あの日、私が書庫で得たかった情報。完璧である兄の弱点。探していたのは兄が比較的耐性のない毒物である。常日頃から満遍なく服毒させられているのだろうけど、何か弱点が何かないものかと一縷の望みをかけ、日々摂取した成分が記載されている記録簿を洗っていれば、あったのだ。比較的少ないどころか、極端に使用されていない毒物が。

「兄貴に盛るとは感心じゃのう」

背後から突如声が飛んでくる。ひんやりとした厨房に響く声は、祖父のものだった。完璧に遮断された気配に気づくことができず、突然の声にどきりとする。この前のイルミ然り、なんだか最近不意打ちで声をかけられることが格段に増えた気がする。やっぱり鈍ってんのかなと少し落ち込みながらも手は休めず、誰にも言わないでね、なんて含みのあるじっとりとした目線を送る。それを受けて祖父はなんとも愉快そうに口端を上げ、ニヒルに笑ったのだ。

「じいちゃん……」
「安心せい。野暮なことはせん」

後ろ手に手を組みながら私の隣へと来た祖父を、出来るだけ気にしないよう思考の隅に追いやり作業を進める。私が手にしているのは、兄の名前が書かれているドリンクボトルだ。シルバー製のそれに、とある物質を投入し、しっかり溶け込むように振る。投入した物質は無色で無味無臭の粉末。三酸化二砒素、亜砒酸ーーー毒のイメージとしておなじみの、いわゆるヒ素と呼ばれるものだ。毒性が強く、昔からしばしば暗殺に用いられてきたそれは、体内に残留するうえ検出が容易なせいで、愚者の毒などと蔑称され、近年使用されることが少なくなってきた。今回は暗殺ではないし、盛ったことが後でバレても構わないので使用する。多少のお仕置きは覚悟の上だ。満遍なく撹拌したあと液体の匂いと、シルバー製の容器が黒ずんでないかを確認して蓋を閉めた。
ちなみに、毒といえば銀食器、銀が変色した場合は毒!みたいなイメージが何かとついているが、純粋なヒ素によって銀が変色することはない。変色するのは硫黄成分に反応した場合、この場合硫化ヒ素だ。ヒ素の多くは、地殻中の鉱物から抽出される。その過程で上手く精製できずに硫黄成分が残留すると銀は黒ずんでしまう、ということだ。黒ずみのないシルバーは、ゾルディック家の毒に拙悪なものは存在しないことの証明となった。

「それで、お叱りじゃないなら……わたしに何か用事?」
「おお、そうじゃった。今日の訓練はワシも見る筈じゃったが、生憎仕事が入りおってな」
「ってことは、今日は母さんだけなんだね」
「……ま、そうなるな」
「誰にも言わないでね?」
「わかっとるわい!疑り深いやつじゃの」

食い気味に言う祖父に、ごめんごめんと笑って謝りながら、痕跡を残さないよう後片付けをする。手を洗いながら、この鬱屈とした気分も流せたらいいのに、なんて思った。あの日からイルミと一切口をきいていない。今までの私なら、訓練の内容を先に知ってしまったらきっとイルミに真っ先に伝えていただろう。今回は情報を占有するうえに先回りして出し抜こうとしているのだ。ふと、祖父の服に垂れ下がる四字熟語が目に入る。弱肉強食ならぬ、弱死強生。その通りだ。わたしがイルミに勝つためには、ズルでもどんな手でもいいから使わなくちゃ。勝ってわたしの意思を貫き通すために。

「しかし、クルミが母さん呼びとはな。大きくなったもんじゃ」
「え?……ああ、ミルキも生まれてお姉ちゃんになったしね。いつまでもパパママって呼んでいられないから」
「ふむ、少し寂しいのう」
「じいちゃんの呼びかたは変わらないよ」

あはは、と乾いた笑いが不自然になってないよう祈るばかりだった。産まれてこのかた心の中で呼んでいた父さん、母さん呼びがうっかり出てしまうのも気が緩んでいる証拠だと、ますますヘコんでしまう。対決の時間まであと僅か、なんとか調子を取り戻さなければ。


▽▼▽

天気は爽やかな秋晴れ。時刻は両方の針が真上を向いた頃。気温は標高の高い山でもポカポカ陽気で、近頃にしては珍しく、寒さはなくむしろ暖かいくらい。麓から山頂に向かって、穏やかな風が吹いている。強風の多いククルーマウンテンだが、今日に限ってはそよ風レベル。対決日和とはまさにこのことだろう。例のボトルで水分補給をするイルミを確認しながら、いつもより念入りにストレッチを行う。今のところ怪しまれていない。違和感を覚えられない量に上手く調節できていたようだ。この日のために周到すぎるくらいに準備と予習練習を重ねてきた。なんせ相手はあのイルミだ。特段劣っているというわけではないのに、生まれた時から勝とうという気持ちすら湧かないくらい優秀な兄。一筋縄ではいかないのはわかりきっている。実際、敵対する兄を目の前にすると目が回るような、地面がぐらつくような感覚に陥る。自信のなさが現れるのだ。やっぱりイルミに敵いっこないと弱気な自分が大きくなってしまう前に、意識を切り替えて、虚勢に変える。張りぼての強気で構わない。交渉時には常に優位に見せること。優位に見せるには強気に。強気に見せるには自己暗示が大切なのだ。

