父さんやめて!お願いですからおっかねえ声を出さねえで・・・くだせえ」 ふいに、耳元で腹の底から怒鳴り上げるような勲の声がしました。 「総悟おおおおおお!!!!」 「きゃあああああああああああああっ!」 総悟は飛び起きて押し入れの方向を振り向きました。すると、襖が昼間よりも更に5cmほど大きく開いていたのです。 「ひ・・」 『おにいちゃん!!』 慌てて兄の部屋へ行こうとしましたが、急に何かが顔にびしゃりとくっつきました。 何か透明なゼリー状のものが顔全体を覆って息をすることもできません。 「んっ・・んぐ・・・ぐうっ」 必死になって顔についた何かをはがし取ろうとしましたが、一生懸命顔を擦っても手のひらには何も触れませんでした。 『う・・・う・・・おとうさん・・・たすけて・・・・ゆるして、おとうさん・・・』 苦しい。 自分はこのまま死んでしまうのかもしれない。 息が吸えない恐怖の中、手足をばたつかせもがき苦しみながら総悟はゆっくりと意識を失ってしまいました。 気が付くと自分のベッドの上でした。 襖はぴったりと閉められており、あの恐ろしい体験はまるで夢であったかのようです。 それでも総悟はこれ以上この部屋にいることはできません。 もぞりと動くと、下半身に違和感があります。 恐怖か苦しみの為かわかりませんが、ぐっしょりと股間が濡れていました。 おそろしさと情けなさにしくしくと泣きながら、総悟はマットレスに乾燥機をセットして下着とパジャマを洗い、シーツと一緒に洗濯機に入れました。 ぐすぐすと洗濯機の前で泣いていると、物音で十四朗が起き出してきました。 「どうしたんだ一体」 呆気にとられている十四朗の胸に飛び込んで、小さな声で「今日は十四朗兄ちゃんの部屋でねます」と言いました。 「ハァ?なんだどうしたんだ」 「なんにも聞かねえで、お願いですから十四朗兄ちゃんの布団に入れてくだせえ」 「ああ?おまえいつも煙草臭いとか文句ばっか言ってたじゃねえか、それよりなんなんだ一体。親父がいねえからか?その歳で親にベッタリはおかしいんじゃねえのか?」 「お願いでさあ」 十四朗は、普段生意気な弟がすっかり赤ちゃんの様になってしまったのを不思議そうに見ていましたが、小さくため息をついて総悟を自分の部屋に連れて行ってくれました。 その日はようやっとゆっくり眠れて、次の日もその次の日も総悟は十四朗の布団にもぐりこみました。 十四朗の布団の中にいると安心で、勲の声も聞こえません。 おそろしいのは何故か毎晩十四朗に勲から電話がかかってくることです。 こわくて総悟は電話に出たことがありませんが、きまって勲は「仲良くやっているか、もうすぐ帰る」と言うらしいのです。 帰るもなにも、勲は総悟の部屋の押し入れの中にいます。 もうすぐ、出てくる。 ということなのか。 ぶるぶると震える総悟に、十四朗はもうあたりまえのように「そろそろ寝るか」と問いかけました。 あれから一週間。 そっと手首を見ると、あの日くっきりと植え付けられた痕がようやっと薄くなっていました。 その夜。 ここのところゆっくり眠れるようになっていた総悟でしたが、なにかしら寝苦しさを感じて目を覚ましました。 目を開けると、まず薄暗い天井が目に入って胸のあたりに違和感を感じます。 ぼんやりと自分の胸元を見て見ますと、布団がめくられてパジャマの胸を開けて大きな手が入り込んでいました。 少しだけ汗ばんだ手が、ぺったりと総悟の胸に貼りついています。 ゆっくりと左を向くと、隣に寝ている十四朗の真面目な顔が近くにありました。 手は総悟の胸に置いたまま動きません。 「と、しろ・・・にいちゃん」 総悟がかすれた声を出すと、胸の上の手はすっと逃げるように引いて行きました。 