主治医のお墨付きもあり仕事に復帰した私は、あれから何度か簡単な付き添いの仕事を請負いながら日々鍛錬に励んでいた。イルミもイルミで以前より厳しくなった訓練に必死に取り組んでいるようで、前にも増して一緒に過ごす時間が減ってしまった。けれど、週に一度は一緒におやつを食べようだとか、念なしの組み手をしようだとか、そんな約束を取り付けてくれるものだから寂しさは感じなかった。
今日も今日とて父の補助の仕事を終え、別件で仕事が入った父さんと別れたあと、帰りの飛行船で報告書を纏めていた時のことだった。母セレクトの中でもシンプルめのシックなワンピースに身を包んだまま、ふわふわのソファに腰掛ける。報告書の内容を精査していたうちについ微睡み、うたた寝をしてしまっていたようだ。ここ最近、補助のような簡単なものとはいえ立て続けに仕事が入り、それが昼夜問わず続いたものだから疲れが溜まっていたのだろう。

だからこれは、夢なのかも知れない。小型の私用船に乗っていたはずが、今はなぜか濃霧のような白い煙に包まれている。一瞬で頭を叩き起こし臨戦態勢へ切り替えた。先ほどまでは間違いなく空を飛んでいたはずなのに、素足の下には草木が生い茂る地面が見えていた。予期せぬ異変に思いっきり吸い込んでしまった煙を吐き出す。匂いは無臭。有毒ガスではなさそうだが、念のため袖を口元にあてた。
なぜ飛行船にいたはずの私がなぜ地上に降りているのか。仮に落下したのだとしたらそれに気づかないほど鈍ってはいないはずだ。となると信じがたいが連れ去られたか、はたまた転移されたか。一瞬のうちに思考を巡らすが、まずは状況を把握したい。前方に少なくとも一人、一般人とは異なる気配を感じるのだから。静かにスカートを捲り、太腿に巻いていたワイヤーを手に巻きつける。イルミとの勝負の時に使ったワイヤーだった。仕事の時に使えるかもしれないと携帯していてよかった。ここが森の中ならば、ワイヤーで逃走時間を稼げるはずだ。

ゆるやかに吹く風が煙を攫おうとするが、よほど濃いのか視界が晴れることはない。白く霞み明瞭にならない視界の中、蠢く人影が見える。周囲の状況が不鮮明な今迂闊に動くことは得策ではない。冷静に、しかし退路だけは確保しなければ。この視界の中確認できる人影の人数は一人。一際強い疾風が吹けば、そのシルエットがはっきりしてきた。細身かつわたしより遥かに高い身長。父さんほど大きくないけれど、それに近い高身長の男のようだった。

「───クル?」

煙たい視界の中でもはっきりとわかる長い黒髪。聴き慣れない声色のはずなのに、その音には親しみを感じる。反射的に逃げ出そうとする前にわたしの手を掴まれた。普段ならば関節を外して逃げるところだけれど、逃げる必要はないと頭のどこかで判断していた自分がいた。信じがたい光景だが、目の前の人物を知っている。私の手を掴む、その人間を見た。高い身長と長く真っ直ぐな黒髪。父さんよりも母さんに似た、その容貌。普段知る姿からあまりにもかけ離れているが、私の片割れで間違いないと確信していたからだ。

「はは、昔のクルミだ」
「わ、え、イルミ?ほんとにイルミなの?」
「うんそーだよ。今いくつ?ミルが生まれたあとくらいかな」
「ミルは2歳、だけど」
「てことはオレが念覚えた時くらいか」

