声が聞こえる。

「親父!クルミは」
「落ち着けシルバ。五体満足で外傷はない。……が、精孔の損傷が酷いようでな。」
「精孔が?」
「幸い対応できるツテが近くにおったから処置は終わっとる」

切迫感のある声だった。ぼんやりする頭では上手く聞き取れず、なんとなく大切な話をしているのだろう、ということだけはわかる。それでも耳に馴染んだ家族の声を聞くと安心する。焦るような父の声とそれを宥める祖父の声を聴きながら、私は再び意識を手放した。


▽▼▽

忘れもしない初仕事を終えてから、私たちの生活は変化した。今まで訓練一辺倒だった生活に仕事が入るようになったのだ。とはいえ、仕事の頻度は月一回程度。毎日訓練をこなしながら、次の仕事の下調べや準備など事前に出来ることを片付けていく。一応休息日はあるものの、日々の座学や訓練の量が減るわけではないのでかなりのハードワークに毎日がてんてこまいだった。そんな生活にも少しずつ慣れてきた、ある昼下がりのこと。私はいつものように昼食後の休憩時間を利用してミルキと遊んでいた。

「ねね!」
「なあに?」
「う!」
「これはね、ぶーぶーだよ」
「ぶぶ?」
「そう!ミルえらい!天才だね〜!」

昼食後の休憩時間を利用して遊ぶ時が、ハードな生活の中での癒しの時間だ。首が座りハイハイができるようになったとはいえ、遊ぶといってもまだ子供部屋でしか遊べないけど。やわらかいカーペットの上で知育玩具や子供用のラジコンカーで楽しそうに遊ぶミルキに頬が緩みっぱなしの私。簡単な会話が出来る弟を天才だとめちゃくちゃに褒めれば、とろけるように笑うミルキのかわいさに奇声を発しながら破顔してしまう。わたしの弟があまりにもかわいい。かわいいうえに天才ときた。天才というのも、赤ちゃんの成長速度についてそんなに詳しいわけではないけれど、明らかにミルキの月齢と成長速度は合っていないからだ。もちろん、成長速度が著しく早い方に。思い返せばイルミも年齢に似つかわない子供だったなあと薄れつつある記憶を掘り起こす。あの時の私は精神が大人の状態のまま、違和感なく赤ちゃんに擬態できるよう必死にイルミの行動を真似ていた。大人が赤ん坊のふりをするのはいくら取り繕っても綻びが生まれるだろうと考えた私は、イルミの後を追う形でできることを増やしていった。おかげで怪しまれることなく成長することができたけど、そのイルミの成長速度の速さからしてみれば私も随分と子供らしくない子供だったんじゃないかと今になって思う。というか赤ちゃんのふりをしなくとも、怪しまれることすらなかったんじゃないかとも思う。何はともあれハイスペック一家で育つことができたのは幸いだった。ゾルディック家の遺伝子、恐るべし。今となっては懐かしい記憶を辿り、つい意識を遠くの方へと飛ばしていれば、私の手元にあったはずのラジコンのコントローラーがいつのまにか消えていた。突如手元から消えたそれは、ミルキの小さな両手に握られていた。

「だ!」
「えっ」

ミルキの元気な声とともに勢いよく床に叩きつけられた機械は、バキャリと悲惨な音を立てて見るも無惨な姿へと変貌した。行き先を操作するレバーが見事に変形している。ギュルギュルとモーターの激しく回転する音とともに、猛スピードで暴走を始めたラジコンカーが物凄い勢いで部屋から飛び出した。

「嘘!?ミルキ、ちょっと待っててね!」

きょとんとした顔のミルキに声をかけてから、私は暴走する玩具を追って部屋を出る。ハイハイができるようになったミルキが、部屋から出ないようにベビーサークルを閉じることも忘れずに。普段鍛え抜かれている自慢の脚力ならばすぐに追いつくだろうと思っていたが、走行音のする方へ向かって猛スピードで廊下を駆け抜けても、一向にラジコンカーの姿を捉えることができない。不思議に思いながらも追いかけ続けていると、走行音が止まり、代わりに空回るようなモーター音だけが聞こえるようになった。どこかで止まったのだろうと急いで音のする方向へ向かう。辿り着いたそこはエレベーターホールだった。ラジコンカーは扉の開いたエレベーターの中で、壁に向かって走り続けている。ようやく見つけたと安堵の息を吐きながらエレベーターの中へ駆け込んだ。壁に激突し続けるラジコンカーを回収しようとした、そんな時だった。何の予兆もなく、エレベーターの扉が動いた音がした。

「!?」

慌てて振り返るも既に扉は閉まりかけの状態で、すかさず開くボタンを押すが反応はなく、懸命に出ようとする私を嘲笑うかのように扉は閉ざされた。途端に光が一つもない暗闇に包まれる。おかしい。停電にでもならない限り、エレベーター内の照明が消えることはないはずなのに。不意打ちの訓練か何かかと思い、近辺の気配を探るも不気味なくらいに何もない。ひとまずこの暗闇に目を慣らそうと一度目を閉じ、再びそっと目を開ける。目を開けても相変わらず暗闇の風景が待ち受けているはずだったのに、眼前に広がる光景は俄かに信じがたいものだった。

