私用船と呼ぶにはあまりに巨大な飛行船が、夜の冷たい空気を切り開きながら進む。この世界の移動手段に飛行機というものはなく、空を飛び交っている物体はほとんどが飛行船や大型の鳥類だ。生まれてから我が家の敷地から出たことがない私は本日人生初めての外出のため、これまた人生初の飛行船に乗っていた。ゾルディック家の私用船であるこの飛行船は見た目の無機質さからは裏腹に、一度中に入ればホテルのロビーと見紛うほどの豪華さで、音も揺れもなくシャワーも個室も完備されていてなんて快適なんだと感動する。個室のベッドだって簡易ベッドなどではなく、ちゃんとスプリングの効いたふわふわベッドだった。我が家の高品質ベッドで慣れている私の身体にとってとても嬉しいことである。
広すぎる船内をイルミと共に探索し満喫した頃には日も暮れベッドに潜り込む時間になる。すでに寝息をたてるイルミとは違い、私の目はギンギンに冴えていた。目を瞑れど思考の海に沈むばかりで一向に寝付けなかった私は、寝ている兄を起こさぬようにそっとベッドを抜け出す。自分たち二人に割り振られた個室を抜け出して、深夜のために薄暗い光に変わっているロビーへと移動する。途中すれ違った執事以外に広すぎる夜の船内で出会す人物はおらず、人気のないがらんとしたロビーのカーペットを踏みしめて、大きな窓の近くのソファーへと座る。ゆるやかに移動する飛行船から見える夜景を見つめながら、この船が空へと飛び立つ前、父と交わした約束の事を思い出していた。


▽▼▽

時刻は正午を回った頃、私とイルミは母親に連れられて、これまで通ったことのない通路の先のエレベーターに乗り込む。長い長いエレベーターで上がった先は飛行場と呼ばれる場所だった。飛行場は縦にも横にも広い巨大なシェルターという印象で、上を見上げれば天井が開くための切れ目があり、開閉式のドームの天井のような形をしている。無機質でだだっ広い空間には大小様々な飛行船がいくつもあり、中には気球型の飛行船もあった。初めて来た場所に興味が尽きないが、既に父さんが待っているのが見えて早足で近寄る。背後には同行するであろう5名の執事が控えていた。準備は済んだかという父の問いに私たち兄妹は頷く。

「一つ、忠告をしよう。今回の任務は常に執事が帯同する。一人になることはないと思うが執事から離れるなよ。ただ、どれだけ完璧に下調べをしたとしても全てが予想通りに行くことはない。ほとんどの場合、何処かに綻びが出る。俺たちは常に最悪の事態を想定して、最善の準備を行わなければならない」

淡々と並び建てられた言葉に生唾を飲む。本日乗るであろう飛行船へと向かう父の背中を追いかけながら、言葉の続きを待った。いつにも増して真剣な父に、これから行う仕事は決して訓練などではないのだという緊張感が高まっていく。

「勝てないと判断した相手からは逃げろ、というのはいつも言っているな。それの、明確な基準を示してやろう」

歩きながら私たちに話していた父さんが立ち止まり、こちらへと振り返る。瞬間、全身の細胞が逆立ち纏わりつくような熱を持つ気配に包まれ、己の全てが今すぐに逃げろと警告した。頭で考えるよりも先に、身体が反射的に後ろへと飛び上がる。とてつもない威圧感、圧迫感、あるいは殺気にも似た何か。それら全てを一緒くたに掻き混ぜて、濃縮したような気迫を放つ父に、旋律が身体を突き抜ける。紛れもない、死への恐怖だった。

「オーラと呼ばれる生命エネルギーだ。これを放つ人間には近寄るな。執事が対応できなければ一度身を隠して俺を呼ぶか、逃げられるならば俺の所に来い」

言葉を重ねるごとに父の、オーラと呼ばれるものは徐々に沈静化していく。以前じいちゃんに見せてもらったアレも、このオーラだったのだと悟った。父が私たちに向けたオーラに、祖父の時には感じなかった逃げ出したくなるような恐怖を感じたのは、祖父のオーラが人に向けた敵意や害意、殺意のあるものではなかったからだと気づく。ふと呼吸すら止まっていることに気づいたものの、肺が緊張して膨れることを拒んだせいで浅く犬のような呼吸になっていた。身体中に滲む脂汗と早鐘のように打つ心臓を落ち着かせねばと、一度全身に力を入れ脱力させる。ひんやりとした無機質な空気を、深く肺の中に押し込めた。