こんな小さかったっけ、などと笑いながら私の頭を撫でる大きなイルミ。信じられないけれど、本当に大きくなったイルミなのか。雰囲気なんかはそのままで、中性的な少年から立派な男性に成長したことにちょっとした感動を覚える。深緑の服に針がたくさん刺さってて驚いたけれど、それが未来のファッションなのかもしれない。ボブくらいの長さの私の髪の毛より、遥かに長い髪を見て嬉しくなった。イルミはあの時の約束を守ったままずっと変わらずにいてくれたのだと。
イルミの反応から推測するに私が未来に来た、という状況だろうか。本当に未来に来てしまったのだとしたら帰れるのだろうか。一抹の不安がよぎった時だった。突如イルミの背後からこちらに近づいてくる気配を感じる。草木を踏み締める音とともに、木の影から人影が現れた。

「上手くいったみたいだね」
「出てくるなって言ったろ」

そう言って現れたのは、目の前のイルミよりもガタイがよく背も少しだけ高い、なんとも奇妙な男だった。トランプのスートが胸元に描かれているところとか、立ち上がった派手な色の髪とか色々あるけれど、頬に描かれたピエロのようなフェイスペイントのせいで不審さが全面に出ていた。一番は、その油断ならぬ殺気だろう。一応隠してはいるが一瞬でも気を抜けば首を刈り取られそうな嫌な気配がする。オーラを感じ取ることができない未熟な私でもわかった。関わってはいけない人物だと本能が警告している。一応言っておくが別に怖いわけではない。だって父さんの方が絶対強いし。

「これがキミのお姫様かい?」

瞬時に間合いを詰められ、即座にイルミの後ろに隠れた。語尾にハートでもついてそうな口調で、にっこりと笑った顔をこちらに向けてくれるけれど、隠しきれない胡散臭さが溢れかえっていた。イルミが微動だにせず会話していることから知り合いだろうことがわかるけれど、いったいどういう関係だろう。

「残念。嫌われちゃったかな」
「この対価はヨークシンの支払いと相殺でいいよ」
「それだけかい?」
「なに、不満なわけ?」
「過去にご執心のイルミにとっては喉から手が出るほど欲しいんじゃないかと思ってさ、手に入れるの苦労したんだよ」
「喋りすぎ。次があれば半額でやる。それでいいだろ」
「ボクは過去なんて興味ないからね。本当は未来のキミにデートしてほしいんだけどなァ。それとも今ーーーボクが遊んであげようか」

そう言って、笑顔が一層禍々しいものへと変わった。ざわりと、神経を逆撫でされたような不快感。道化の皮が剥がれて、その下の獣が顔を出す。獲物を前にした、獣の顔だ。イルミの服を掴みながら目の前の男を強く睨む。しかしそれが逆効果だったらしく、睨めば睨むほど男の不気味な笑みは深まるばかりだった。

「ヒソカ。殺されたいの?」
「冗談だよ。大切なものは沢山あった方がいい。そうだろ?」

軽く殺気を出す不機嫌なイルミと、さっきの禍々しさを即座におさめて、また道化へと戻ったヒソカと呼ばれる男。顔に貼り付けた笑顔には温度がなく、一言で表すならば酷薄、といった言葉が近いだろう。警戒する私に向かって、ヒソカは切れ長の目を細めて笑ってみせた。

「キミがどう実るか楽しみだね」

またね、眠り姫。そう言葉を残してヒソカが消えた。私が感じ取れる限りではあるが、気配すらも瞬時に消えていた。気配の扱いだけで自分より何倍も強い人間だということがわかる。悔しいけれど、今の自分では殺すどころか手合わせで勝つことすら不可能だろう。ゾルディック家の人間でもないのに、こんなに強い人間がいるのか。

「イルミ、まさか友達なわけないよね?」
「気色悪いこと言わないでもらえる?」
「はは、だよね」

双子とはいえ人間関係に口出すつもりはないけれど、もしそうだったら友達は選べと説得するところだった。明らかにあの男は、イルミを狙ってる風だったから。
それよりも、先程の会話から察するにこの時代に私を呼んだのは兄であるイルミだ。どういう方法か見当もつかないが、それに協力したのがヒソカと呼ばれる男なのだろう。なぜ私を未来に連れてきたのか、それを確かめるべく口を開こうとした時だった。