「どこだろう、ここ……」

先ほどまでたしかにエレベーターの中に閉じ込められていたはずなのに、住宅街の道のど真ん中に私は立っていた。手にしていたはずのラジコンカーはいつのまにか消えている。橙色と藍色が混じり合う空を見て、どこか感傷的な、こころが締め付けられるような気分になる。不思議なことに、自宅から知らない土地に瞬時に移動したにも関わらず、当たり前のようにそれを受け入れ道を歩いてる自分がいた。行き先もわからないまま、ただひたすら歩みを進める。どのくらい歩いただろうか。私以外に誰もいない人気のない道だと思っていたが、いつのまにか一人の女が私の前を歩いていた。スーツ姿の女性だった。私はそれを見た瞬間、なぜだかはわからないけど、この人間を殺さなくてはと強く思った。そう思った次の瞬間には、身体が先に動いていた。内から湧き起こる殺害衝動に身を任せ、殺気も気配も何もかもを押し殺し、必要最小限の動きを手早く済ませる。背後から一瞬にして心臓を盗まれた女は悲鳴をあげるどころか私に気づくことすらなく、うつ伏せの状態でアスファルトの上に倒れた。溢れ出た血で赤く汚れる地面と、夕日に照らされ長く伸びた影をぼんやりと見つめる。返り血は一滴も浴びてないのに、夕焼けに染められたせいで全身血まみれになったみたいだった。



▽▼▽

「クルミ、起きて!遅刻するよ」

わたしの名前を呼ぶ声がする。覚醒を促すような大きな声だけど、優しくて暖かみのある声だ。声とともに、甘く香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。この匂いはお母さんの作る甘い卵焼きの香りだ。お腹すいたなあ、とぼんやりした頭が匂いに反応して空腹を訴える。ゆるゆると眠気で重たい目を開けて、体を覚醒させようと伸びをした。布団を名残惜しむ気持ちを押さえ込みベッドから降りて、いつものように部屋のカーテンを開ける。朝の光が眩しくて清々しい。小鳥の囀りを聞きながらリビングへと向かえば、いつも通りキッチンに立ち朝食の準備をするお母さんの後ろ姿が見えた。

「おはよう、お母さん」
「おはよう。今日お弁当いらないんだったよね?」
「うん、今日はいらないよ」

欠伸を噛み殺しきれずに答えると、大きな欠伸だとお母さんに笑われた。付けっ放しのテレビからは朝のニュースが流れている。少し耳を傾けると聞こえてくる話題は、この近所で起きた通り魔事件のことだった。

「ねえ、ここってクルミが通ってる道じゃない?」
「うわ、ほんとだ……こわっ」
「クルミも気をつけてよね、まだ犯人捕まってないみたいだし」

やだなあ怖いなあ、なんて配膳の手を止めてお母さんと一緒にニュースを見ていれば、見知った住宅地の路地から被害者の写真へと画面が変わる。その顔写真を見た瞬間、驚愕で瞳が見開く。眠気の残る頭が一瞬にして覚醒した。それどころか頭を殴られたような衝撃に、凍りついたようにその場から動けず、言葉すら発することができなかった。

「酷いことするわよねぇ」

通り魔事件の被害者としてテレビに映された女性は、信じ難いことにわたしがさっき殺したはずの人間だった。命を奪い倒れたあとの横顔を一瞬見ただけだけど、確実にこの女だ。いや、わたしが驚いたのは、それよりもーーー

「どうしたの?顔色悪いわよ」

わたしが殺した女は、前の"私"だ。

そのことがわかった瞬間、これが現実ではない、ということに気がついた。そうだ、この光景は前の"私"の日常だ。わたしの日常ではない。前のわたしはクルミという名前じゃなかったし、お母さんだってテレビに映る死亡したはずの娘を見てなんとも思わない。それどころかクルミの姿のわたしを娘として認識している。なんて気持ちの悪い夢なんだろう、と思ったところで一瞬にしてわたしの血の気が引いた。冷や汗がだらりと垂れ、唇が震える。足から力が抜けて崩れ落ちそうだった。
一体いつからだろうか。元の世界に帰りたいと思わなくなったのは。前の生活を、思い出すことすらなくなったのは。両親がお父さんとお母さんではなく、父さんと母さんになったのは。

いつからだろうか。
"私"の名前すら、思い出せなくなったのは。


「クルミ、気分悪いの?」

「あの部屋の神字は崩れとらんかった。クルが自分の足で行ったとしか考えられん」

「ねえ本当に大丈夫?クルミ?」

「もう3日も目を覚まさないのよ!どうしてこんなことに……!」

「クルミ?」


心配そうに覗き込むお母さんの声と、聞き馴染んだ誰かの声が混ざり合う。出鱈目の世界にヒビが入る。綻びが、亀裂が大きくなる。やめて、やめて。お母さんがその名前で呼ばないで。その名前で呼んでいいのはあなたじゃない。この世界で存在を許されるのはクルミじゃない。わたしの帰るべき場所は、ここじゃない。

「クル、はやく戻っておいで」

わたしの世界は破裂するように弾けた。崩壊を始めた空間の中で一人佇んでいると、割れたガラスみたいにバラバラだった世界が再構築される。そこは先刻と変わらない前の"私"の家。違う点はふたつ、お母さんがさっきよりも少し老けたような姿だったこと。もうひとつは、仏壇に"私"の写真があること。私の居場所は、そこにはもうないのだと悟った。不思議なことに、安堵するような、どこか胸のすくような気分になる自分がいる。自分とその母親の姿を見ているというのに、驚くほど無感情でいられた。そんな風に思うわたしを、薄情者だと軽蔑するだろうか。


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