「今回の仕事は殱滅だ。特定の人間を狙う暗殺ではない。不測の事態があれば誰を殺しても構わん。殺るならば躊躇なく、確実に仕留めろ」

ゴキリと片手で骨を鳴らしながら言う父さんの横顔には、好戦的な笑みが浮かんでいた。息のできないほどの圧迫感から解放されたと思いきや、父の言葉は変わらず重くのしかかる。そのまま踵を返し再び飛行船へと歩みを進める父さんに置いて行かれぬよう、心なしか重い足取りでコンクリートの床を踏む。歩みを進める父の表面にうっすらと波打つような何かが漂って見えた。幾度か瞬きしてもそれが消えることはなかった。オーラか。イルミの呟いた小さなひとりごとが、ずっと耳に残っていた。




「眠れんのか?」
「……じいちゃん」

昼間の出来事に思いを馳せていた私の背後に、見知った気配がぽつり。生涯現役の標語を服に掲げたゼノじいちゃんだ。夜入浴後以降に見かけるじいちゃんはいつもは寝巻きなのだが、今日はいつもの昼間の服装だった。まだ50にもならない祖父は、家督こそ譲ったものの少しも老いや衰えを感じさせない。きっと生涯現役であろう高祖父にも祖父にも父にも勝てる気がしないなと乾いた笑みが溢れる。本来なら今日は父と私達のみで移動する予定だったのだが、じいちゃんの仕事場所と今回の目的地の方向が被ったため、途中まで同乗することになったのだ。眠れないのかという問いに、目が冴えちゃってと曖昧に笑いながら返せば、緊張してるのかと更に問われる。対面のソファーに腰掛ける祖父に返す言葉を探す。緊張。どうなのだろう。緊張してると言えば確かにしているけど、それが落ち着かない理由に繋がるとは思えなかった。的確な答えが出ないまま口ごもる私に、ゆっくりとじいちゃんが語りかける。

「この仕事は……そうさな、珍しくもない仕事じゃろ。殺すだけなら誰でも出来る」
「……誰でも、」
「ただ殺すだけなら、だがな」
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「もし……殺せなかったら、どうしよう」
「……」
「殺されそうになったり、もしくは誰かを殺さなきゃいけない時が来た時、わたし、殺せなかったら……この家に相応しくないって、取り残されたら」

私は、ただひたすらにそれが怖い。兄に置いていかれるのは構わない。すぐに追いかけるから。母から受ける拷問も耐えられる。それが愛だと知っているから。父の容赦のない訓練も楽しさすら感じる。手合わせは寡黙な父とのコミュニケーションだから。仮に私がもし人を殺せなければ。暗殺者として成長するイルミの背を追いかけることも叶わず、仕事が出来ないのならば拷問も訓練も何もかも必要ない。わたしの数年間の生きた時間が無に帰すどころか、生まれた意味すらも消えてしまって、きっと、死んだように生きるのだろう。そんな末路を想像して胃の中がせり上がるような気分に陥った。

「クルよ」
「……?」
「殺す事と死ぬ事、どちらが恐ろしいと思う?」
「死ぬ事、だと思う」
「そうじゃな。じゃあ死ぬ事と……仮に、この家から拒まれる事。どちらが恐ろしい?」
「それは……家から、拒まれる事」
「なら大丈夫じゃろ」
「……?」

何が大丈夫なんだろう。訳も分からず困惑の表情を浮かべていれば、立ち上がった祖父に頭をワシワシと撫でられる。

「恐怖は行動の原動力として強く働く。死への恐怖、生への渇望は、下手すれば殺意を鈍らせることになるからのォ。闘いはそもそも死の恐怖と隣り合わせじゃからな。その点、己の生死すら度外視できるような、死の恐怖さえも超える感情は強い」
「……ちゃんと、できるかな」
「クルはワシの孫じゃろ、シャキッとせい。ワシはなーんも心配しとらん」
「……うん」
「ま、こればっかりはあれこれ考えるより経験するのが一番じゃな。殺せぬ事が恐ろしいなんざ悩みにもならん。ただの杞憂に過ぎんぞ」
「ありがとう、じいちゃん」

なにを心配する事があるのだと笑う祖父に、ひとつ、私の胸の奥につかえていた何かがじんわりと溶けていく気がした。先ほどよりいくらか自信のある声で礼を言えば、フッと笑ったじいちゃんが反対側に向かい歩き出す。無言でそれを見ていれば、非常扉を手刀で破壊し始めた。あまりにも唐突な祖父の行動に、驚く言葉すらなくしてしまう。ベギバキと悲惨な音を立てて半壊した元非常扉から、外の空気を割く轟音が耳を劈いた。完璧に壊してしまうと扉の残骸を地上に落としてしまうためにおそらく加減されているであろうその一撃は、非常扉を半壊させるには十分すぎるほどの威力を持つ。呆然としたままの顔の私を見て片側の口角を上げた祖父は、ちゃんと寝るんじゃぞ!と言葉を残し、まるで小さな段差を飛び越えるような軽さで、深海のような夜へ溶けるように地上へと降りていった。いってらっしゃいませ、いつの間にかロビーの端っこで構えていたであろう執事が見送る。祖父によって壊された非常口は執事たちによってすぐに改修され、即座に元どおりになった。

「クルミお嬢様、ホットミルクをご用意しております。よろしければいかがでしょうか」
「うん、ありがとう」

安定剤も睡眠薬も効かない私に執事が用意してくれたのは、蜂蜜のたっぷり入ったホットミルクだった。改めてソファーに腰掛けながらちびちびと飲みやすい温かさのミルクを飲む。一口ずつ嚥下するごとに、ごちゃごちゃ考えていた考えてもどうしようもない感情も一緒に飲み込んだ。ホッとするような甘さが染み渡る。沈殿して甘さが少し濃くなった最後の一滴まで飲み干せば、不思議と頭がスッキリしてベッドに戻ろうという気になってきて。空のコップを執事に渡した後、部屋を出た時と同じように気配を殺し自室へと戻る道を進む。そっと音を立てないよう自室の扉を開ければ、いつのまにか目を覚ましていたイルミが扉の目の前にいて思わず息を呑んだ。

「ごめん、起こした?」
「いいよ。何してたの?」
「眠れなかったから飲み物飲んでただけだよ」

ふーん、そんな軽い返事を返しながら再び布団に戻るイルミを見て、私も同じように布団に潜り込む。おやすみを言おうと反対側ベッドの方を向こうとした私の眼前に広がるのは、またまた至近距離で私を覗き込むイルミだった。バッチリ合った大きな目からは、イルミが何を考えているのかを推し量ることはできない。毎度のことながら、気配を消して近づくのは本当に心臓に悪いのでやめてほしい。いつか本当に心臓が口から飛び出るかもしれない。

「一緒に寝てあげるよ」
「えっもう大丈夫だよ」
「オレが寝てあげるって言ってるんだけど」
「是非おねがいします」

答えを聞いて満足そうに私の手を引いて、自分のベッドへと引き連れるイルミ。最近傍若無人感が強くなってきたのは気のせいではない。というか一緒に寝るのなら、近くに来てくれていたイルミが私のベッドに入ればいいのでは?という言葉が浮かんだがもちろん飲み込んだ。触らぬイルミになんとやらだ。二人寝ても窮屈に感じないベッドって凄い。家のベッドほどではないが、それでも子供二人が横になるには有り余るほどの大きさだった。思えば、イルミとこうして一緒に眠るのはいつぶりだろうか。さらさらの黒髪からは自分と同じ匂いのシャンプーの香りがして、不思議と心が落ち着く。温い人肌の温度を感じながら目を閉じれば、先ほどまで眠れずにいたのが嘘のように、心地の良い微睡の中へと沈んでいった。


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