十四朗は、総悟の胸から手を除けてからも真面目な顔をぴくりとも動かさず総悟の顔を見つめ続けていました。 一人寝に怯える総悟をあやすように触れるならばまだしも、パジャマの中にまで手を入れるのが不自然なことくらい総悟にもわかります。 十四朗に背を向けるように向きを変えてぎゅっと目を瞑りましたが、気味の悪い違和感はおさまりません。 ふいに、総悟は勲が亡くなった日の夢を思い出しました。 ぼんやりとした影のような父親に向かって、自分は何を言ったのか。 「どうして死んでしまったんですかい、おとうさん。たったふたりっきりの家族だったのに」 たった、ふたりっきり。 『ふたりっきりって、どうして・・・どうして俺ァ、そんなことを言ったんだろう』 勲と、総悟と、十四朗。 この家には三人の人間がいるはずなのに。 何故。 そのとき背後に寝ている十四朗が、小さな咳払いと共に身じろぎをしました。 瞬間、総悟は背中が凍りついたような寒気を感じました。 俺のうしろにいる十四朗兄ちゃんは誰なんだろう。 ずっとずっと昔からお兄ちゃんとして一緒にいたはずなのに、まるで初めて会った他人のようです。 ぞくぞくとした寒気を感じながら、総悟はぎゅっと目を瞑りました。 * * 次の日、総悟は十四朗が帰って来るまでに勲の部屋に入りました。 勲の部屋には溺愛する息子たちの小さな頃からのアルバムがあるはずです。 アルバムを見てどうするのかどうなるのかわかりませんが、自分の部屋も怖い十四朗と一緒に寝るのも怖いで何かしていないとどうしようもない思いだったのです。 とにかく自分の小さな頃に十四朗と一緒に写っている写真が見たかった、ただそれだけでした。 しばらく本棚を探して見つからず、デスクの引き出しを開けようとして鍵のかかっていることに気付きました。鍵の場所もわからない上に総悟はピンなどで開ける方法も知りません。 工具箱から大きなバールを取り出してえいやと引き出しを破壊しました。 中に入っていたのは一冊のノート。 表紙には「総悟へ」と書いてありました。 <総悟へ このノートを見ているということは、万に一つ俺に何かあった時だと思う> いつか来る日の事を覚悟したような書き出しで始まった勲のノートには、次のようなことが記してありました。 ・総悟は実は今となってはたった一人の近藤家の息子であるということ ・けれども総悟より先に十四朗という子供、つまり総悟の兄がいたけれども、総悟が物心つくかつかないかの頃に事故で亡くなってしまったこと ・十四朗は葬式の次の日に家に戻ってきて無邪気に遊ぶ総悟をあやしていたこと ・その十四朗がもう邪悪なものに変わってしまっていたことを悟って、十四朗から総悟をずっと勲が守ってきたこと にわかには信じられないような事が淡々と書いてあって、総悟にはすぐに理解できませんでした。 <もしも俺に何かあった時は、お前の身体のどこかに印を残しておいてやる。それが残っている間は十四朗はお前に手出しできないだろう。俺が死んだことを十四朗に隠しておきなさい。> 総悟はそっと自分の右腕を見ました。 そこには本当にうっすらとなってしまった勲に握られた痕があります。 『これが・・・おとうさんの、しるし』 おそろしいおそろしいと思っていた父親が、きちんと自分を守ってくれていた。 今までのことはすべて怖がっていた自分の幻聴なのだと消えそうな痕を見ながら思いました。 けれどなによりも驚いたのは十四朗のことです。 十四朗は子供の頃に、事故で死んでいた。 勲の手紙の下に幾冊かのアルバムがあり、小さな小さな総悟と怒ったような顔の十四朗が一緒に写っていました。 たしかに十四朗はいました。けれどこの写真よりも後に十四朗は亡くなっていたのです。 それでは今この家にいる十四朗は何なのか。 