翌朝、ジャーファルがセドとラナンラを起こしに行くと、部屋はすでにもぬけの殻となっていた。


(しまった…!!)


昨晩は二人に適当な客間を与えて各々の部屋に戻った。ジャーファルはそれとなく見張りを立てようとしたが、シンドバッドに必要ないと言って断られた。万が一を考えて、引き下がるべきではなかったと後悔する。

ご丁寧にもベッドはシーツまで綺麗に整えられていて、換気のためか窓が控えめに開かれている。“ありがとう”と鼻で笑われた気分だ。

…走らないように、とは思うが足は固い廊下を蹴るように動く。ベッドはすっかり冷えきっていたし、ファナリスの血が半分流れているのだから常人の足では到底追い付けない。こうなったら同じファナリスであるマスルールに頼むしかないだろう。

マスルールは、自室に籠ることを嫌う。大抵は外回りの任について、その仕事の合間に体を鍛えたりサボったりしている。今はモルジアナが食客として招かれているから、二人でどこかへ鍛練に出掛けているかもしれない。…ここから外へ出るなら、中庭を抜けて行った方が早い。


ジャーファルは次から次へと思考を切り替え、その都度最善と思われる策を選択していった。別に重大な情報を奪われたわけでもないし、誰かが傷つけられたわけでもない。つまりまだ、何も起こっていない。それでも知らない間に不穏の種が蒔かれていたかもしれないのだ。気が気ではなかった。


(とにかく、まずはマスルールを見つけなければ)


そうして、中庭を囲む渡り廊下に出た時だった。普段ならこの時間は静かなはずの中庭に、人の声が響いている。


「せいやっ!」
「よっと、脇が甘いぜ!」
「そっちこ、そ!」


見覚えのない人影が二つ。しかし服装はジャーファルが探していた(問題がある方の)二人のもの。顔まで用心深く覆っていた布は傍らに置かれ、色の暗い赤髪が陽に透けて光っている。

けれど、何より目を惹いたのは赤髪の下から伸びた大きな耳だった。


「よっし、朝の手合わせ終わり!ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」


ジャーファルが呆けている間に、二人の手合わせが終わったらしい。左の手のひらに右の拳を当て、互いに深く頭を下げる。実の兄妹である二人だが、武術においてはそれもあまり関係ないようだ。


ファナリスのことばかりが、頭を占めていた。しかし、彼らは昨日の晩に“アールヴ”という言葉を口にしている。北の民。ここシンドリアの書庫ならば、それに関する書物もあったかもしれない。あるいは博識なヤムライハが何かを知っているかも。

…と、そこまで考えてジャーファルは思考を止めた。どうにも彼らについて深読みしすぎるのは得策でない気がしたからだ。事実、セドたちは重大な秘密を持っているわけでも、特異な力を持っているわけでも、高尚な血を引いているわけでもなかったから、彼の判断はある意味で“得策”と言えた。


「あ、お兄ちゃん。昨日の人」
「え、うっそ。全然匂いしなかった」
「だってあの人、元々匂いがないもの」
「そうだったの?俺、椅子に座ってた人の匂いがキツくて他の人の匂いさっぱりわからなかったんだよなあ」


草の上に置かれていた布を手早く頭に巻き直し、二人はそんな会話をしながらジャーファルの方へとやって来る。本当に、匂いを基準にして人を判断しているらしい。

セドはジャーファルの側まで来るなり手を組んで深く頭を下げた。昨晩の無礼を詫びる旨、部屋を用意してもらったことに対する礼。ラナンラもそれに倣うように頭を下げ、二人とも昨日の取り乱しようとはえらい違いである。少なからずジャーファルは狼狽えた。


「昨晩は大変失礼いたしました。ご迷惑をおかけしておきながらあのような部屋まで用意していただき…」
「あの、どうかお気になさらず。それと朝食の用意ができたので、これからお部屋へお持ちしますね」
「何から何まで申し訳ありません…」
「いえ、どうせシンが勝手に言い出したことですから。それでは私はこれで」


会釈をひとつして、ジャーファルはもと来た道を戻って行った。その背中が曲がり角を曲がって見えなくなるまで見送って、セドは盛大に溜め息を吐く。


「はあああああ…。無理、イケメンオーラ無理。しかもラナンラに言われるまで本気で気づかなかった」
「私は廊下側向いてたから。でも匂いがしないとすぐには誰だか分からなくて困るね」
「それなんだよなあ。説明するのもめんどくさいし、怒られるのかなあ…」
「なんか偉い人っぽかったものね、昨日のファナリスさんたち」


ラナンラもまた、小さくではあるが溜め息を吐いた。ちなみに二人の頭には“怒られるの嫌だなあ”と“格差社会の縮図嫌だなあ”くらいしかない。要するに、この兄妹は深く考えるということが苦手なのだ。たまに見せる母親仕込みの真面目な顔でうっかり騙される者もいるが、本質は非常に子供染みている。


「よし、とりあえず朝ごはんにしよう!」
「そうしよう!」


あんたたちから武術を取ったら馬鹿しか残らない。とは実母の言である。



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