シンドリアの港に鳴り響く銅鑼の音。空気を震わせ、一隻の船の帰港を報せる。小さな島国に響くその音は王宮で働く者たちの耳にも届き、一人、また一人、やがては大きな流れとなって港へ押し寄せた。

ジャーファルら一行の帰還である。




「もおお!帰りが遅いから駄目だったのかと思ったじゃない…!!」
「ごめん、ヤムライハ…」
「私はみんな帰ってくるって信じてたけどねー」
「ふふ、ありがとうピスティ」


港へ降り立った兄妹を待ち受けていたのは八人将二人の熱烈な歓迎。ヤムライハはセドを、ピスティはラナンラを力の限り抱き締める。人混みを掻き分けて現れたガッサとセーラにも苦しいほどに抱き締められ、二人は嬉しそうに笑った。

他の囚われていた人たちも各々の家族、あるいは大切な人の元へと駆けていく。あるのは涙、そして笑顔。やはり、この国に悲しみの色は似合わない。頼りない視力でははっきりと見えないものの、人々のまとう温かな空気がどうにも嬉しいと二人は感じていた。


「お兄ちゃん。これを言ったら怒られるかもしれないけれど、私ね、」


無茶をして良かった。

聞こえるか聞こえないかの微かな声が、辺りのざわめきに飲まれて掻き消される。ヤムライハにも、ピスティにも、ガッサにもセーラにも聞こえなかった声。唯一その呟きを拾い上げたのはセドのみだ。


「それは俺とラナンラだけの秘密にしよう。ジャーファルさんに知れたらきっと一日説教でも足りないからな」
「うん。みんなには内緒ね」


彼はやんわりと笑んで妹の頭を撫でた。二人の様子に気付いたガッサたちが首を傾げたが、兄妹は“秘密”と口を揃えるだけだった。


兄妹たちがシンドリアに帰ってきたのはかれこれひと月振りほどになる。

普段以上に構い倒そうとするガッサに、普段以上に世話を焼きたがるセーラ。一週間の船旅の間にセドの体重はほとんど戻っていたが、溢れんばかりの嬉しさはたくさんのご馳走を作る方向へと向けられた。これはやはり職業柄なのだろう。ガッサはお祝いだなんだと触れ回りながら食材を集めているし、セーラは酒場でせっせと料理を作り始めている。


「もし良かったら八人将の皆さんもどうぞいらっしゃってくださいな」


港での別れ際、セーラは王宮へと戻る八人将たちにそう声をかけた。頷いたのは最早常連と化しているヤムライハとピスティ。特に反応のなかったマスルールも数の内に入れられた。

しかし、ジャーファルは留守中の政務などが気がかりだからと丁重に断りを入れ、モルジアナも友人に黙って出てきてしまったからと頭を下げる。残念だが仕方ない。二人とはまた次の機会に持ち越しとなった。


さて、酒場『バッコス』には陽も暮れぬ内から人が集まる。朝から晩まで同じ顔なんざ見たくねえ、とお互いに憎まれ口を叩き合う癖に、毎朝毎晩顔を突き合わせているのだから皮肉は最早彼らにとっての挨拶代わり。今日も今日とて飛び交う皮肉の中、中央のテーブルには兄妹と八人将の姿があった。


「…それで、ジャーファルさんを横抱きにして飛び出して行っちゃったんですよねえ」
「あはははは!ラナンラカッコイイ!男らしいぞ!」
「よくジャーファルさんが許したわね…」
「俺もまさかあんな格好で来るとは思わなかったよ」
「私もジャーファルさんもなりふり構ってられなかったから、仕方ないわ」
「…それ、誰にも言うなって、ジャーファルさんが」
「そうでしたっけ?」


ぐい、と果実ジュースの入ったジョッキを大きく煽る。

気にはなるが聞かれたくないだろうと、はじめはレームであったことも話題に出さずに飲んでいた。本人たちに直接聞けなくともマスルールがいる。まあ、きちんと分かるように話してくれる保証はなかったが。

しかし、ヤムライハとピスティの予想に反して兄妹は自らそのことを話題に出した。まずはレームに着いて早々船を沈めたこと、ジャーファルに何度も怒られたこと、呆れられたこと。何を思ったのか、マスルールが


「ジャーファルさんって軽いっすよね」


と言ったことで先の横抱きの話へと方向転換。芋づる式に過去の武勇伝語りも始まり、見た目以上にラナンラが男らしいことを知ったヤムライハは“男だったら惚れてたかもしれない”と酒で赤らんだ顔で零していた。

存外、真剣な声色だったのは酔いのせいだと思いたい。


「それにしても、まさかお母さんが助けに来るとは思わなかったなあ…」


笑いの波が一度引いて、つまみに手を伸ばしながら呟かれた言葉。こちらも頬が赤らんでおり、注意力は散漫。現にヤムライハとピスティが揃ってフォークを落としたことにも気付いていない。セドはそのまま、独り言のように言葉を続けた。


「俺もさすがにラナンラに殴られてたらまずかったかな。お母さんが止めてくれて良かったよ」
「…だって、すごく頭に来たんだもの」
「大丈夫。ちゃんと分かってるから」
「うん」


目を細めて、愛しそうに笑う顔は正に兄。頭を撫でられたラナンラも最初こそ拗ねたような顔をしていたが、分かっていると言われた辺りで目元を緩めた。

喧しい酒場には場違いなほど和やかな空気。しかし、それはすぐに壊されることとなる。


「えええええ!?ちょっと待って…!お母さんってどういうこと!?あなたたち、お母さんを探してシンドリアまで来たんじゃなかった!?」
「そうだよ!それでマスルールとモルジアナと間違えて…!説明!ちゃんと分かるように説明して!!」


身を乗り出したヤムライハが驚きの声と共にジョッキを机に叩き付ける。跳ね上がった食器類が派手な音を立てたせいでマスルールの眉間に皺が寄った。ピスティもまた追い打ちをかけるようにジョッキを叩きつけたものだから、その皺はより一層深いものになる。

何やら空気が変わったことを悟り、周りで飲んでいた他の客もなんだなんだと視線を寄越す。それとなく聞き耳を立てていた人間から順に話が伝わり、ざわめきは伝染。ついには血相を変えたセーラがカウンターから出てきた。


「あんたたち…!母親に会えたのかい!?」


そもそも、この国に留まっているのは母親に関する情報収集と資金調達のためだった。だから毎日のように商船を尋ねたし、今回のように奴隷狩りに遭うという隙にも繋がった。

素直におめでとうと言いたい。なのに“別れ”の二文字が心に靄をかける。それまで大きな笑い声をあげていたガッサも神妙な面持ちで兄妹の元へとやって来た。


「セド、ラナンラ。母親に会えたのか?」
「は、はい。レームで、危ないところを助けられました」
「私がお兄ちゃんを殴りそうになったのを止めてくれたんです」


ラナンラがセドを殴りそうになるという状況が具体的にどういったものなのかは分からないが、ガッサにはそれよりも気になることがあった。口に出してしまえば鎖になるかもしれない。思ったままを言葉にすることは憚られる。

少しの沈黙ののち、彼はできる限り表情を緩めて尋ねた。


「良かったじゃねえか、行方知れずだった母親にいきなり会えるたあ運が良い。…それで、お前らはいつ故郷へ帰るんだ?」


別れる前にぱあっと宴でもやらせてくれないか。

浮かべた笑みの中には淋しさが見え隠れしている。ほんの数ヶ月かもしれないが、ガッサとセーラにとって兄妹は自分の子供のような存在になっていた。それが本当の親元に帰ってしまう。止めることはできないと分かっているからこそ、彼は誤摩化すように笑った。

一方、兄妹と言えばきょとんとした表情でお互いの顔を見やっていた。二人の間に言葉はないものの、何かを確認し合っているようにも見える。


「…レームで、ずっと探していたお母さんに会えました。俺たちがこの国に来たのはお母さんを探すためだし、留まっていたのも同じ理由でした」
「だけどお母さんに会った後、自然と“シンドリアに帰ろう”という言葉が出たんです。そのことをお母さんに言われて、私たちもようやく気付きました」


本来なら帰るという言葉が当てはまるのは、ここより遥か北に位置するアールヴの村だけだった。一緒にいた時間はたしかに短いかもしれない。それでも兄妹はこの国を自分たちがいるべき場所、帰るべき場所と感じていたのだ。


「帰る場所はいくつあってもいい。今度は私から会いに行くからって、お母さんに言われて」
「だから私たち、まだこの国にいたいの」


ガッサとセーラは何と言っていいのか分からずただ呆然と立ち尽くしている。兄妹は顔を見合わせた後、照れくさそうに笑った。

目に涙を溜めて打ち震える者数名。酔いの影響が涙腺にまできているらしい。それまで一人タレ漬けの燻製をもしゃもしゃと食べていたマスルールはすっくと立ち上がり、突然セドとラナンラを抱き上げた。そして、二人がいたところにはガッサ、セーラ、ヤムライハ、ピスティ、他の客などなどがなだれ込むようにして積み重なる。


「え?え?」
「あの…これはどういう…」
「ちょっとマスルール!返しなさいよ!」
「そうだぞ!マスルールばっかりずるい!」
「いや、潰されそうだったんで」
「その子らはこの国にいる間うちの子だ!」
「マスルール様と言えど容赦しないよ!」
「はあ…」


なんやかんやと文句をつけられ、マスルールは心底面倒くさそうに返事をした。もう反論することすら面倒くさいようだ。肩に座らされた兄妹はいまいち状況が把握できず、ただ呆然とそのやり取りを眺める。


“おかえりなさい”

改めて皆から繰り返された言葉は、今まで以上の温かさを持って二人の胸に響いた。




『ファナリスの血』了



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