「戻って来た」と勲の手紙にはありましたが、総悟が物心ついてからずっと一緒にいた十四朗は・・・ここ一週間同じ布団で眠った男は一体誰なのか。 また、総悟の背中がぞくりとしました。 * * 総悟は、気が付くと自分の部屋にいました。 ここのところおそろしくて近寄ることのできなかったこの部屋。 押し入れを見ると、ぴったりと閉まった襖。 あれほど怖かったこの部屋ですが、総悟は今、ただ勲をせまい長持から出してあげたい思いに包まれていました。 日にちが経って、勲の身体がどうなっているのかを考えるとやはり気味が悪いのですが、長い時間をかけて思い切って襖に手を掛けました。 「総悟」 その時、背後から声が聞こえました。 ゆっくりと振り向くと、部屋の入口に十四朗が立っています。 「とうしろう、にいちゃん」 かすれた声が出ました。 「どうした、総悟。ここのところ部屋に入りたがらなかったのに」 「・・・・・そんなこと、ねえです」 「総悟、俺の部屋で寝るだろう?今日も」 「いや、俺ァ・・・てめえの部屋で寝やす」 「どうしたんだ、夜中になって怖いなどと言って来たって布団に入れてやらねえぞ」 「そんなこと・・・しやせん」 「我儘を言うんじゃない、俺は明日が早いんだ。そうそう夜中に起こされてたまるか。いい加減にいう事を聞かねえと・・・ 押し入れに、閉じ込めるぞ」 総悟の心臓は、どきりと音を立てました。 「な、に・・・言ってんでさ・・あ」 「どうした、もう十五なんだ、押し入れくらい怖くないだろう」 総悟から見た十四朗は、何もかもを見通した上で無表情に獲物を追い詰める、冷徹な肉食獣のようでした。 「毎晩親父から電話が来るだろう」 「へい」 「あれな、あれ・・変なんだわ」 「へ、ん・・・って・・」 「いくら出張っても親父がお前を一週間も放っておくなんてことは今までなかったもんだからな。あれだけ父親っ子のお前が電話に出ねえのもおかしいし、親父自身が毎日毎日言う事同じなんだよなあ」 「・・・」 「総悟は元気か、俺がいない間総悟を頼む、仲良くしろ、もうすぐ帰る・・・・・・・・なんか、おかしくねえか?」 す、と十四朗が一歩総悟に近づきました。 部屋の出入り口を塞ぐように立っているので、追い詰められる形になります。 「総悟、お前ほんとうは親父がどこにいるか、知っているんじゃあないのか」 「俺・・・俺ァ・・・しらねえ・・・何も知らねえです」 「親父は・・・・」 ぐっ、と。 十四朗が総悟の右腕を掴みました。 勲のつけた痕がほとんどなくなった、右手首を。 「もうすっかり消えて、俺はお前に触れることができる」 「え」 「これがある間は俺からお前に触れることができなかった」 「なん、ですかぃ」 「親父はほんとうはもっと・・・お前が強くなるまで何年もこれを残しておきたかったんだろうな」 ぎゅう、と十四朗が総悟を抱きしめました。 いないはずの人間だと解ってからは十四朗に恐怖を感じていたものですから、温かいはずの体温も、なにか氷の化け物にとらまえられたようにしか思えません。 「何を怯えている」 「お、おびえて・・・なんか」 「ようやっとお前を、親父の魔の手から解放できる」 小さな声。十四朗の発した言葉に、総悟ははっと顔を上げました。 「と・・・しろ、にいちゃん・・・。お父さんの、魔の手って、な、なに・・」 「総悟、教えてくれ、親父は死んだのか」 「にいちゃん」 「お前がたったひとりで苦しむ必要は全く無いんだ。何か知っているのなら、俺がすべて良い様にしてやるから」 「にいちゃん・・どうして」 「俺はもう既に死んでいる」 いつもの真面目な顔のまま、十四朗が総悟に告白しました。 総悟は、なんと答えて良いのかわかりません。 「おそろしいか、俺が」 「うう・・・にいちゃん・・・」 「俺は、まだ10歳の頃に事故で死んだ。