「イルー?ママが呼んで……なにしてるの」
「どこまで外れるか試してたんだ」

ぐにゃんぐにゃんになって畳の上に転がるイルミを見つける昼下がり。四肢がいろんな方向を向いてるにも関わらず、至って冷静なイルミ。仰向けで上を向く形のせいで前髪が流れ、いつもは隠れているおでこが全開になっている。関節外しすぎて入らなくなったんだよね片手だけでいいからちょっとハメてよ、なんて焦りがひとつも感じられない口調の兄。もう驚く気も失せてしまい、あらぬ方向に曲がってしまっているイルミの腕を掴み、肩から順番に入れていく。ゴキリゴキリと鈍い音を立てながらハマっていく関節。慣れているとはいえ多少の痛みはあるだろうに相変わらずの無表情無反応で、ちょっと痛くしてやろうかと思ったけど後が怖くてやめた。その場の感情に流されると後で後悔すると、今朝ガチガチに拘束されて動けないイルミのぷにぷにほっぺを存分に堪能した時にわかった。クルがいっぱい触ってくれたからお返しだよ、なんてかわいい言葉とセットで、ちぎれる勢いでやり返された頬がまだヒリヒリしてる。片手の関節を全て嵌めてやれば、イルミは動作を確認するように腕を動かした後、反対側の腕の関節を自ら嵌め全身の関節も元通りに戻して行く。それもいくつかは手を使わずに。

「……自分で出来るんじゃん」
「そうだよ、でもしてほしかったから。ダメ?」

感情の感じられない顔のまま、小首を傾げる兄。さらりと黒いショートヘアが揺れる。正直言ってめちゃくちゃにかわいい。私と同じ顔のはずなのにずるい。イルミは私を丸め込みたい時、よくこういう事をするようになった。私がその顔に弱いと知ってるから本当にタチが悪い。実際私にしてほしかったのかは、この際大きい問題ではない。

「で、母さんが呼んでるって?」

そうだった脱線してた。午前中に母さんの拷問訓練を終え、昼食を済ませたあとの自由時間を過ごしていた私は、なにやら上機嫌な母さんに呼ばれたのだ。どうやら午後の訓練は母さんが見てくれるらしい。昨日わたしたちが傷一つ付ける事ができなかった父さんは、今日は仕事で家にいないそうだ。思えば母さんが身体を動かす系の訓練を見てくれるのは初めてな気がする。母さんが担当してくれるのは一部の拷問訓練や耐毒訓練等で、他は父、たまに祖父に教わり、教わったことの練習なんかは執事が見てくれている。ちなみに勉強面も執事たちが家庭教師をしてくれるので、そこらへんの進学校よりレベルの高い教育を受けているとおもう。

午後の訓練時間に呼ばれた場所は室外の遊技場だった。遊技場には運動公園にあるような大きなアスレチックがあり、普段訓練としては使用されない場所。森の中を切り開いた小道を通り抜け遊技場まで辿り着くと、つばの広い帽子を被った母親と、数人の執事達が既に待っていた。母親が訓練を監督する際は必ずと言っていいほど数人の執事、それもベテランと思われる者が一人はいる。

「今日はママが訓練を見るわよ。準備はいいわね?」

優しげに微笑む母さんに頷く私たち。母さんの後ろにいる執事たちの監視するような目線が居心地悪く感じる。……私の主観でしかないが、執事が監視しているのは私たちより母さんが主なんじゃないかと思う。若くして嫁いできた立場である母親の訓練が、この家の、ゾルディック家の後継者を育成する教育に相応しいかどうか。母さんの年齢を直接聞いたことはないが、執事たちが話してるのを立ち聞きしたところ、まだ成人して2、3年という若さらしい。あまりこの世界の地理に詳しくないのでわからないが、出身地に関して何やら言われていたこともあった。部外者に対して異常なまでに排他的なこの家に嫁ぐということは、生半可なものではないのだろう。しかし母さんがこの家を、父を、私たちを愛し、家業を継ぐに相応しい生活を送れるよう心血を注いでいる事を私は知っている。感情論でどうにかなる問題ではないとわかっているが、それでも母を厳しい目で監視する執事たちの態度は好きになれそうになかった。改めて居心地の悪さを感じ嘆息する。先日ほどのひりつくような緊張感はないが神経を尖らせ身構えていると、突如母さんは周囲の森に向けて声をかけた。

「ミケ!いらっしゃい」

ざわざわと木の葉が揺れ、木の根が折れ、森のざわめきが辺りを包む。何か大きい生き物がこちらへ近づいてくる感覚に肌が粟立った。ミケと呼ばれる生物はその名を呼ばれ、私たちの前へ姿を現わす。4メートル近くあるんじゃないかと思われるその体躯、遥か頭上に頭があり、こちらを監察している目からは感情を図ることができない。鋭い牙が並ぶ口からはだらりと長い舌が垂れ、そこからは生温い息が漏れている。あまりにも大きすぎるその生物の姿は、名前から連想される想像を裏切るような犬の姿だった。