「ね、取引しようか」
「……久々に話すことがそれ?」

大きな目に映った感情は呆れだった。ため息混じりに馬鹿にしたような目でやっぱり私が悪いような言い方をされて、ダブルでカチンとくる。それでもひたすら我慢と己に言い聞かせるさた。痙攣する口元を引き締めてヒクつく顔面に笑顔を貼り付ける。

「で、取引って?」
「簡単だよ。負けた方が勝った方の言うことひとつ、なんでも聞くってのはどう?」
「なんでも?」
「そ、なんでも」

今日ここまで勝ちを狙う目的は、この約束を取り付けるためだった。インナーミッションからもわかるように、この家は基本的に、己の主義主張を押し通したければ自力で勝ち取れという弱肉強食スタイルである。現状に不満があるならば力で解決するのみ。私はこの賭けに勝って、イルミの隠し事を暴いてやるのだ。

「珍しいね、クルがそんな提案するなんてさ」
「いいじゃん。だめ?」
「別にいいよ」
「じゃあ決まりね」

にっこりと、瞳を三日月のように細めて笑う。強気に、したたかに。虚勢とはいえ、つくりあげた獰猛な獣のような本性は表に出してはならない。笑顔からは何も悟らせてはいけない。監督する予定だった母は体調が優れないらしく自室で休んでいるため、この場にいるのは私たち兄妹と執事のみ。今回の作戦は、まあ色々と考えてはいるものの、奥の手はあまり母親に知られたくなかったものだから都合がいい。思いっきりやれそうだと、山風に吹かれて乾燥した唇を舐める。

「降参するか戦闘不能で負けね」
「身体操作は?」
「なしで」
「武器の使用」
「それもなし。手ぶらスタート」

イルミの無言を了承と取り、横目で審判の執事を見て合図を送る。なにも嘘は言ってない。武器の使用はなしだ。武器以外の使用に関しては言及しないだけで。

「吠え面かかないでね、おにいちゃん?」

私の挑発の笑みが、勝負開始の合図だった。まだ微動だにしない兄に注意を払いつつ、親指と人差し指を咥え、思いっきり空気を吐き出す。耳を劈くような高音が山一帯に響いた。空気を切り裂くその音にも動じない兄の背後から、猛烈な速度で大きな気配が迫り来る。私の指笛に反応し、木々を踏み潰すようにして現れたのは我が家の愛犬、ミケだった。イルミが横目で私を見た後、ミケの方を向く。陽の光を反射してギラギラと輝く、獲物を見つめる猟犬の目がイルミの瞳とかち合った。両者は睨み合ったまま動かない。イルミの匂いに反応して襲うように、何度も何度も訓練を繰り返したのだ。身動きを封じるだけでいい、はやく動いてくれと念じ続ける。

「ミケ」

イルミの声が静寂を破った。ビクリと大袈裟なくらいに大きな体が跳ねる。イルミのたった一声に、ミケは気圧されたのだ。睨み合っていた目線を素早く外し、そのまま来た道を帰っていくミケの姿を見て、私は叫ばずにはいられなかった。

「な、なんで?!」
「舐められてるんだよ」
「えっ」
「クルミは甘やかしてばっかで躾がなってないんだよね。どっちが上かを教え込んでやらないといけないのに」

わざとらしい溜息をひとつ吐いた後、嘲笑うように細められる黒い眼差し。甘やかしてばかりだと言われるのは初めてではない。いつだったかミルキに対することにも同じことを言われたことがある。兄の唇が、悪意を持って言葉を紡ぐ。

「飼い主に向いてないんだよ、お前」

こいつ、煽りよる。イルミはお兄ちゃん呼びが、実のところ好きではない。挑発のために私はわざと呼んだのだ。嘲りの笑みもさることながら、意趣返しのようにお前呼びする兄に思わず青筋が立ちそうになる。ここで挑発に乗って飛びかかるような真似はしてはいけない。今わたしがすべき行動は、この場から立ち去ることだ。逃走するも策のうち。イルミの注意が向いて逃げ道を塞がれる前に、いち早く森の中へと逃げ込む。追い詰められ逃げ出したような雰囲気を醸し出しながら。


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