その日の漁はすでに終わっていたらしく、二人が船に乗るのは翌日からということになった。

二人を雇うと言った漁師の名前はガッサ。家では奥さんと弟夫婦が居酒屋を営んでいて、時化で海に出られない日などは暇を持て余した漁師がこの店へとやってくるそうだ。漁が終わった後の夜もまたしかり。つまり、ガッサの家は毎日大勢の漁師で賑わっている。


「お前たちにやってもらいたいのは俺の船の手伝いだけだ。けどまあ、時化なんかで海に出られない日は家の方も手伝ってもらうことになるだろうな」


そうしてガッサに連れられ、やってきたのは自宅兼酒場“バッコス”。開け放たれたドアの向こうからは割れるような笑い声が響いてきた。おかしい。陽はまだ海に浸かってすらいないのに。あまりの勢いに兄妹は思わず足を引く。


「漁師の朝は早いからな。自然と夜も早くなる。おーいセーラ!そこで拾ってきたから適当な前掛け出してやってくれ!」
「はいはい!あんたも毎度よくやるねえ」


セーラと呼ばれて出てきたのは、金色の髪を一つにまとめた背の高い女性。彼女の口振りからするに、どうやらこうしてガッサが仕事のない人間を連れて来ることはよくあるらしい。ぽんぽんと話が進むので戸惑ってしまったが、兄妹は慌てて自己紹介をした。


「は、はじめまして、セドといいます」
「私は妹のラナンラです。あの…これからお世話になってもいいんでしょうか…?」
「こらあんた!まーた何も説明しないで連れて来たのかい!?」
「うるせえ!これから説明するんだよ!」
「っとにしょーのない人だよ、もう。ああ、あんたたちは気にしないでいいんだからね?うちも丁度人手がほしかったところなんだからさ」


合間合間にガッサへと怒鳴り声を上げるセーラ。店の中は酔った漁師の声でとても賑やかだし、それくらいの声を出さないと聞こえないのかもしれない。しかし、ただでさえ耳の良い二人はすっかり恐縮してしまった。

働かせてもらうからには手抜きはせず、誠心誠意を尽くすつもりでいる。でも、右も左も分からないような自分たちではかえって迷惑をかけてしまうだけではないか。そんな不安が胸を過る。

セーラは、二人の表情が暗くなったことを見逃さなかった。少し身を屈め、子供にするように目線を合わせる。頭を撫でる手はガッサと違い、母親のように優しかった。


「大丈夫。慣れない内は失敗もするだろうし、あたしも怒鳴るかもしれない。でもみんな最初はそんなもんさ。あんたたちもちゃんとできるようになるから、そんな暗い顔はするんじゃないよ!」


そして最後に強く肩を叩いて豪快に笑う。きっと、今までにもいろんな人たちがこの店で働いていたのだろう。カウンターにいた夫婦らしき人たちも、分からないことがあったらなんでも聞いてくれと笑っている。俺たちに聞いてくれてもいいぞ、と客であるはずの男からも声が上がり、笑いと笑いが重なっていく。

なんとなく気持ちも軽くなって、二人はこれからよろしくお願いします、と大きな笑い声に負けないよう声を張り上げた。





…一方、その頃の王宮では。


「マスルール!ちょっと鼻貸してくれ!」
「なんスか、いきなり」


銀蠍塔で、いつものようにボーッとしていたマスルール。と、必死の形相で頭を下げるシャルルカンがそこにいた。いきなり現れて鼻を貸してくれとはどういうことだ。マスルールは怪訝な顔で先輩の旋毛を眺める。


「昨日お前が連れてきた奴!あいつらの匂いを探してほしいんだ!」
「他当たってください」
「てめえ後輩のくせに生意気だぞ!頼むから!今日中に見つけねえと魔法馬鹿に抹殺される…!!」
「ハア」
「心底どうでもよさそうな顔すんな!!」


セドとラナンラが王宮を去った後、ヤムライハは再び自室にこもって出てこなくなってしまった。ピスティからの助言もあり、とりあえず謝るだけ謝ろうとシャルルカンは彼女の部屋に向かったのだが…。そこで運悪く、不穏な独り言を聞いてしまった。

いつもあいつは、今度という今度は、思い出しただけで腹が立つ、ちょうど試したい魔法があったのよ、実験台にしてくれる、それでもって、


「“髪の毛一本たりともこの世に残してやるもんか”って言ってたんだよ…」
「自業自得じゃないんスか?」
「この薄情者!!」


相変わらず希薄な態度しか取らないマスルールの胸倉を掴み、涙目になりながら前後に揺さぶる。しかし肩にとまっていたパパゴラスに頭をつつかれ、シャルルカンは仕方なく手を離した。先輩としての威厳は微塵もない。

周りで鍛錬をしている武官たちも、二人のやり取りが気になって仕方なかった。シャルルカン様がまた何かやらかしたらしい。話が突飛すぎて把握できたのはその程度だったが。

そしてそこへ、自隊の鍛錬の様子を見にドラコーンがやって来た。


「シャルルカン。向こうまで声が聞こえていたぞ」
「ショーグン!?い、いやあ、アハハハ…お恥ずかしい…」


シャルルカンはドラコーンに気づき、慌てて居住まいを正す。もうこれ以上絡まれたくないと思ったのか、マスルールはドラコーンだけに一礼するとさっさと姿を消してしまった。待てと声を上げてもマスルールの背中は遠く彼方である。

頼みの綱に逃げられてしまったとシャルルカンは肩を落とす。…いや待て、たしか食客として匿われている女の子もファナリスだった。マスルールが最近鍛えてやっているあの子、モルジアナ。モルジアナなら俺の頼みも聞いてくれるかもしれない。そう考えて緑射塔へ向かおうとするも、ドラコーンがそれを呼び止める。


「ところでシャルルカン。もう支度は済んだのか?出港は明日の早朝だと思ったが」
「え?支度?なんのことでしたっけ?」
「煌帝国との交渉で王と共に向かうことになっただろう。まさか、忘れていたのか?」
「…あああああ!!!!」


そのまさか、である。昨日おとといくらいまでは辛うじて覚えていたが、あの兄妹の一件ですっかり忘れていた。もともと細かい支度は前日に済ませればいいと思っていたシャルルカン。支度などほとんどできていない。


「ショーグンありがとうございます!…ああああヤバイ、いよいよヤバイ、ヤムライハに消される…。いや待てこのまま国外逃亡できればあるいは…」


ぶつぶつと呟きながら獅紫塔へ向かったシャルルカン。彼が明日の朝日を拝めるかは、定かでない。



8/29

topboxNorth wind