適度な暗さは人を適度に緊張させたり、興奮させる作用があるらしい。夜目遠目笠の内、姿がはっきり見えないと実際より美しく見えるなどという効果もある。暗い場所で大きくなった瞳孔を見ると、相手に好意を抱きやすくなるなんてことも聞いた。暖かみのある落ち着いた照明、ムーディーなジャズミュージックと美味しいお酒。そんな好条件が揃ったバーという場所に素敵な出会いを求めるのは至極当然なことではないだろうか。今夜のために新調したワンピースを翻し、カウンターのバースツールに腰掛ける。背伸びしたピンヒールをゆったりと見せびらかすように脚を組めば、たちまち良い女の誕生だ。いわゆるオーセンティックバーで出会い目的だなんてマナー違反だと思われるかもしれないが、場の雰囲気を読んで迷惑をかけずにお酒を楽しみながら出会いを求める分には構わないだろう。お給料日にお高めのバーで素敵な出会いを探すのがわたしの密かな趣味なのだ。もちろんカジュアルなバーに比べれば出会いは少なくなるけれど、その分厳選された出会いがあるというもの。なにが厳選されてるって?勿論、経済力である。付き合う男に経済力があって損はない。今日はスカイクルーズを楽しみながら、綺麗な夜景と濃密な夜の雰囲気を満喫するのだ。素敵な出会いがあればなお最高、そんな風に心を踊らせなから最初の注文をバーテンダーに伝える。

「「ジントニックを」」

わたしと重なる誰かの声。つい声の主へと目を向ければ、大きな瞳と視線があった。二つ開けた席の向こう、さらりと揺れる長い黒髪に心臓がどきりと跳ねる。背中まである長髪に一瞬女の人かと思ったけれど、その姿は紛れもなく男の人だった。出来うる限りの愛嬌のある笑みを浮かべて会釈をすれば、その男性は表情をぴくりとも動かさずに前を向く。まるで何事もなかったかのように。恥ずかしくて目線を逸らすという感じではなく、言葉が重なったことも、笑顔を向ける私のことも、一切興味がないといった様子で。そんな反応を返されるとは予想だにしていなかった私は、思わずカチンと来てしまう。決めた。彼を落とそう。そう決めてちらりと横目で彼を見れば、無表情の横顔が酒を呷る。なにも冷たい態度を取られてムキになっているわけではない。狙いを定めた一番の理由は、彼の顔が好みだったという話。まともに顔を見たのはほんの一瞬だったけれど、その顔は鮮烈に脳裏に焼き付いている。陶器のような肌に滑らかで艶のある長い黒髪がよく似合い、睫毛に縁取られた黒目がちな猫目は化粧を施した私の目より大きい。くっきりした二重に釣り上がり気味の細い眉と、スッと通った鼻筋に薄くひかえめな唇。彼の深淵のような深く黒い瞳に少しでも映り込みたいと思うのは乙女心か、それとも負けず嫌いな性格か。ライムが沈むグラスに口をつければ、ジントニックの爽やかな香りとともに炭酸が弾けた。さあ、なんて話しかけようか。いつもは声を掛けられるのを待つだけだったから、アプローチの仕方なんてわからない。こんばんは、ひとりですか?なんて無難な言葉じゃ彼の心は動きそうもない。良くて一言、悪くて無視されるのが関の山だろう。何かきっかけがあれば、と考え込んでいればすぐさまグラスは空になっていた。とりあえず次のオーダーを終えてから話しかけてみよう、そう決意してバーテンダーに向かい口を開く。

「「マティーニ」」

長い沈黙を破る声はまたしても重なった。タイミングから音程までなにもかも完璧だ。声の主はもちろんふたつ隣の彼。しめた、とばかりにわたしは彼の方を向く。ぱちりと大きな目が再びこちらを映した。少し照れたような笑顔を意識して、出来るだけ柔らかい雰囲気をつくって話しかける。

「ふふ、また被りましたね。ハッピーアイスクリーム!なんて」

出来るだけ印象に残るよう、少し抜けてるくらいの女をつくりあげる。また無視されるだろうか。そんな予想に反して、これまで何の感情も示さなかった彼の瞳がちいさく歪んだ。彼から醸し出される雰囲気は、あまり良いものではないことが突き刺さる視線でわかる。居た堪れない空気に話しかけるべきじゃなかったと後悔した私は、咄嗟に謝罪の言葉を口にしようとした。その時だった。

