! 人を選ぶ内容/足舐め/痛い話

イルミ様の機嫌が悪い。屋敷の掃除をしていた私の耳に届いたのは、試しの門と呼ばれる扉の開閉音だった。ゾルディック家の誰かの帰宅又は外出を意味するその音は、門を開く者の力によって重さが変わるため、その重さに伴い音も変わる。ククルーマウンテンに響く地鳴りのような開閉音を聞けば、そこそこの年数をゾルディック家の執事として雇われている経験から、誰が帰宅したのかは大方の予想がつくのだ。先程の音は長男であるイルミ様だろう。しかも、どうにも機嫌が悪いらしい。いつもよりほんの微々たるものであるが、扉を開く音がどこか荒々しく棘のあるものに感じ取れて、少しだけ気が重くなった。そんな重苦しい気分を振り払うかのように駆け出して、御帰宅のご挨拶のため屋敷から近い内門で待機する。待つ事十分前後、帰宅したイルミ様が見えたので、おかえりなさいませと一礼。案の定返事はない。礼の前にちらりと覗いた表情も、煩わしそうに進む足取りも、艶のある長い黒髪が揺れる後ろ姿さえ、不機嫌な態度が感じ取れる。大方三男のキルア様関係だろうと勝手に検討をつけながらも、奥様がお呼びですと一言申し上げたが彼の足取りは止まることもなく、ましてや返事のひとつすらなかった。あの長兄のことだ、聞き逃すなんてことはあるまいと勝手に結論を付けて私は仕事に戻ったのだった。

ドチャリ。からんからん。生活感の少ない殺風景な部屋に響く音。暖かみのある室内灯に照らされているのは、無残にも床に落ちたショートケーキと、さいわいなことに割れずに済んだ陶器のデザート皿。この部屋の主であるイルミ様の行動を、ただ黙って見つめる沈黙の時間。用意させたショートケーキをわざわざ目の前で故意に落とす彼の奇怪な行動は、今に始まったことではない。私はこの先行われるであろう出来事を知っているけれど、指示が出るまで指先ひとつ動かすことなく、ただ立ち尽くすだけ。椅子にゆったりと腰掛けたイルミ様は、長い脚を持て余すかのように動かして、そしてその素足で甘い洋菓子を蹂躙するのだ。足の甲の筋張る骨が動き、きれいにデコレーションされていたケーキの原型を崩していく。白い皮膚を汚すようにまとわりつくクリームと、踏み荒らされたやわらかなスポンジ。力を込めた指先が苺を嬲る。足の指とその爪によって潰された果汁が滴って、甘酸っぱい匂いが立ち込めた。たっぷりと時間をかけてケーキを甚振る間、長い足の指が動くたびに浮き出る青い血管をただ見ていた。頬杖をつきながらどこまでもつまらなそうに、あるいは気怠げに、深淵のような黒く深いまなこが私の方を向く。催促するような視線とともに、あまり動くことのない彼の薄くちいさな唇が言葉を紡いだ。

「いいよ」

何がいいよ、だ。そんな事口が裂けても言えないけれど。そう言いだしたくなる気持ちを呑み込んで、失礼致しますと彼の前に跪く。はらりと顔の横に落ちてくる髪の毛を耳にかけた。右手でそっと汚れていない踵を支え、左手を足の爪先に添える。痛いほどに頭上から感じる視線に耐えながら、舌で唇を湿らせた。はじめは、服従のようなくちづけを爪先に。それから舌を少しだけ伸ばして、押し付けるようにクリームを舐めとる。甘いものは嫌いではないし、この家のケーキは美味しいと思うけど、こんな形でばかり味わっていると甘いものが食べられなくなりそうだ。口内に広がる甘ったるさを唾液と共に嚥下した。