「ほら。クル、おいで」

イルミが腰を下ろし、私に向けて腕を広げる。おいでという言葉とともに広げられた腕は逞しく鍛えられており、その成長を実感させられる。おいでなんて言われて素直に胸に飛び込んでいけるほど幼く、無垢でもなかった。さらにノースリーブの服だったものだから、その腕に抱きかかえるのだ思うとなおさら恥ずかしい。

「で、でも」
「家にでもいたのかな。裸足で歩いたら汚れるだろ?」

そんな私の葛藤を知ってか知らずか、躊躇っているのを見てまどろっこしく思ったであろうイルミは無言で私を抱え上げ、そのままお姫様抱っこのような体勢で歩き出す。急いでいるのか結構早足なものだから抗議の声すら上げることができず、湧き上がる恥ずかしさを堪えながら必死で捕まった。

「ど、どこいくの?!」
「オレの部屋」
「なんで?!!」
「母さんと弟達のおもちゃになりたいなら止めないけど」
「よろしくお願いします」

オレの部屋、ということは自宅付近なのだろうか。よく見れば見覚えのある景色のような気がする。屋敷に行けるということは両親や大きくなったミルキの顔も見れるのかもしれない。ワクワクしながら森を抜ければ、今と変わらない試しの門が目に入る。先ほどの場所とは目と鼻の先だったようだ。私が大人しくなったのを見たイルミは、両腕から片腕に抱き変える。あまりに軽々と私を運ぶものだから、お人形にでもなったような気分だった。そのまま空いた手で我が家の門を開けるイルミに隠れ、守衛室を覗き見る。一人の守衛が口をぽかんと開け、驚愕の表情でこちらを見ていた。少し歳をとった姿だけれど、あれはゼブロだろう。本当に未来に来たのだと気を取られていたら、イルミが何番の門まで開けたか確認するのを怠ってしまっていた。門を開けてすぐにいたミケを撫でて(匂いを覚えててくれて助かった)、無言で先を急ぐイルミを見る。聞きたいことはたくさんあったけれど、なんとなくイルミの様子から質問するのを憚られるような雰囲気を感じてしまうのだ。口を噤んだまま、イルミの顔を見るしかなかった。
ーーーめちゃくちゃに顔がいいな。私がこの世で目覚めた時の直感は間違ってなかった。目元や顔立ちは変わってないけれど、グッと大人びた顔つきに長い髪がよく似合ってるし、前髪が分けられてるから端正な顔立ちがよく見える。私を抱く筋肉質な腕や、すらりとした長い脚も本当に惚れ惚れするくらいだ。ずっと眺めていれば流石のイルミも気になったのだろう。早足の速度を変えることなく、顔をこちらに向けてくれた。

「仕事着ってことはこれから仕事?」
「ううん、終わって帰ってたとこ」
「へー。おかえり」
「ただい、ま!?」

成長したイルミの姿に惚れ惚れして気を抜いていたせいで、迫りくるその端正な顔を避けることができなかった。吸い込まれそうな黒曜石の瞳に、目を奪われてしまう。走っていて揺れているのにも関わらず、的確に唇が重なる。柔らかい感触が、ちゅ、と湿った音を立てて離れていった。挨拶のような、短く優しい触れ合いだった。

「な、な、なに?!!」
「なに?」
「なんで?!!?!」
「今オレが聞いてるんだけど」
「なんでキスしたの?!」

今でもじゅうぶん美少年だが、美形に育った青年のイルミにキスなんてされてしまえば取り乱すのも当然だ。それなのにイルミは平然としていて、一体何か問題でもあるのかとでもいいたげな表情をしている。まじまじと顔を見られると嫌でも唇に目がいってしまって、先ほどの感触を思い出しては爆発しそうな恥ずかしさに襲われてしまうのだ。