「え、ミケ……?え?」
「初めてあなた達に見せるわね、番犬のミケよ」

常識外れの大きさはひとまず置いておいて。相変わらずこの家のネーミングセンスはどうなってるんだろう。せめてポチとかじゃないのか。ちらりと横目でイルミを見ても案の定いつもと変わらなかった。大人しく母親の隣で待機するミケ。犬種でいえばボルゾイに似ているのでおそらくミケも狩猟犬だろう。まさか今日の訓練はミケと戦えとでも言うんだろうか。ミケの牙もさることながら、巨大すぎる手足の先から覗く鉤爪も凶器でしかない。

「今日の訓練は、ミケの散歩をすること」
「さ、散歩?」
「それだけ?」
「そう、それだけよ。一度ミケが気がすむまで散歩させるのが最初の段階。最終的にはこの場所に戻るよう躾けてあるから、戻ってきたら少し趣向を変えた第二段階を終えれば今日はお仕舞いよ」

なんだ、随分気楽な訓練じゃないか!てっきりまた戦うのかと思っていた私は安堵の吐息を漏らす。父さんの倍ほど体格のある動物との命がけの戯れは出来れば遠慮したい。(それでもどちらが強いかと問われれば即答で父親だと断言できるのだが)
どうぞと執事に渡された散歩紐は紐というより綱で、ミケの胴体に付けられたハーネスに私とイルミの二本分が取り付けられる。この時の私は、ミケの気が済むまで散歩という言葉の意味を正しく理解していなかったのだ。いってらっしゃい、その一言がミケの散歩開始の合図だった。

「う、わっ!?」

綱を持つ右手が千切れるかと思うくらい激しく引っ張られ頭がついていかない。実際関節が少し外れかかったが気合で阻止した。勢いに身体が付いていかず宙に浮く身体をなんとか地面に留め、足を必死に動かしギリギリ前傾姿勢を保つ。きっとこんな時でもイルミは動揺せず冷静沈着なのだろう。隣を向き表情を確認するなんて余裕はなかった。

「クル」
「なっなに?!」
「後ろ」
「え?!ああ!?」

音はなくとも背後から迫り来るいくつもの気配を感じ身を躱す。咄嗟に避けたそれは銃弾だった。おそらく撃っているのは執事たちだろう。通常の臨戦態勢なら躱せるよう訓練されたが、不意打ちにはまだ慣れていないのでイルミの言葉がなければ一発くらいは当たっていたかもしれない。冷や汗が全身の毛穴からドッと溢れた。銃弾に撃たれるのは初めてではないし執事たちのことなので致命傷は避けて撃っていることは分かっているが無傷に越したことはない。痛みだって多少麻痺してきた部分もあるが、我慢できるだけであって痛いものは痛いのだ。草木の生い茂る森を切り抜けるように駆け抜けるミケに引っ張られながらも必死に食らいつき、目にも留まらぬ速度で流れる森の中からこちらを狙う執事の気配を察し避ける。仕掛けられるのは弾丸だけじゃなくボウガンの矢だったり、身体が余裕で飛ばされるであろう大きさの鉄球が飛んでくる。それらに注意を向ければ足元の紐が張られた罠や落とし穴、威力を弱めた地雷などのトラップに掛かりかねないので、ミケの足跡を踏むように脚を運ぶ。開け続けた目に風が当たり、乾燥で涙が溢れた。兄に良く似た大きな目も困ったものだなと何処か遠くで思考する。ミケが満足して元の遊技場に戻ったのは、山を麓まで一気に下りそこからまた駆け上がった頃だった。

「おかえりなさい、早かったわね」

地面の上だろうがお構いなしに倒れ込んだ私は、全身が心臓になったみたいに息も絶え絶えで母さんに言葉を返すことができなかった。これはイルミも例外じゃないようで、私ほどではないにしろかなり息を切らしている。私たちを散々振り回したミケはといえば好きなだけ走り回ったおかげか満足した様子で母の横で伏せていた。一度休憩を挟むらしく、執事に飲み物を貰い疲弊した筋肉にアイシングをしてもらう。全身に当てられた冷たい氷が気持ちよくて身体を動かす気も起きない。全身の汗を丁寧に拭かれ、葉や枝が当たり傷がついた顔も濡れタオルで拭いて貰う。このまま熱い湯船に浸かって柔らかいベッドに意識を奪われたい……そんな現実逃避から私を呼び戻したのは、母さんのやる気に満ちた声だった。

「さ、休憩は終わりよ!第二段階はミケから逃げてもらうわね。時間は……そうね、日が暮れるまで逃げ続けるか、ミケのハーネスに取り付けてあるタグを取って戻ってくるまでよ。タグは一つしかないから、二人で協力してもいいわよ。30秒後にミケを離すわね」

それじゃあ頑張ってね、相変わらず楽しげな母が言う。先程まで満足していた筈のミケの様子は、今までにないくらい興奮した様子だった。明らかに様子がおかしい。白くて長い毛を逆立たせ、感情の読み取れなかったはずの目の瞳孔が広がり、時折歯茎を剥きだす口からは唾液が溢れている。ハーネスから伸びる何本もの綱で周辺の木々に繋がれているが、その木もベキベキと悲痛な音を立てているのであまり長くは持たないだろう。その様子を見たイルミは一瞬のうちに駆け出し森へ消えた。私はといえば、咄嗟に消えたイルミを追いかけていた。

