念願だったそれは、あまりにも唐突に訪れた。

「そろそろ1人の仕事を任せたいんだが、やるか?」
「絶対やる!」

いつも通りにつつがなく訓練を終えた私は、広間で一人アフタヌーンティーを飲んでいた。この後イルミと手合せの約束があるからとおやつは我慢して、ちょうど一杯目の紅茶を飲み終えた頃だった。いつのまにか広間へと入ってきた父が冒頭の問いかけを行ったのだ。とっくに単独の仕事を引き受けて捌いているイルミを羨ましく思っていた私は、待ち望んでいた仕事に舞い上がり二つ返事で引き受けた。

「それで、どんな仕事?いつからなの?」
「今日だ」
「えっ」

喜びも束の間、告げられた急すぎるスケジュールに唖然とする。今日?明日ではなく、今日から? 間髪を入れず、さらに背後から「行き先はジャポンよ!」と笑顔の母親が現れた。打ち合わせでもしてたのかこの両親は! 謎の勢いに呆気に取られていれば、すぐさま大きなトランクを持った準備万端の執事たちに連れ去られる。その拍子にティーカップを落とすが、それを拾う暇すらなく飛行船乗り場へと連行される。目の前にいた父さんに「いってきます」すら言えないままジャポンへと飛び立つことになってしまった。スピード感が凄すぎて、頭は何一つ追いついてこなかった。第一今日からっていうか今からの間違いじゃないのか。
パドキア共和国から南、ミンボ共和国上空を突っ切って、小さな島国であるジャポンに着陸するまで飛ばしても二日ほどかかるらしい。長距離移動用の飛行船の中は高級ホテルのように快適だけれど、それを満喫する余裕はない。用意されていた大量の書類を、移動の間に頭にたたき込まなければならないからだ。なにせ人生で初めての単独の仕事だ。準備はしておいて損はない。渡航経験のない国外での仕事となると尚更注意しなければならないが、何かとジャポン贔屓の我が家で育ったおかげで不安はだいぶん軽減された。ハンター文字の次に習った文字は慣れ親しんだ漢字だったし、振る舞いにおいても前世とほとんど同じだったからだ。そのおかげで、ジャポン出身の執事からもすぐに合格点をもらえたのだった。

「クルちゃん、そろそろ着くわよ」
「はあい」
「渡したいものがあるからママの部屋に来てちょうだいね」
「うん、すぐ行くね」

最終確認のため部屋でデータに目を通していれば、扉の向こうから私を呼ぶ母の声がする。さきほどから飛行船が低空飛行に移行しているし、そろそろ着陸が近いのだろう。散らばっていた書類を軽くまとめ、母の自室へと向かう。
初めてといえば、母親と一緒に移動するということも初めてだ。滅多に家の敷地から出ない母が家を出た理由を聞けば、ジャポンにしかない呉服店に行きたかったからとの答えが執事から返ってきた。そういえば母さんは家族全員の着物を仕立ててもらうのだと張り切っていたっけ。ちょうど良い機会だったのでこの移動期間を利用して、母さんに着付けのやり方も教えてもらったのだ。今回の仕事着は着物らしいし、こうして自分でも着れるようになれば仕事中に着崩れても安心だ。今日の私は、白い彼岸花がデザインされた、黒い着物に身を包んでいる。新月の夜の色をしたそれは、沢山ある和服の中でも一番のお気に入りである。単独の任務初日にふさわしい勝負服だ。
母の部屋の扉をノックし、許可を得てから入室する。静謐な空気の中、純白の壁に映える漆黒の女性。漆喰の壁がまるでキャンバスのようだ。鏡台の前に座っているだけなのにとんでもなく絵になるな、と娘の贔屓目なしにそう思う。

「こちらにいらっしゃい」
「?」

母のもとへ向かえば、着付けの確認を行われた。自信はあったもののチェックされるとなると流石にドキドキしていたが、完璧だと褒めてもらえ安堵する。母は、キュインと機械音を発しながら、私の顔を少しの間眺めた。そうして鏡台から口紅を取り出し、私の唇に紅を差す。それが終われば最後の仕上げとして、耳元に小さめの簪を刺してもらえた。ちりんと、小さな鈴が揺れる。この間の紐の原理を改良して作ってくれた鈴だそうだ。
父曰く、能力者を感知して小さく鳴り、念による攻撃を受けそうになるとその危険度合いにより警鐘のように激しくなるのだとか。たしかに母につけられるまでちりんちりんと可愛らしく鳴っていたが、母の手元から離れた今、どれだけ動いても耳元の鈴は一切音を出さなかった。これなら隠密活動中でも静かだし、一度使ってしまえば再利用ができない紐とは違い、何度だって危険を知らせてくれる。何せ前回の紐も、いつのまにか切れてしまっていたのだ。あれには執事も家族も皆首を傾げていたっけ。結局イルミと手合わせした時に切れたんじゃないかって結論になったけど、たとえ手合わせ中でも糸が切れたら気付かないわけがないんだけどなあ。私だけじゃなくイルミも不可解そうな顔をしていたのだから。
仕事前の総仕上げとして全ての確認を終えたあと、それじゃあ行きましょ、というご機嫌な母の声についていく。まだ着陸には早いはずだけれど、どこに行くのだろう。なにも言わずに背を追えば、辿り着いたのは出入り口の扉の近くだった。一本通路の退路を塞ぐような形で、背後には執事もいる。なんだか嫌な予感がするのは気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。

「それじゃあ行ってらっしゃい。頑張ってね」
「やっぱり?」

母の見送りの言葉を聞いたが最後、飛行船の扉───ではなく、目の前の床のハッチが突如開いて、声が聞き取れないほどの暴風が、轟々と飛行船内に舞い込んでくる。ポッカリと口を開けている穴からは、空を流れる白い雲が見えた。目の前には笑顔の母、背後には執事の挟まれた状態だ。もしかしなくても、この場で飛び降りろと?
顔を引きつらせていれば、後ろの執事が今にも私の背中を押そうとする気配がしたものだから、慌てていってきますと笑顔で告げる。人に突き落とされるくらいなら自分で飛び込んだ方が精神的に幾分かマシだ。「しっかりやるのよ〜!」と母の嬉しそうな声を聞きながら、ジャポン特有の緑溢れる大地に飛び込んだ。五臓六腑が浮き上がり、内臓が口から飛び出しそうな浮遊感を久々に味わう。比較的低空飛行とはいえ、パラシュートもなしで飛び降りるのは中々に勇気がいった。着物の袖を広げれば、風の抵抗を受けて落下速度が徐々に減速する。雲を突き抜けながら私を置いて過ぎ去る飛行船を見た。背中を押そうとした執事、いくら仕事だろうが顔覚えたからな。
猛スピードで落下する中、山の中腹あたり、少し開けたところにチカチカと何かが反射するのが見えた。遠くにいる執事が所在を示すためによくやる合図だ。おそらくそこに着地しろというのだろう。反射する光に向かってぐんぐんと下降する中で、ようやく人影が確認できた。顔は判別できないが、スーツを着ている一人の男性だ。開けた土地の中でも不自然に落ち葉が集められた箇所がある。どうやらそこに着地しろという気遣いらしい。別にそんな配慮がなくとも足なんて痛めないし音だって最小限に留めることができるけど、せっかくの気遣いを無碍にするわけにもいかないので落ち葉の絨毯の上へ着地した。身体を痛めるどころか、着崩れもほとんどない。少しだけ乱れた髪を手櫛で直せば完璧に元通り。我ながら百点満点の着地だ。

「お待ちしておりました、クルミお嬢様」
「あー……じいちゃんのとこの、ゴトーだっけ?」
「はい。見習いの私を覚えておいでとは……恐縮です」

忘れるはずもない。執事邸襲撃の時に私が襲ったあのゴトーだ。えっ何かすごい気まずい。あの後一度も話していなかったものだから、攻撃したことすらすっかり忘れていた。うちの執事ならば手加減した手刀で死ぬわけがないだろうと分かっていたけれど、それでも心配のひとつくらいするべきだったか。そもそもゴトーは私が襲ったことを知っているのかどうか。過去を蒸し返すようだけれど、いくら雇用主側とはいえ思いっきり手刀かましちゃったし、身体は大丈夫だったかとか聞いた方がいい、よね?

「以前の件でしたらお気になさらないでください。執事一同、命を捧げてお仕えしておりますので」
「あ、ありがとう……?」
「お嬢様のお役に立てて光栄です」

淡々と述べられたのは、簡潔な模範解答だった。完璧な笑顔からはその感情、真意は伺えない。むしろこれ以上触れなくて良いと一線を引かれたような気さえした。
早速ですが参りましょう、と早足で歩き始めたゴトーのあとに続く。ジャポンの穏やかな気候は心地よく、さわやかな秋晴れということもあって、これから仕事なのだという実感が薄れていく。だがそれも束の間で、森を抜け山道を登る間に今回の仕事の"設定"を聞かされると、すぐに身が引き締まった。
今回の仕事はジャポンマフィアのボスとそのナンバーツー、いわゆるヤクザの組長と若頭の暗殺である。読み込んだ指示書通り、殺すタイミング、場所、やり方全て指定されているため、どうしても潜入が必須となるだろう、とは予想していた。仕事の計画を立てる際に母さんとツボネに助言を求めれば、ここが海外ということもあり潜入の手配までは執事がしてくれるようになったのだ。とはいえ何もかもが急だったせいかギリギリまで手配中だったようで、肝心の潜入方法については一切聞かされず。仕事開始まで30分を切った今、ようやくこの場で設定が明かされたのだ。
私に与えられた役は、毒見係だそうだ。実力はともかく、こんな子供の見た目で毒見役として雇ってくれるのか疑問に思ったが、ジャポンには古くから未婚の少女が毒見を務める文化があったと学んだ記憶がある。たしか───薬子と呼ばれていたはずだ。このジャポンという場で、自分の年齢を考えれば毒見役が確実かつ一番動きやすいだろう。その分怪しまれやすいポジションではあるが、折角用意してくれた設定なのでありがたく乗っからせてもらうことにした。

「それから、旦那様から一つ伝言が」
「伝言?」
「"依頼主を見つけてこい"だそうです」
「依頼主を?」

そういえば、全ての書類に依頼主の情報は一切なかったことを思い出す。まさか依頼主不明の匿名依頼を受けるわけもないし、両親や執事が依頼主を知らないわけがない。となると私にだけ故意に知らされていないのだろう。

「旦那様曰く、頭の体操だそうです」
「オッケーわかった。成功報酬楽しみにしてるって父さんに言っといて」

父は時折、私を試すように不可思議なクイズを吹っ掛ける。それは大抵任務に関係のあるもので、簡単にわかるようなものではなく頭を使う必要のある問題が多い。
たしかに殺し屋の仕事に、感情も殺意も不要だ。けれども何も考えなくていいという意味ではない。ただターゲットを殺すだけならばそれは道具と一緒だ。人間である必要がない。思考することを放棄した暗殺者は、一流とは言いがたいだろう。だからこそ父は気まぐれに問題を与えてくるのではないかと私は思っている。もっとも、最優先されるべきは任務であることが大前提のため、問題が解けなかったところでペナルティなんかは何もない。解けたら成功報酬としてご褒美がある、くらいのボーナスミッションだ。そういえば前回のご褒美はイルミと休暇の日を合わせて欲しいとお願いしたんだっけ。難しいかもしれないけれど、今回は家族全員で過ごせる日が作れるといいな。

そんな風に期待に胸を躍らせるなかで、任務の開始時刻が近づいてくる。山頂付近、山を切り開いた土地に建つお屋敷が目に入った。敷地の傍らには小型の飛行船が停まっている。私用と思わしき飛行船を尻目に、我が家にある一の門ほどの大きさの門へと向かった。屋根がついた和風の門の向こうに見えるのは、今回潜入する組織の本拠地である、武家屋敷のような豪邸だ。組織の名を、土原組という。もちろん我が家ほどではないが、ヤクザの拠点とあってそれなりに大きい部類に入るだろう。神経を研ぎ澄ませて中の様子を伺うと、建物の大きさの割に人間の気配が極端に少ないことがわかる。現在抗争の真っ只中だから出払っているのだろうか。暗殺の仕事なのだから、潜入中に私を認識する人間が少ない事は好都合だ。

「こちらです。お嬢様、準備はよろしいですか?」
「うん、いつでも大丈夫」

初めての単独潜入からの興奮か、はたまた緊張か。鼓動が徐々に早まるのを感じる。落ち着け私。緊張するにはまだ早い。決行日は明日だ。それまで今日と明日の二日間の潜入に耐えればいい。
息を呑む。大きく息を吸って、ゆるやかに吐く。僅かに昂った鼓動を、鎮静させる。あらゆる資料を頭に叩き込んだ。暗殺の細やかなオーダーも、ターゲットの趣味嗜好から、敵対組織の情報、末端構成員の顔写真まであらゆる情報を網羅し把握した。鈍った体も元通り以上に鍛え上げたし、母さんの授業のおかげで社交性だって身についた。私はクルミ=ゾルディック。失敗なんて、するわけがない。
私の様子を横目で見たゴトーが、門に設置されたインターホンに近付いた。

『はい』
「雲隠流より参りました。ゴトーと申します」
『ゴトウ様ですね、お待ちしておりました』

インターホン越しに聞こえたのは女性の声だったが、実際に門から現れたのは和服の男性だった。ゴトーと同じくらいの体格で、同じような眼鏡。黒髪を額の真ん中で分けた神経質そうな男だった。スーツでも着ていればインテリヤクザという言葉が似合うだろう。一昨日からいやというほど見たその顔は、事前に渡された写真よりも疲れた印象を受けた。

「貴殿が雲隠が誇る毒見師か。会えて光栄だ」
「いえ、私ではなくこちらの……お嬢様です」
「何……?」

私を品定めするように見た後、「まさか、お前のような小娘が毒見係か?」とでも言いたげな目線を寄越す。随分と不躾な態度だったが、その目を無視するわけにもいかず、とりあえず会釈をする。黙ってないで反応くらい返したらどうなんだ、という言葉は飲み込んだ。
というかゴトー、雲隠流だとか諸々の情報をわざと私に伝えなかったな。ここに来るまでに知らされた設定といえば『新しい毒見係を探していたターゲットの元へ、私がレンタルされに行く。期間は一泊二日で、初日に面接を行い、二日目の会合に毒味係として同行する』といった簡潔なものだった。大方我が家の指示だろうけれど、いきなり忍者の一族の名前を出されると対応に困る。そのほかの情報を与えられていない私は、ゴトーの言葉から振る舞うべき態度を推測するしかない。潜入中にも関わらず私をお嬢様と呼び敬う態度を取ったことから、霧隠流の中でも位が高く、重宝される立場にある───という設定だろう。まずは忍者一族で大事にされてきたお嬢様を演じればいいはずだ。

「お嬢様、また明日お迎えにあがります」
「ええ」
「それでは、お嬢様をよろしくお願いいたします」

そう言い残してゴトーは消えた。残されたのは私と、胡乱気な目を隠そうともしない男。男はわざとらしいため息を一つ吐いて、ついて来いとだけ言い残し中へと入っていく。許可を得たのだから堂々と入ってやろうと、屋敷の敷居を跨いだ。建物の構造を把握しようと歩きながら見渡せば、周囲を窺う私の様子に気づいた男が、なんとも大人気なく睨みつける。

「よそ見してる暇があるなら黙ってついてこい。それとも家が恋しくなったか?」
「せっかちな方ですね」

今度は舌打ちだ。一見頭脳派に見えるが実はものすごく短気なのかもしれない。眉間に刻み込まれたしわのせいで、やつれた顔が更に老け込んで見える。彼の所属する土原組が抗争中なことを考えれば些細なことで苛立つのもわからなくはないが、こんな子供にまで八つ当たりするようじゃ底が知れる。
不快な態度を取られる度、それをなかったことにするように、にっこりと笑って見せる。その度に彼は拗ねた子供のように鼻から息を漏らすのだ。どれだけ横柄で不遜な態度を取られても、わたしの心は凪いだ海のように穏やかだった。潜入先だから大人しくしているなどという理由ではない。なぜならば、

どうせ彼は明日、死ぬ運命にあるのだからと。


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