「オレに何した?」
「えっ?」
「お前、いま念使っただろ」
「ね、ねん?」

訳もわからず鸚鵡返しする私を見て、彼の釣り上がり気味の眉が歪む。無自覚か、たまに居るんだよねこういうやつ。そう煩わしそうに呟いた彼は、独り言を続けながら私の隣の椅子へ音もなく腰掛ける。立ち上がった彼の姿は平均男性よりも背が高くて、思わず胸が高鳴った。経済力の他に身長もあって損はないのだ。頬杖をつきながらこちらを向く彼と、三度目に重なった視線。近くで見ると益々存在感のある、吸い込まれそうなほど大きくて黒い目。瞳と同じ黒い長髪も、やっぱり違和感なく彼によく似合っていた。言ってることは訳がわからないけど、一対一に持ち込めたのは僥倖だと頬が緩む。先ほどの後悔が嘘みたいにすっ飛んでいる。私の頭がお花畑みたいにめでたく幸せだったのは、この先に続く彼の言葉に耳を疑うまでだった。

「参ったな、下手に殺して念が残っても困るし」
「えっ」
「なに?」
「殺す?」
「お前の行動次第で殺すよ」
「えらく物騒な冗談ですね……?」
「オレの家、暗殺家業なんだよね」

なんとも恐ろしい会話が始まって、フランクにヤバめな職業を教えられてしまった。それすらも冗談かどうか、無表情のままいまいち真意の読めない彼の言葉に、乾いた笑みを漏らすしかない。地雷踏んだ気がする。たとえ冗談だとしても初対面で殺害予告する男なんて碌なもんじゃない。ふと、首元に何かの気配を感じる。反射的に視線を向ければ、銀色に光る何かを差し向けられていた。男性らしさのある綺麗な指が持っていたのは、まち針を大きくしたような鋭い針。首筋に当たるか当たらないかくらいの加減で薄皮に先端を向けられている。首に刺されば私の命はないだろうと直感して背筋が凍りついた。これは冗談なんかじゃない。一瞬にして全身に冷や汗をかきながら、早鐘を打つ心臓を抑え込む。わたしに残された道はひとつ、命乞いだ。

「殺さないでください……」
「うん。じゃあ早く解いてね」

振り絞った命乞いの言葉に、軽く返された了承の言葉。相変わらず話が読めない。一体なにを解けばいいんだろう。そんな疑問符を浮かべていれば、オレに話しかけた理由は?と彼が問う。尋問じみた言葉と首筋に感じる針の存在感に、震え上がりながら考えを巡らせたわたしは「言葉が二回も被ったから運命を感じて話しかけた」と簡潔に答える。運命を感じて、はいらなかったかも。つい漏れ出した言葉に後悔して固唾を呑む。握った掌が手汗でじっとりと湿っていて気持ちが悪かった。沈黙の中、放置されているマティーニのカクテルグラスを凝視することしかできない。萎縮して固まったまま微動だにしない私を見てか、ようやく首筋に向けた針をしまってくれた。とりあえず命の危機は回避できたと安堵の息を吐く。恐る恐る様子を伺えば、少しだけ考え込むような素振りを見せる彼が言葉を続けた。

「その後の言葉、何て言ったっけ」
「え?」
「アイスクリームが何とか」

彼の口から出るかわいい言葉に思わず胸がときめいた。さっきまで殺されると縮こまっていたのになんて現金な心臓だろうか。誤魔化すように咳払いをして「ハッピーアイスクリームですよね?すみません、ついクセで」と笑みを浮かべて謝れば、怪訝そうな顔がこちらを見る。

「どういう意味か聞いてるんだけど」
「えっ知らないんですか?」
「やっぱり殺そうか」
「ごめんなさいごめんなさいパドキアで流行ってた遊びです」
「遊び?」
「はい喋ってて言葉がハモった時先にハッピーアイスクリームって言った方がアイスを奢ってもらえたり何かお願い聞いてもらえるっていうルールなんですけどすみませんパドキア出身じゃない人からすると意味わからないですよねごめんなさい」
「オレ、パドキア出身だけど」

ベラベラとマシンガンのように捲し立てていた私の口が止まる。ああ、やってしまったと血の気が引いた。地雷を踏み抜いたかもしれない。ハッピーアイスクリームはローカルネタとはいえ、パドキアっ子なら皆知ってるといっても過言ではないくらいに流行ったのだ。誰でも友達と一度はやったことがあるような言葉遊びを知らないパドキア出身の彼。おそらくは同世代だろう、ジェネレーションギャップは言い訳に使えない。水を打ったような静けさが気まずい。もう彼を落とすとか落とさないとかいう話じゃなく、こちらが命を落としかねない問題になってしまっている。怖々と彼の方を見れば、意外にもきょとんとした表情だった。さいわいにも不快な気分にはなっていない様子に、ホッと胸を撫で下ろす。