たった3つのお前に異常な愛情を注ぐ親父のことを何かおかしいと思っていたら、親父の運転する車がトラックに突っ込んだんだ」 総悟は、十四朗が何を言い出すのかわかりませんでした。 なにか、なにか自分の信じて来たものががらがらと崩れるような気がしてその先を聞きたくありません。 「確かに赤信号を無視したのはトラックだった。けれど親父は交差点で左から来るそのトラックに気付いてた。気づいていていながら、俺の・・・俺の座っている助手席側に突っ込んでくるトラックを避けず・・・・自分は運転席から飛び出した」 「なに・・・・・なにを・・・何を言っているんでさあ、十四朗にいちゃん」 「衝撃で、車からはじき出されたと、そう言ったけれど・・・あれは、俺のことが邪魔で・・・・それで俺を殺したんだ、親父が」 「うう・・・・・・やめて」 「母親が出て行って、親父は母さんに生き写しだったお前に愛情を向けた。親子の愛とは違う、もちろんまだ小さなお前に邪な気持ちなどなかっただろうけれど、とにかく尋常ならざる歪んだ愛をお前に向けた。俺はお前を守るために、ゆっくりと眠ることを諦めて、戻ってこなければならなかった」 「にい、ちゃん・・・・・・やめてくだせえ。おとうさんが、お父さんがそんなおっかねえ人のわけがねえんだ。あんなにやさしくて、俺の事を心配してくれて守ってくれるお父さんが・・・そんな・・・」 「俺と親父はお前を挟んで牽制し合いながらこれまで暮らして来た。親父はいつか、お前を手に入れようとしただろう。けれど親父は・・・死んだ。そうだろう?総悟。親父にはここに戻ってくるほどの力はなかった。だが、親父の中に澱のように溜まったお前への執着が毎夜のようにお前を苦しめていたんじゃあないのか?」 押し入れの中から聞こえたおそろしい勲の声。 俺の背中を見てくれ、俺の顔を見てくれと苦しそうに懇願してきたのは、あれは自分の妄想ではなかったのか。 「総悟」 ゆっくりと名を呼ぶ十四朗の瞳は深い藍色で、この世のものではないとはとても思えません。 「親父は、もう、いないんじゃあないのか」 「十四朗兄ちゃん!」 総悟は、十四朗の胸に自分から飛び込みました。 今までたったひとりで抱えていた勲の死をようやっと告白できると思うと、緊張が一気に解けて、勝手に涙が溢れ出しました。 「十四朗兄ちゃん、俺・・・俺ァ・・・」 その時、 どん! と、押し入れの中から大きな音がしました。 十四朗の腕の中の総悟が、真っ青になってびくりとしました。 「にいちゃん・・・・・」 どん! どん!! どん!!! 音は段々大きくなって、耳が割れそうなくらいです。 勲が長持を中から開けようとしているのかと思うと、気が遠くなりそうでした。 「大丈夫だ、俺が守ってやる」 ぐっと総悟を抱く力が強くなります。 十四朗の身体が燃えるように熱くなりました。 なんだか怖くなって兄の顔を見上げると、兄は嗤っていました。 それは、総悟の頭を撫でる時の優しい笑顔ではなくて、何かしら勝ち誇ったようなおそろしい顔でした。 「いやっ!」 どうしてだかわかりませんが、総悟は途端に十四朗のことが怖くなりました。 どんどんと十四朗の胸を叩きますがびくともしません。 「いやっ、放してくだせえ!」 「放す?なんで放さねえといけねえんだ、ようやっとお前をこうやって抱けるってのに」 今までは、親父に邪魔されてできなかったからな。 そう続けた十四朗の唇の端に、光る唾液が見えました。 「いやっ、いやっ!」 総悟にはもう何を信じれば良いのかわかりません。 勲が恐ろしい幽霊なのか、目の前の十四朗こそ邪なこころを持った化け物なのか。 じたばたと十四朗の腕の中で総悟がもがいた時、 どおおん! という長持が爆発したような、大きな音がしました。 (了) |