貴方の匂いがとても好き。人一倍匂いに気を遣っている貴方に、そんなこと、口が裂けても言えるわけないけれど。

「姉さん」

イルミの声がする。バルコニーに出て夜風を浴びていた私は、ゆったりとした動作で振り返る。こちらに近づいてくる無機質な気配に、微笑みながら腕を広げ、歓迎の態度をとった。私よりも随分と上背がある弟を抱きしめる。温かい体温の中に溶け込む、消えてしまいそうな香り。無の中にいる貴方の匂いは、きっと私でなければ気づかない。肺いっぱいに吸い込んで堪能していれば、ふわりと肩を包み込む布のやわらかな感触。椅子にかけてあった、私の薄手のブランケットだった。せっかくのイルミの匂いなのに、これでは私の匂いに掻き消されてしまう。残念そうな表情が表に出ていたのだろうか、イルミの手が、柔らかな手つきで私の頭を撫でた。

「久しぶりだね。オレがいなくて寂しかった?」

抑揚のない声の中に、茶化すような冗談めいた声色が混じる。頭の上に置いたままの手に触れて、頬へと誘導した。風に吹かれて冷たくなった頬に、骨ばった手の温もりが心地よい。

「べつに。イルミったら平気で一ヶ月もほったらかすし。ミルもキルもカルも、イルミより遊びに来てくれるのにね?」
「そ、よかったね」
「いひゃいいひゃいやめて」

歓迎の態度とは一変して私が憎まれ口を叩けば、よかったねだなんて言いながら頬を軽く引っ張られる。この部屋で来訪者の訪れを待つしかないのだから、少し捻くれるくらい許してもらいたい。ふてくされていた私の手を引き、開放的なバルコニーから、息の詰まりそうな自室に戻る。イルミが窓すら締め切ったのだろう、風が止んで空気がこもるのを肌が感じ取った。夜の匂いがこの部屋に閉じ込められたみたいだった。いつもの定位置、ソファの右端へ腰かければ、次の瞬間には再びスプリングが軋む。いつも通り、隣へとイルミが座ったのだった。筋肉質な肩に頭を預ける。これもまた、いつも通りだった。とくに意味はないけれど、私は目を瞑り、体温とその匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。いつものイルミの匂いだった。

「体調は? 変わったところはない?」
「まあね。相変わらず退屈すぎて死にそう」

男性らしい節くれだった手に、指を絡める。小指から触れて、存在を確かめるように、指の隙間どうしを埋める。ぴたりとパズルのピースがはまるように、手を繋ぎ合わせた。

「イルミ」
「なに」
「お仕事どうだった?」
「別に、普通だよ」
「いいじゃん。外のはなし、聞かせてよ」
「またそんなこと言ってるの?」

ぎしり。繋いだ手の力が強さを増して、痛いくらいに握り締められた手からイルミの感情が伝わってくる。空気がガラリと剣呑なものに変わる。間髪入れず、畳み掛けるようにイルミが言葉を重ねた。

「オレさ、本当はバルコニーにも出るなって言ってるよね」

強まる語気に、隠しきれない苛立ちを感じ取る。譲歩してやってるんだ、とでも言うような言い方だった。私が何も言わないことに痺れを切らしたのか、ソファの上に倒される。特に抵抗もしない私はされるがままだ。

「そんなに足、折られたい?」
「……イル」
「聞き分けがないようなら腱も切ろうか。それともいっそ切断した方がナマエのためかな」

綺麗に切ってあげるよ、と本気か冗談かわからない声色に乾いた笑みしか出てこなかった。寝転んだ状態のまま、剥き出しの足首をなぞられ掴まれる。力を少し入れられるだけで本当に折られてしまいそうだ。ゾクゾクと背筋が震える。こんな回りくどい手なんか使わないで、いっそ正気を失わせてくれれば早いのに。なんて考えていれば、身体の上に重量のある何かがのしかかる。押し倒されたままイルミに強く抱きしめられたようだった。甘えてくる大きな子供みたいだ。肺が圧迫されて息苦しかったけれど、こうなっては何か言い返す気も起きなかった。宥めるように、大きな背中をやさしく叩く。

「そんなに怒らないでよ。部屋にずっと篭ってるんだから外くらい出たくなるって」
「……」
「家出しようってわけじゃないんだから。不安なら私に針でも入れたら、っていつも言ってるでしょ」
「オレ、人形に欲情する性癖ないんだよね」

あっけらかんと返ってきた言葉に、流石の私も閉口するしかなかった。姉に欲情するのはいいのか、なんていう突っ込みを口にしようとしたが、もう余計なことは言うまいと口を噤む。抱きとめられたまま行き場のない手は、いつも通りイルミの頭を撫でたり、髪の毛を梳くことくらいしかできなかった。
また機嫌が良さそうなときに、外の散歩でも提案してみよう。諦めは悪い方なのだ。

「姉さん」
「なあに」
「明日からまた暫く仕事で出るんだけどさ」
「うん」
「この家で、ちゃんと待ってるんだよ」

遠回しなそれは、帰る場所になってくれと言っているようで。まるでプロポーズみたいだと可笑しくなってクスクス笑いながら、了承の返事をしたのだった。朝になればいつものようにイルミはいなくなってしまう。帰りを待ち続ける私に逆戻りだ。夜が明けなければいいのにと、いつも思う。

「ちゃんと、帰ってきてね」



光を失った視界では、表情なんてわからないけれど、イルミの気配が柔らかいものへと変わるのがわかった。

ねえイルミ。果てのない暗闇の代わりにね、獣みたいな嗅覚が私の世界を補ってくれるんだよ。
そのおかげでわかることだって沢山ある。どれだけ見てくれが変わっても、姿かたちを変えてくれていても、ミルキもキルアもカルトも、私の大好きな匂いなんだよ。全部全部、私の大好きな、イルミの匂い。
とっくの昔に気づいてるなんて言ってあげない。だってイルミだってなにも言わないんだし。私だけ言うなんて不公平でしょ?
きっと、私はこれからも知ることがないんだろうけど。イルミがどんな表情で私のことを見ていてくれているか。たまに訪れる貴方以外の匂いの執事が、どんな目で私を見ているのか。お父様とお母様が何故ここに来ないのか。弟たちが本当はどこで何をしているか。ここの存在を知っているもの以外が、私の存在を認知しているのか。そもそも、この部屋が本当にゾルディック家の敷地にあるのかどうかすらも。

ねえ、私本当はイルミだけでいいと思ってるんだよ。他になにもいらない。イルミが何を思って弟たちの振りをしてくれているかなんてわからない。寂しがり屋の私のためかもしれない。ここが生まれ育ったゾルディック家だと思い込ませたいからなのかもしれない。でもどんな理由であれ、せっかく私の為にしてくれているんだから、私は何も言わないんだ。私、貴方がいるだけでいいっておもっているのにね。大袈裟な比喩じゃなく、貴方なしでは生きていけないから。
何もできない私が何故生かされてるかなんてわからない。優しいイルミの来訪がなければすぐに死んでしまう。疑問を、猜疑を言葉にしてはこの関係は崩れ去ってしまうかもしれない。それだけは、嫌。
なんにも気づかない振りをして、優しさに甘えて縋るくらい、許してほしい。 

───朝日が二人を照らそうと、明けぬ夜のままなのだから。


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2019年9月発行イルミ夢小説アンソロジー「いつの日か ゆるしてって、みはてぬゆめ」より再録です。
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