「で?」
「え?」
「アイスをお前に奢ればいいの?」
「えっいいですよべつに欲しくないです」
「お前は良くてもオレが困るんだよね」
「でもここのメニューにアイスないですし……」

はあ、となんとも煩わしそうな溜息。なんでこんな遊びに真剣に付き合ってくれてるんだろう。これこそ無視したっていいのに、という思いが湧き上がる。彼が困るということは何か不都合があるんだろうけれど、それが一体何なのか皆目見当がつかない。

「なんでそんな制約にしたかな」
「いやぁ、わたしが決めたルールじゃないですから……」

めんどくささが露骨に現れる視線が私にちくちくと刺さる。私が作ったオリジナルの遊びじゃないのだからどうしようもない。会話を交わすうちに少し余裕が出てきた私は、ようやくマティーニをちびりと口に含んだ。からからに乾燥していた口内にアルコールが染み渡る。アイスクリームかお願いだっけ、と抑揚のない声で彼が続けた。

「じゃあお願い聞いてあげるから早く言ってくれる?オレもう疲れたんだけど」
「ええ……そんな急に言われても」

願いを言えと言われても、突然すぎて何も思いつかない。強いて言うならこの不思議な状況を説明してほしい、と思ったところで当初の疑問を思い出す。この問答の始まりである、ネンという単語だ。

「そもそもネンってなんですか?」
「お前がオレにかけたやつだよ」
「恋の魔法ですか?」
「よっぽど死にたいみたいだね」
「嘘ですごめんなさい刺さないで刺さないで」

話してみれば意外にもフランクな彼に、少しずつ打ち解けつつある私。ちょっと楽しくなって調子に乗って軽口を混ぜれば、イラッとした様子の彼がまた針をチラつかせるので急いで謝った。彼の表情は相変わらずピクリとも動かないものの、なんでもいいから早く終わらせろと言いたげなのが伝わってくる。

「お願いって握手とかどうでしょう?」
「どうでもいいから早くしてくれる?」

彼の方から差し出された掌を躊躇いがちに握る。なんとなくひんやりと冷たそうだと思っていた彼の手は、予想に反して温かみを持っていた。身長に比例する大きめの手は固く骨張っている。ぎゅう、と力を入れて握り締められれば、少しの痛みとともに骨が軋む音がした。

「……どうですか?」
「だめだね、本当にオレと握手したいと思ってないだろ」

そりゃそうだと納得する。だっていま適当に思いついたやつなんだから。どうやら本当に心からの願いを叶えてもらわないと駄目らしい。わたしの本心からの願いは貴方を落とすことです、なんて口が裂けても言えるわけがない。そもそも落としたいという願いを叶えてもらうこと自体不可能だ。だって恋には落ちるものだから。願った挙句に叶えてもらうものではない。そこまで考えてから、ふとひとつの願いが浮かんだ。

「じゃ、じゃあ」
「なに?思いついた?」
「あの、お名前とか、聞いてもいいですか」

あ、わたしナマエです……。なんとも今更な自己紹介に急に照れくさくなって、あちこちを泳ぐ視線と尻すぼみになる声。ドキドキと心臓の鼓動が煩い沈黙のあと。思わずちらりと様子を伺えば、少し面食らったような顔をして、なんだそんなことでいいの?と少し可笑しそうに、口元だけ笑みを形作る彼の顔。初めて見た無表情以外の顔が可愛らしくて思わず悲鳴を上げそうになる。ひたすら鉄面皮を貫き通していた彼の、すこしだけ笑った顔。殺されかけたことすら忘れてそんな顔に見惚れていれば、彼の唇が紡ぐ言葉に再び耳を疑うことになる。

「イルミ=ゾルディック」

パドキアで知らぬ者は居ない伝説のファミリーネーム。最初に暗殺家業だと言っていた記憶が蘇る。彼の名前を知りたい、なんてかわいいお願いは叶えられたけど、あまりにも衝撃的すぎる回答に頭の中が真っ白になった。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、金魚みたいにぱくぱくと口を開閉することしか出来ない私。

「あっ解けた。よかったーこれで帰れる」

じゃあね、なんて嬉しそうに席を立つ彼を目の前に、私は今度こそ小さく叫んだのだった。

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