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■ 無上の愛

「・・・はぁ・・・。」
雨乾堂に響いた己の盛大な溜め息。
寝転がった畳の上も、そこから見える天井も、何もかもいつもと変わらないはずなのに、今はこの場所が虚ろに思えて仕方がない。


「どうしたんだい?」
友の問いにゆるりと視線を動かす。
その先にあるのは紙切れ。
先ほどから柱に背を預けていた友が動いて、その紙切れを拾い上げた。


「これって・・・。」
驚きに目を見開いた京楽に、内心自嘲する。
それは、先ほど彼女から突き付けられた三下り半。
夫婦関係を切りたいという彼女の意思表示だった。


「・・・何かあったのかい?」
「俺が、至らなかっただけだ。俺では彼奴の望むものをあげられないからな。俺は、自分がどう死ぬか解っている。この身を彼奴のためだけに使うことも出来ない。」
俺がどう思おうが、この胸の中に潜む霊王の腕が、それを許しはしない。


「でも、生半可な気持ちで彼女を受け入れたわけじゃあないだろう?」
「それはもちろん。今までも、これからも、彼奴を愛しく思う気持ちは変わらない。だが、彼奴はまだ若い。この先、俺なんかより余程良い男と巡り会うことが出来る。そう思ったら、止められなかった。そもそも止める権利など、俺にはない。俺では彼奴を幸せに出来ない。」


「この紙切れに書いてある内容が、彼女の本心だと?」
「そうだ。・・・泣いていた。苦しくて苦しくて仕方ないと。望むべきではなかったと後悔している、と。」
それは、彼女が初めて見せた慟哭だった。


「君は後悔しないのかい?」
「しないさ。彼奴のお陰で幸せな夢を見ることができた。それ以上は望まない。望むべきではない。望んでしまっては、互いに辛いだけだ。」
彼女が泣くよりは、その方がずっといい。
それで己が心の拠り所をなくすことになっても。


沈黙した浮竹を京楽はちらりと見て、それから手元の紙切れに視線を移す。
三行半。
線だけで書かれたその内容と、繊細な字で書かれた彼女の名前。
それから・・・彼女のものであろう、涙の跡。


このたった三本半の線を書くには、相当の苦悩があったらしい。
所々線が歪み、太さも一定ではない。
墨が濃くなっている部分は筆を止めた跡だろう。
それでも、迷いながらも最後まで止められることのなかった線。


線だけで簡略化されて書かれた三行半。
自分でさえ彼女の思いが見えるようなのだから、浮竹がこれを見てそれを感じ取れないわけもない。
浮竹はきっと、これを見ただけで、彼女の全てを理解してしまったのだろう。


だから、止められなかったのかな・・・。
彼の気持ちはよくわかる。
歳を取るほど大切なものが増えていって、それが嬉しい反面、足枷が増えていくような息苦しさに苛まれるのだ。


それも、大切なものほどそれが顕著で。
だからこそ、手離すという選択をしたのだ、この友は。
彼がどれほど彼女に愛情を向けていたか、京楽は目の当たりにしている。
年の差はあれど、互いに尊重し合い、互いを一番に想い合っていた二人だったのに。


「・・・彼奴の傍に行ってやってくれないか。彼奴が一人で泣いているのかと思うと辛い。お前が側にいてくれるならそれだけで安心できる。」
沈黙を破った友に逡巡して、京楽は外の気配を探る。
それを察してか、外の気配がそっと近づいてきた。


「七緒ちゃん、僕の代わりに行っておやり。」
すぐさま遠ざかった気配に内心苦笑して、浮竹に視線を戻す。
本当は自分が駆けつけてやりたいだろうに。
その腕の中で、安心させてやりたいだろうに。


「というわけで、僕はここに居るよ。君が弱音を吐ける相手は僕だけだろうからね。」
わざとおどけて言えば、浮竹が苦笑を漏らした気配がした。
「・・・いつも悪いな。」
「構わんさ。僕と浮竹の仲じゃないの。」


「お前が俺だったら、もっと上手くやっていたんだろうな・・・。」
「どうかな。彼女が選んだのは浮竹だからねぇ。彼女は最初から君しか見ていなかった。僕なんか一切眼中にないんだもの。何年経っても、何十年経っても。」
その彼女の一途さに浮竹がついに折れて、彼女の思いを受け入れたのはそう遠い昔の話ではない。


「俺だって、きっと、彼奴が最後だ。これから先、彼奴以上に大切な奴なんて現れないだろう。でもな、京楽。俺は、ずっと、大切な者を作るのが怖い。それが愛する人であれ、友であれ、怖いんだ・・・。」
腕を顔で覆った浮竹の声は弱々しい。


「それは僕も同じさ。背負うべきものも、守るべきものもありすぎて、心のままに動くのが怖い・・・。まったく、嫌になるよ。僕なんか浮草をやっているくらいが丁度いいのにさ。」
時折、全てを捨てて逃げてしまいたい気分になるのは、浮竹も同じだろう。


「・・・あの時、彼奴を受け入れたのは間違いだった。間違った選択だと解っていたのに、それでも、俺のような奴でも普通の幸せを手にすることが出来るのではないかと、夢を見てしまった。その結果がこれだ。一瞬の夢のために、彼奴を傷付けた。だが、一瞬でも、幸せだったんだ、俺は。彼奴と出会えて、幸せだったんだ。」


「彼女だって、全く幸せじゃなかったわけじゃないさ。君の傍に居る彼女はとても幸せそうだったもの。でも、迷って、悩んで、この選択をしたんだ。」
きっと、彼女は浮竹の苦悩に気付いていた。
それでも浮竹のほうから離縁を申し出ることはないだろうということも解っていたのだ。


「・・・歳を取ると、難儀だねぇ。昔の僕なら、君のお尻を叩いてでも彼女を追わせたのに。」
「俺だって、何の地位も力もない俺だったなら、すぐにでも彼奴を追いかけていた。それが出来ないこの身が恨めしい。若さもなく、全てを捨てて彼奴を選ぶことの出来ないこの身が。」


何故もっと早く出会えなかったのだろう。
そんなことすら思ってしまう。
・・・まったく、嫌になるねぇ。
内心でもう一度呟いて、窓の外を眺める。


見えた空は厚い雲に覆われている。
まるで僕らの気持ちを表しているかのよう。
下がり始めた気温は、もうすぐ雪が降ることを示している。
暫く眺めていると、ちらちらと空から雪が舞い降りてきた。


こんな日は、必ず彼女が火鉢をもってやって来ていた。
けれど、彼女はもうここには姿を見せないだろう。
それは彼女が浮竹へ捧げた無上の愛。
そして、それに応えた浮竹のそれもまた。



2020.02.05
暗いですね・・・。
浮竹さんが雨乾堂に転がって涙を堪えている様子が唐突に思い浮かびました。
互いに互いのことを思って、別れを選んだ二人。
ヒロインの名前が出てこないのは仕様です。
夢要素がなくてすみません・・・。


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