「やめなさい、ラナンラ」


それは、低い女性の声だった。頭から目深に被られたマントのせいで顔は見えないが、ラナンラは呆然としたまま、拳をゆっくりと解いていく。いつ、どこから現れたのか。背の高いこの女性はラナンラが拳を下ろしたのを確認すると、わずかに口の端を持ち上げてプロキシモの方へと体の向きを変えた。


「時に興行師よ。過去にファナリスを見たことは?」
「…昔、そこの闘技場で子供を見た」


それは恐らくマスルールのことだろうと、ジャーファルはアタリをつける。本当なら突然現れたこの女性が何者なのか探りを入れたいが、あれだけ取り乱していたラナンラが平静を取り戻し、じっと事の成り行きを見守っているのだ。このまま様子見した方が良いと判断した。


「時に奴隷商人よ。過去にファナリスを見たことは?」
「…今、ここにいるじゃありませんか」
「そうか、お前はファナリスを見たことがないんだな」
「は?」


回りくどい言葉に、奴隷商人の片眉が跳ねる。しかし、女はお前との話は済んだと言わんばかりに男の存在を無視した。再びプロキシモに向けられた体。なぜか、周りにいる誰もが声ひとつ上げられなかった。


「いいことを教えよう。お前が買ったのはファナリスではない」
「なっ、人の商売にケチをつける気か!?」
「…根拠はなんだ」
「おい、プロキシモの旦那まで…こんな訳の分からない女の言うことを聞くって言うのか…!」
「お前は少し黙れ。…さあ、話を続けてくれ」


喚く奴隷商人を抑え、プロキシモは続きを促す。女はマントの下から陽に焼けた腕を伸ばし、ひとつ、ふたつと指を立てた。


「ひとつ。ファナリスの身体的特徴は目元と赤い髪、そして強靭な肉体。耳の形は一般的なものと変わらない」

「ふたつ。ファナリスに薬を使ったところで、それくらいの鎖なら断ち切れる」

「みっつ。それは、」


目深に被ったマントが投げ捨てられる。現れたのは赤い髪、特徴的な目元。その場にいた誰もが、息を飲んだ。


「私の子供だ」


奴隷商人が何かを言う前に、女は距離を詰めてその首を掴み上げる。彼女はセドとラナンラの母だった。…つまり、純粋なファナリス。彼女ほどの力があればいくらでもこの状況を打破できるだろうが、それでは意味がない。力尽くでやってしまってはラナンラがシンドリアを想って耐えた意味がなくなる。

もちろん、彼女はそのことをよく分かっていた。


「この子たちは目が悪い。私に比べれば身体能力も劣る。それをファナリスと言っていくらで売った?」
「ぐ、う、」
「ファナリスでないのなら到底釣り合わん額を払わされたな。取引は不成立だ」
「だそうだ、奴隷商人よ」


掴み上げていた手を離すと、男は地べたに這いつくばって何度も咳き込んだ。言葉を重ねようにも喉から入り込む空気が邪魔をする。

そうこうしている間に、セドたちの母と名乗りでた彼女は見世物小屋の奥から袋詰めにされた金を運び出してきた。どうやらあれがプロキシモの金らしい。

さあ、呆気に取られている場合ではない。取引は不成立。セドは興行師の手に渡らず、奴隷商人の元に留まった。ここならば、法の手は届く。


「あなたにはそれ相応の罰を与え、罪を償っていただきましょう」


もう、男にこの場から逃げる気力は残されていなかった。





「あんたたち、歯ぁ食いしばりなさい」


ばちーん、と何かが爆ぜるような乾いた音が港に響く。その場にうずくまるのはセドとラナンラ。セドに至っては体の痺れが抜けきっていないのだが、それでも彼らの母は容赦なく平手を打った。

彼女は、セドたちの予想通り生まれ故郷へ里帰りをしていた。二月が過ぎ、そろそろ帰ろうかとレームの街を迂回していたところ、ファナリスが競りに出されるという噂を聞きつけた。更に特徴を聞いてまさかと思い、引き返してみればこのザマ。

力のある子供たちだ。無理矢理誘拐されたという可能性は低い。どうせしょうもない手に引っかかって騙されたのだろうとカマをかければ、二人は分かりやすいほどに肩を強張らせた。そして、先の平手に至る。


「うちの子供たちがご迷惑をおかけしてすみません」
「そ、そんな…!元はと言えばこちらに落ち度があったからで…」
「プロキシモが頭のキレる男で良かった。馬鹿ならこうはいかない」


ジャーファルの話を聞いているのかいないのか、彼女はファナリスらしい表情の薄い顔で話を続ける。曰く、あの興行師はシンドリアと聞いて後ろに控えるシンドバッドを恐れたのだろう、と。以前に闘技場でマスルールを見たようなことを言っていたし、シンドバッドとの一件も聞き及んでいるはず。何をするか分からない男は敵に回さないに限る。

しかし、それはそうとあまりに慌ただしい話の流れにいろいろなものを置き去りにしてしまった。登場が登場だったため、自己紹介すら済ませていない。


「ああ、申し遅れました。私はジャーファルと申します。シンドリア国にて、政務官を務めております」
「失礼。私はセドとラナンラの母、名はアルテナ。此度のこと、礼を言う」
「あの…ジャーファルさん、本当にありがとうございました」
「頑張ったラナンラのお陰です。こちらこそ、ありがとう」


毅然と振る舞うアルテナの後ろから、左の頬を腫らしたラナンラが頭を下げる。ジャーファルは反射的に謝りたくなったが、それを言葉にしたらまた二人の頬に平手が入りそうな気がしたのでやめた。恐らくその予想は当たっている。

ラナンラと同じく左頬を腫らしたセドは治療のためにとシンドリアの船に担ぎ込まれた。船で待っていたマスルールとモルジアナはセドの帰還に驚き、喜び、妙に腫れた左頬に首を傾げる。そして事情を聞こうと船から降りて来たところで、二人に気付いたラナンラが嬉しそうに駆け寄った。


「マスルールさん!それにモルジアナも!」
「無事…ではないのか」
「セドさんも左頬が腫れていたけれど…」
「あ、これはお母さんが」
「「お母さん?」」


苦笑しながら、腫れていない方の頬を掻く。名前を出されたアルテナはマスルールとモルジアナにも頭を下げた。自分たちよりずっと年上の、ファナリスの女性。二人が思わず“母”を重ねてしまったのは仕方のないことだろう。


「故郷以外でファナリスの血を引く者がこんなに集まるとは」
「…どーも」
「あ、はじめまして。モルジアナと言います…」
「すみません。こちらは私と同じくシンドバッド王に仕えるマスルールです」
「二人ともファナリスで、私とお兄ちゃんよりずっと強いの」


見れば分かる、とアルテナは無表情のまま頷いた。何と言うか、見た目はよく似ているのだが、中身までとはいかないらしい。セドもラナンラも表情は豊かな方だし、言葉数も多い。性格云々は父親に似たのだろうか。

何がともあれ、兄の奪還に成功したラナンラは始終嬉しそうに笑っていた。



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