「まさか初めてだった?」
「そりゃ初めて……!じゃなかった」
「相手は?」
「絶対覚えてるでしょ」
「うん」

このやろう。一体何年後まで根に持つつもりだ。熱の引かない熱い頬を隠しながらじっとりと横目で見る。青年が幼女にキスする構図はちょっと犯罪くさいなと思ったけど今更だった。そもそも暗殺一家に一般的な倫理観が当てはまるわけがないのだ。表情はちっとも変わらないのに、目だけを細めたイルミは心底愉快そうに見える。何年越しだと思うけれど、以前私が仕掛けたキスの意趣返しのようにも取れた。

「昔のクルってこんなにかわいかったかな」
「ハァ?!」
「このくらい聞き分けがよかったらオレも苦労しなかったのに」

イルミの口からかわいいなんて言葉が出るほどに、未来の私はかなり好き勝手しているらしい。その仕返しとばかりに翻弄してくるイルミは随分と楽しげだ。大人の余裕があるからなのか、言い返すどころかされるがままになっている。イルミに抱えられたままどうしようもなく、降りることもできずに膨れていれば、怒った?だなんて頬を突いてくる。そうやって弄るのすら様になるしかっこいいからやめてほしい。
ピピピ、と何処からか甲高い電子音が聞こえてきた。歩みを止めたイルミは、ズボンのポケットから何やら薄っぺらい板のような機械を取り出す。どうやらこの板から音が鳴っていたらしく、その音はすぐに止まった。

「1年1分ならこんなところかな」

体感だと15分ーーーくらいだろうか。あのアラームのような音は、この時間の終わりが近いことを告げる音だったのだろう。

「かなり家の敷地には近付いたし、この辺でいいか」

ふと辺りを見渡せば、見覚えのある景色がそこに広がっていた。森林の中にある大きな池は、以前ミケとの追いかけっこの時に落下した所だ。池のほとりに近寄ったイルミは、昔から変わらずある大きくて平たい岩に腰掛けた。膝の上に乗るような耐性が恥ずかしくてすぐ隣に移動しようとしたけれど、腕に力を込められてしまい移動は許されなかった。あくまで膝の上に居なければいけないらしい。わたしの顔を見ていたイルミが、ぽつりと言葉を溢す。

「何か聞きたいことある?」
「聞きたいことだらけだけど聞いていいの?」
「いーよ。どうせクルの記憶は消す予定だし」

消える、ではないということはイルミの意思によって消されてしまうのだろう。勝手に連れてきておいて記憶を消すなんて、今に始まったことではないけれどなんとも身勝手な話だ。聞きたいことがありすぎて、一体何から聞けばいいのかわからない。制限時間も迫っているのだろうし、こうなれば手当たり次第質問するしかないか。

「もうすぐタイムリミットってこと?」
「うん」
「今って何歳なの?」
「24だったかな」
「イルミが私を未来に連れてきたんだよね?」
「そうだよ」
「それは、どうしてーーー」
「おやすみ、クルミ。早く起きるんだよ」

その言葉とともに私の目元に手がかざされた。まだ聞きたいことあったのに、と口に出したかったのに、額にちくりと痛みが走った驚きから、それは声にならなかった。じんわりとどこか暖かいような、むず痒いような違和感を覚える。そう感じたのも束の間、抗えないほどの眠気が襲いくる。待って、まだ何も聞けてないのに。
掠れゆく視界の中、翳されていた掌が退けられる。わたしを覗き込んでいるからか、黒く長い髪がカーテンのように私を覆っていた。その中の、イルミの瞳に映るやさしい色に驚いてしまう。それなのにどこかさびしそうな表情だったから、そんな顔をさせてしまう未来の自分は何をしているんだとぶん殴ってやりたい気分だった。
そんな顔しないで、そう言いたかったはずなのに、それが誰に向けた言葉なのかもわからなくなってしまった。

なんだか、とても長い夢を見ていた気がする。


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