「クルミ、分かってるよね?ついてこないでよ」
「だ、だってミケが!」

分かっている。追っ手が一人(一匹)なら二手に分かれて逃げた方が良いことくらい分かっている!でも後ろから迫り来る興奮したミケの気配に一人で逃げるのは心細すぎるので許してほしい。私がイルミに着いてきたことによってミケも迷うことなく真っしぐらにこちらへ来ている。ベキベキと木々や草花が踏み潰される音や荒々しい地鳴りのような足音が近づくに連れ、増す圧力を肌で感じたイルミは、私とミケの方角とを見比べてからその口を開いた。

「囮とタグ取るのどっちがいい?」
「え?!」
「早く」
「おっ囮やる!」

簡潔すぎてどのようにタグを取るのか分からない私は囮を選ぶしかない。じゃあちゃんと逃げてね、そう言ったイルミは近くにあった池に躊躇いなく飛び込んだ。その直後、イルミの行動に私が驚く暇もなく姿を表せたミケ。獲物を追い詰めた興奮からか目が爛々と輝きしっぽを千切んばかりに振っていて、先ほどよりも興奮状態が増している気がする。冷や汗が滲む顔に、ポタリと頭上から水滴が落ちた。雨は降っていないはずだ。だとしたら。
ミケから決して意識を逸らさないように細心の注意を払い、頭上をチラリと見れば、先程池に飛び込んだはずの水浸しの兄が木の上に登っていた。タグは背中側にあるので、上から攻めるつもりなのだろう。その囮の私は、ミケの意識を下側に持っていかなければならない。しかし何かをするまでもなく、上空の兄に気づいてないミケは私しか眼中にないようで、鋭く伸びた爪が生えた手で胴体を捉えようとするのを必死の思いで避ける。私を仕留め損ねたミケの手が木の幹を抉る。その瞬間見事に伐採された木を見て背筋が凍った。あれに当たったらひとたまりもないだろう、鍛えられているとはいえ良くても流血骨折、悪くて内臓ご対面だ。好き放題逃げられるのならいいが、生憎私は囮役なのでイルミがタグ回収しやすいようにミケの気を引かなければ。これが案外難しく、逃げ出したい気持ちを抑えミケを飽きさせないようにすんでのところで躱さなければいけない。イルミのいる木の近くから出来るだけ動かずに必死に躱し続ければ段々とミケがイライラして来るのがわかる。早く、早くタグを回収して一刻も早くここから逃げたい!ミケの爪先が脇腹を擦りかけた時、間一髪背後からもの凄い力で引っ張られた。首元が締り潰れたような声が漏れる。引っ張られたせいで宙に浮き、浮遊感とともにスローモーションで流れる景色の中で私が見たのは、片手で容易く私を投げ飛ばしたイルミと見せびらかすように手に収まっているタグだった。ああよかった、タグ取れたんだ!そう思った束の間、水しぶきとともに背中に衝撃が走る。投げ飛ばされた先は先ほどの池で、私は容赦なく水面に叩きつけられたのだった。

「ゲホッ、なんで落としたの?!」

少し池の水を飲んだようで、なんだか気持ち悪くて咳き込んだ。広大な山にあるだけに広さも深さもかなりの池から地上に戻り、ずぶ濡れの身体も厭わずイルミを問い詰める。服が水分を吸収して重たいし纏わりつく感触が気持ち悪いが今は後回しだ。

「ミケ見てよ」
「ミケ……?」

促された通りにミケを見れば、さっきの興奮状態が嘘みたいに大人しくなっていて愕然とした。すでにこちらに対する興味が失せたようで、二人して水浸しの私たちを一瞥した後、迷いなく遊技場の方に帰っていくミケ。まさかタグを取ったから…?訳もわからず目を白黒させていると、しょうがないなといった風にイルミが言葉を続ける。

「ミケが興奮しはじめた時オレたちしか狙ってなかったんだよね、だから何か変化があったのはミケじゃなくオレたちの方だったってわけ」
「それって休憩中に飲んだものか……身体拭いた時……?」
「たぶんね。身体拭いた時かなー。人間にはわからない匂いをつけられたんだろうね」
「わあ……水で落ちるやつでよかった……」

二人びしょ濡れのままミケの後ろを手を繋いでついて行く。その後遊技場へ戻ると、今までの様子を何故か見ていたらしい母が「イルミったら!クルちゃんを囮にするなんて!」と声を荒げていた。私が囮に立候補したのだと咄嗟に庇おうとしたが、その後に続く言葉が「なんて残酷なことができるようになったの!ママ嬉しいわ!」だったので口を噤んだ。そうだ、母さんはこういう人だった……遠い目をしながら乾いた笑いを漏らす。執事たちと目があったがサッと逸らされた。失礼やつだな。いや、もうどうでもいいから早くシャワー浴びて熱いお風呂に浸かりたい。子の成長に感激する母さんの声をBGMに、本日何度目かわからない現実逃避の旅に出かけた。


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