一先ず船へと戻った一行。ラナンラたちはセドの運ばれた部屋へ。ジャーファルはマスルールと部屋に戻り、クーフィーヤを外すしてぐったりと机に突っ伏した。


「はあ…本当に、一時はどうなるかと思いましたよ…。寿命が縮みました」
「お疲れさまっす」
「マスルールもここまで着いてきてくれてありがとう。やっぱり君がいると心強いね」


ジャーファルが人前で気を抜いた姿を見せるのは珍しいことだから、今回のことはそれだけ堪えたのだろう。何せ一度は奴隷として売られてしまったのだ。かつてのマスルールを思い出してか、ジャーファルは少しだけ苦い顔をした。

一方、そのマスルールと言えば椅子に腰掛け剣をいじり、相変わらずの表情の薄さがさらに彼の心情を読みにくくしている。しかしふと、何かに気づいたように顔を上げた。


「捕まえた奴らは牢に入れてあるんで」
「うん、ありがとう」
「アルテナさんはセドたちと一緒にいます」
「…うん、あとできちんとお礼を言わないとね」
「ジャーファルさん」
「うん?」
「少し寝てください」


公私の境が曖昧になっている。これはジャーファルの限界が近い証拠。場所も、用件も、必要以上に彼を疲弊させる内容だった。

ジャーファルは一度だけ顔を上げてマスルールを見ると、力ない笑みを浮かべて自分の腕を枕に目を閉じた。少し経ったら起こしてね、と寝言のように呟いていたが、マスルールがそれを聞き入れたかは定かでない。


できればすぐにでも出港したいとジャーファルは思っていた。マスルールも、少なからず同じことを思っていた。

もうじき闘技会が始まる。血と死に酔うあの空間はひどく恐ろしい。近付かなければ良いだけかもしれないが、きっとセドとラナンラの耳には地鳴りのような歓声が届いてしまう。二人を見て何も悟らないほど、モルジアナも鈍くない。

けれど、長い船旅の前に体を休めて置かなければならないとも思っていた。食料や飲水の確保も必要だ。それらを計算すると明日にでも出港できればいい方だろう。時間はかけられないが、疎かにすることもできない。最終的にマスルールは考えることが面倒になって溜め息をついた。


そうしてしばらくの間、椅子にもたれてぼうっとしていた。部屋の扉が叩かれる前、軋む床板と匂いで誰が来たのかを察し、ゆっくりと立ち上がる。


「すみません、セドさんが何か食べたいそうなんですが…」


軽いノックが二回。扉を開けたのはモルジアナ。用件を告げながらも、視線は机に突っ伏して眠るジャーファルへと向けられている。マスルールが珍しいかと聞けば、モルジアナは戸惑いながらも頷いた。


「ジャーファルさんの目の下の隈はずっと気になっていたんです。驚いたけれど…ホッとしました」
「もう少し寝かせる」
「はい。…あ、じゃあ何か掛けるものを持ってきます」
「ん」


足音を立てないよう、来たときよりもそっと扉を閉めるモルジアナを見送ってからマスルールも部屋を出た。給仕に頼んでセドが食べれそうなものを作ってもらうためだ。

ついでに自分も何か食べたいと思いながら向かった厨房では、すでに給仕たちが仕度を進めていた。皆さんお疲れでしょうから、胃の休まるものをお作りします、とは給仕長の言。シンドリアで優秀なのは何も武官や政務官たちだけではない。

マスルールは籠に入れられていた果物数個を左手に取り、右手にセド用のスープを持って厨房を出ようとした。出ようとした、というのは両手が塞がって扉が開けられなかったのだ。足で開けるのは行儀が悪いとジャーファルに躾けられていたし、果物を置くのもスープを置くのも嫌。結局、見かねた給仕がセドの部屋まで扉を開けについて回ってくれた。




「セド。もらってきた」
「マスルールさん!わざわざありがとうございます。あんまり食べてなかったのでお腹が空いてしまって…」
「まあ、売られる前は俺もそうだった」
「え…?」
「冷めない内に飲め」
「あ、はい!いただきます!」


セドは、シンドリアにいたときより痩せていた。薬で弱らされていたせいもある。だが一番の原因は満足に与えられなかった食事のせい。急に入れては胃が驚くし、セドなら軽いものから食べさせていけばすぐに回復するだろう。マスルールが剣奴だったことについては、今はまだ話す時でないと思っている。

セドが寝ているベッドには、先程のジャーファルと同じような格好で眠るラナンラがいた。こちらも兄が心配でずっと眠れていなかったから、ようやく会えて緊張の糸が切れてしまったらしい。

そしてその頭を撫でるアルテナは、正しく“母親”の顔をしていた。


「ありがとう。この子たちを助けてくれて」
「…別に俺は何もしてないっすよ」
「何もしていないのなら、君は今この場にいない」
「……」
「そちらで、この子たちも元気にやっていたようで安心した」


今の二人の状態を見て、そんなことを言ってのける母親はそう多くないだろう。ラナンラは心身ともに疲れて眠っているし、セドに至っては首や腕に鎖の痕が残っている。全てはシンドリアで起こったことが発端だ。

マスルールはアルテナの言葉に頷くことができず、果物を食べる手を止めて顔をしかめた。そこで毛布を届けに行ったモルジアナが戻ってきたのだが、マスルールの様子を見て戸惑ったように首を傾げている。母親はただ、目を見れば分かるとだけ言って話を終わらせた。

セドも、ラナンラも、マスルールもモルジアナもジャーファルも、シンドリアからやってきた他の人たちも。誰も彼もが目に優しい色を宿している。彼らは拐われたことばかりを気にしているが、アルテナにとっては助けに来たという事実の方が、むしろそれだけが大事。助かった二人に平手を打つような母親だ。今更拐われたことを気にするはずもない。


「シンドリアは噂以上に良い国だな」


そう言って、アルテナはそっと微笑んだ。



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