この行動も、何度目になるだろうか。最初に足を掃除しろと申しつけられた時も、今日のようにすこぶる機嫌の悪い日だった。最初は完璧に私の不注意で、ケーキを取り落としてイルミ様の足に落としてしまったのだ。即座に謝罪し懐から取り出したナプキンを使おうとしたが、何を思ったのか「お前が零したのだから舐め取れ」と言われたのが、戯れの始まりだったように思う。動揺し躊躇する私にできないの?と問う一言の効果は抜群だった。かしこまりました、それ以外の言葉は選べるはずがなかったと今でも思う。そんな事を思い返していれば、さらりと黒髪が揺れる音がする。こちらを見ているであろう目線に籠る感情を、推し量る術をしらない。べつに、知りたいと強く思うわけではないけれど、知りたくないということではない。イルミ様が何を考えているか、知ったところでどうにもならないけれど。私に対してのみ行われる理由があったりするのだろうか、なんて詮無いこと考える。けれど当の本人はきっと多分、人に足を舐めさせておきながら心ここに在らずなのだろうなと思った。目線こそ外さないものの、思考はどこか別のところにいると、なんとなくわかるのだ。疾しいことをしているつもりはない。しかし健全とは言いがたいこの行為は、背徳感というよりも拭いきれぬ後ろめたさが凄い。足の指に流れ込んだ酸味のある苺の果汁が、口内を侵す甘ったるいクリームを中和する。指の股のあいだを丁寧に舐め取れば、ピクリと珍しく足が動いた。イルミ様にも感覚があったのか、なんて思ってしまった。もしかしたら少し目を見張ってしまっていたのかもしれない。俯瞰から覗き込むような体勢の私の視線と、伏し目の大きな瞳とが、はじめて交差した。

「……」

無言。ちいさく片眉をあげるイルミ様。ご機嫌を損ねてしまっただろうか。一瞬にして冷や汗をかきながらも、何事もなかったかのように視線を戻して舌を動かし続ける。そんな私を見逃すわけがないだろうとでも言うように、私の肩をイルミ様の足が踏みつけた。汚れていない方の放置されていた左足だった。これは、初めてのことだ。動揺を表に出さないよう無表情を努める。続けろと促すような威圧感が私の視野を狭めた。頭の中に心臓があるかのように動悸がうるさい。もう少しで掃除が終わる。早い所終わらせてしまおうと舌を運ぶことに集中していれば、踏みつけられた肩に力がかかり、それは鋭い痛みとなって現れた。ぶつりと鈍い音。突如肩に走る熱を持った刺激に身体が痙攣し反応する。思わず目を見遣れば、肩に食い込むイルミ様の鋭い足の爪。いわゆる、ゾルディック家の肉体操作というやつだ。きゅうと猫の爪のように鋭く伸びた彼の一部が、私の肩に食い込みじくじくと容赦のない痛みを与える。

「逃げるな」

無意識に逃げを打とうとする身体を私の思考が制御するよりも先に、イルミ様の言葉が私の全身を支配する。言葉と共に力を入れられてしまい、強くなる痛みと熱を持つ痺れに眦がすこしだけ熱くなった。私がまた行為を続けはじめたことを確認したイルミ様が足の力を少し抜けば、爪という栓を失った皮膚から血が滲む熱い感覚が溢れ出す。血を滴らせる爪先は私の首筋に伸びて、どこか宥めるように、ゆるやかに首元を撫でた。ひんやりした素足が熱い首をなぞる。相変わらず、彼の意図は読めない。末端にいくら触れたとて、考えのひとつすら知ることだって出来ないのだ。これが終わったら燕尾服を変えなければと頭の隅で考えながら、最後のひと舐めを終えようとした時だった。

「あ」

パッと、この場の雰囲気が変わった。重苦しく纏わりつくような仄暗い空気から一変、蛍光灯がついたかのように日常の空気となる。私の手の上にあったイルミ様の素足は、傍らの靴へと向かった。少しだけ残ったクリームへの未練が残る。決して舐めたかったわけじゃなく、完璧に終えられなかった仕事としての未練だと一応主張しておく。カルトに訓練つける約束してたんだった。耳に馴染んだ抑揚のない声色に、不機嫌の色はない。椅子から立ち上がり、座り込んだままの私を素通りしたイルミ様は、迷うことなく扉へ向かう。足取りは軽快、刺々しかった雰囲気も綺麗さっぱり消えていて、むしろどこか清々しささえ感じる。わたしだけがあの甘ったるさの中に取り残されたみたいだった。ドアノブに手を掛けたイルミ様の動きがふと止まって、大きな黒い瞳がわたしを捉える。

「じゃ、オレが戻るまでにちゃんと掃除しといてね」

人の身体に穴開けときながら、憎らしいほどに平然としやがって。いけしゃあしゃあと掃除を命じたイルミ様は、私の返事など最初から聞かずに部屋を出る。この部屋から離れていく気配とともに、思わず全身に入っていた力を抜いた。肺に詰め込んでいた空気を吐き出せば、忘れかけていた痛みが疼き、不覚にも声が漏れる。さっさと床の掃除を終わらせて、傷の手当てと着替えを済ませてしまいたい。汗と血が身体にへばりつくシャツの気持ち悪さに辟易しながら、私はようやく重い腰を持ち上げたのだった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -