鬱蒼と生い茂る木々を切り抜け、追い込まれているかのように動きながら森の中を進んでいく。もちろん出鱈目に進んでいるわけではなく、イルミが追ってくる気配を確認しながらも目的地を目指していた。こちらが本命の作戦といってもいい。誘い込まれているとも知らずに迫り来るイルミに気づかれないよう、笑みを深める。そろそろ頃合いだ。目印をつけておいた大木に引っ掛けた秘密兵器を回収する。小道具小細工上等だ。どんな手を使ってでも、今日は勝たないといけないのだから。

「クル」
「なに?!」

走りながら、背後から飛んでくる声に律儀に反応する。風を切る音や、葉や枝を踏みしめる音の中でもイルミの声はよく通って聞こえた。

「いい加減逃げるのやめたら?本当は無駄だってわかってるくせに」
「……イルミにはわかんないよ」
「ほんと、子供みたいな拗ね方するよね」

はあ、とわざとらしく吐かれた本日幾度目かの溜息。なんなんだこの前から一体。私が全部悪いような言い方をして、ずっとずっと我慢してるというのに。我儘な子供を諌めるような口調に、いままで抑えてきた箍が外れる音がした。

「じゃあ私の気持ちわかる!?自分の身体に起きた異変も満足にわからないまま、パパもママもみんな隠し事してるし!訓練もイルミと離されるし!イルミは嫌じゃないの?なんで隠し事してるの!?少しくらい教えてくれてもいいでしょ!」

荒い呼吸とともに、胸に溜め込んだ鬱憤をぶちまける。心臓が肉体的にも精神的にも暴れている。今ここで吐き出したことは紛れもない幼稚な本心だ。だからこそ疑問に思われることもなかっただろう。吐露した本音が、陽動であることに。利き手に巻きつけておいた糸状のものを引っ張るように、思い切り横に一閃する。瞬間、何かを察知したイルミが頭を傾けるも、白い頬に赤い線が走った。スパリと小気味よい音を立てて頬を切り裂いたのは、透明のワイヤーだった。兄の頬が切れても変わらず私とイルミは走り続けていて、その足を止めることはない。走りながらも周囲を見回したイルミは気がつくだろう。木々の間を縫うように、地面に敷き詰められた落ち葉に隠れるように、無数のワイヤーが張り巡らされていることに。銀色にきらめくワイヤーと透明なワイヤーを組み合わせて、この罠はできていた。

小さな小さな舌打ちが聞こえた気がする。イルミは基本的には思慮深く慎重だが、自分の思い通りにいかなかったりすると、腹を立てたりと短気になる点がある。対する私の長所といえば、イルミに比べて僅かに気が長いというか、忍耐力が多少勝るところ。体力面のスタミナ勝負に持ち込まれるとそれも分からなくなるけど。あとは、毒の耐性くらいだろうか。年々耐性のある毒の種類と範囲が広まってきていて、毒の耐性だけでいえばもしかしたら将来的には家族の誰にでも勝てるかもしれないくらいにはなってきている。ちょっと話は脱線したが、この長所をどうにかして使えないかと編み出したのが今回の作戦だ。通常ワイヤーと不可視のワイヤーを利用して、蜘蛛の巣のように張り巡らせたワイヤーで目的地へと誘い込む。もちろんこんな子供騙しで仕留められるとは思ってない。この仕掛けは、行動範囲を絞るためだけに利用する。それはイルミに対しては大きな意味を持つのだ。賢い兄であれば気づくだろう、自分の行動が制限されているということに。賢い兄は、自分が操作されているということが我慢ならないほどに腹立たしいはずだ。現にワイヤーを避ける動きが雑になっている。普段であればよくわからない罠には触れずに避けるというのが定石のはずなのに、手刀で払うなどしている。

動けない状態、制限された状態。仕掛けたのは私だが、行動範囲が制限されているのは、もちろんこちらも同じ。退路は既に断っている。ここでやるしかない。不可視のワイヤーが、煩雑そうに罠を払うイルミの片足を捉えた。ワイヤーが絡みつく自らの足に反射的に伸びる利き手を狙い、さらにワイヤーを絡みつかせる。片手へ絡んだその糸は、もう片方の手を絡めとり両手を奪う。両手と片足を捕らえられたイルミの瞳が、一瞬だけ動揺に揺れた。その瞬間、私の心が歓喜に打ち震える。あの兄の、あんな瞳を見ることができるなんて!高揚する気持ちを抑えきれず、笑みが零れる。身動きを奪っただけなのに、もうすでに勝ったような気さえした。

「降参、する?」
「随分頭がお花畑だね。これくらいでオレに勝った気でいるの?」

なおも減らず口を叩くイルミに近づき、なにも絡んでない片足に足払いをかける。当然のようにバランスを崩して、尻を地面に着いたイルミの姿に、なんとも言えない感情が湧く。ああ、本当は悔しくて仕方がないくせに、全然なんともないような表情をして。この兄の、なんと可愛らしいことか。兄の目線に合わせるようにしゃがみ込む。こちらから目線を逸らさないイルミの頬を、私の右手が撫でた。

「イル。いい子だからほら、動かないでね」

自分でも驚くほど甘ったるい声だった。甘える方ではなく、とびきり甘やかすような。私は声に負けないくらいの甘かな笑みを浮かべて、イルミの頬に両手を添えた。鼻先がぶつかるくらいに近づく。まっすぐな両目は私を射抜いたまま動かない。サラサラの髪の毛が頬を擽ぐる。薄くひらいた口から漏れる息を吸い込むように、きれいなその唇へと噛み付いた。突然の私の行動に、開いていた瞳がさらに大きく開かれる。おどろいてる。びっくりしてる。ちゅ、と水っぽい音が脳内に響いて、それは甘美な痺れを伴ってじわじわ広がっていく。やわやわと唇と唇を絡ませる。心が言いようのない衝動に突き動かされる。かわいいかわいい私のイルミ。目的を見失いかけるも、少し我に返った私は、口内の右側に仕込んだカプセルを噛み、唾液を介してイルミの口内に流し込んだ。驚いて強張る身体から、ごくんと、嚥下する音が聞こえる。最後に、名残惜しそうに唇を舐めたあと、唾液の糸を引きながらもその唇を解放した。げほ、と咳き込むイルミの乱れた髪を整えてあげる。さらさらの髪の毛を慈しむように撫でていれば、イルミの苛立ちの篭る視線が突き刺さった。

「喉焼けるんだけど、なにこれ?」
「んー、硫酸。皮膚の訓練はしてるけど粘膜はできないでしょ?」
「……いつもこんなことしてるの?」
「まさか、試すのは初めてだよ。それより早くギブアップしたほうがいいんじゃない?早めにお水飲んだほうがいいよ。かなり辛いでしょ」
「……ッ」
「ああ、わかってるとおもうけど、吐いちゃダメだよ?もっと痛めちゃうからね」

ーーーそんな風にしたのは私のくせにね。弾む声色で降参を勧める。忌々しげに言葉を吐く兄の姿に、愛おしさが込み上げた。自分でも恐ろしいくらいに気分が良い。余韻を楽しむように自分の唇を舐める。そんな私に反してイルミの顔色がみるみるうちに悪くなっていく。まあこれくらいなら問題ない、という範囲だ。ただの硫酸であればこうもいかなかっただろう。事前に仕込んだヒ素で弱った内臓を、希釈した腐食毒で破壊する、という戦法だった。私の見立てでは硫酸だけだと殆ど耐性のないイルミには効きすぎたり、逆に薄めすぎて効果がなかったりすると考えた。つまり、事前に仕込んだ亜砒酸は保険ということだ。眉間に皺を寄せながらも、こちらを見続けていたイルミの顔ががくりと下がる。この状態では降参も時間の問題だろうと、勝利を確信した。

「ーーーゲホッ!」
「……イルミ!?」

咳き込んだイルミの口から血が吐き出される。瞬時に頭に上っていた血が下降する。ああ、もしかして分量を間違えた?粘膜が傷つきすぎてしまった?ヒ素がだめだった?硫酸の希釈が足りなかった?もう勝負どころではない。時折痙攣しながら肩で呼吸するイルミに近寄り、急いで手足のワイヤーを外す。咳き込むイルミの背中を撫でながら、急いで予備の中和剤を飲ませて治療を受けさせなければと、そう思った時だった。

「ぬるいね。こんなんじゃ全然足りない」

辛そうに咳き込んでいたはずの、血に濡れた唇が、弧を描いた。呆気に取られた私の唇を、今度は血塗れの唇が奪う。驚いて突き放そうとした手の自由を片手で奪われる。もう片方の手で、首をうなじ側からつよく掴まれた。心臓が凍りつくような感覚に陥る。イルが私を殺すことはないと確信していても、散々刷り込まれた急所への恐れは簡単に拭えるものじゃない。心臓は暴れるように鼓動を刻んだ。指先で動脈を抑えられているせいで脳内の酸素が徐々に薄まっていく。慌てて口を開けば、ぬるりと生暖かい舌が侵入してきた。紛れもなく鉄臭い血の味と、熱く酸味のある化学の味が唾液と混じり合っている。舌が口内を探るような動きをするものだから、ぞわぞわと頭皮から全身へ鳥肌が広がる。もう手は拘束されていないというのに、抵抗ひとつできなかった。私の首を絞める手が緩まることはない。酸欠で手足が痺れているだけではなく、どうにも力が入らなかった。このままでは危険だと全身の感覚が訴えるのに、壊れてしまった頭ではそれを危険だと認識することができない。熱くてやわらかい舌が絡み合うのが気持ちいい。力が入らない。舌で上顎をなぞられて思わず喉を鳴らす。小さく漏れる声までも食べられてしまった。心の奥まで探られているようなその動きに夢中になってしまっていて、やめてほしいけど何故かやめてほしくなくて、はたらかない頭がきもちがよくて。顔中が熱くてしょうがない、眦から熱い液体が伝う。ぼんやりする頭がなにか考えようとするけれど、それすらも霧散して、舌の動きに翻弄されるばかりであった。

「あ、あった」

涙と酸欠で薄まる視界の中、口内に隠したはずの奪われた中和剤のカプセルが、赤い舌の上に乗っているのが見えた。濡れた舌がなんとも官能的で、酸素を取り込もうと喘ぐわたしに見せつけるように、いやらしくそれを飲み込むものだから、たまったものじゃない。やっぱりこの兄に勝てる気がしないのだと、薄れゆく視界の端でそう思った。


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