「くそったれ!!」


先ほどとはまた別の塀を壊して、ラナンラは袖で乱暴に涙を拭った。泣いて何かが変わるわけでもない。ここで諦めるなんてことも、できるわけがない。


「ジャーファルさん!奴隷市場までの道案内をお願いします!!」
「はい!…って、ちょっと!え!?これで!?」
「時間がないので我慢してください!」


手についた土埃を払い、右手を膝裏に、左手を背中に添えて抱え上げる。横抱きにされたジャーファルは羞恥からためらったが、思い切ってラナンラの首に腕を回した。なりふり構っていられないのはお互いさまだ。


「マスルールとモルジアナはみんなを船へ連れて行ってください!」
「はい」
「分かりました」
「ラナンラはとりあえず上へ!すぐに闘技場が見えるはずです!」
「はい!」


家と家の間を蹴り上がって行くラナンラを見送って、マスルールとモルジアナは男たちを肩に担いだ。まずはこいつらを船で待機している武官たちに届けなくては。

…しかし、この運び方では目立つ。せっかく顔を隠していても、これでは自ら“ファナリスです”と触れ回っているようなものだ。助けた娘たちにもためらいがちに袖を引かれ、二人は渋々、男を下ろした。


今、闘技場に歓声はない。二日後に迫った闘技会に合わせて準備だけは進められているだろうが、それ以上の人の声はない。

あの場に立つ恐怖も、歓喜も、セドには知らぬままでいてほしい。それは無理な願いなのだろうか。決まりごとは面倒くさい。まるで鎖だ。時には鎖も必要だと、習いはしたが。

考え過ぎたのか、馴染みのある匂いが鼻先をかすめた気がした。





「もしお兄ちゃんがすでに売られていたら、ジャーファルさんたちはそのままシンドリアに帰ってください」


飛ぶように過ぎる景色の中で、ラナンラはそんなことを言った。このタイミングで言ったのはわざとだ。舌を噛みかねない今の状況ではまともな反論もできやしない。

ラナンラは、いざとなったら力尽くで取り返す気でいる。そうなれば政務官として対応しようとしているジャーファル、ひいてはシンドリア国にも迷惑をかけかねない。つまり、暗にその場で切り捨ててくれと言っていた。


「君は、どうして…!」
「舌噛みますよ」


どうして、こうも危険を顧みずに動くことができるのだろうか。セドが助けを待っているから?血の繋がった兄妹だから?アールヴの血が絆を重んじるから?

どれも理由としては合っている。けれど、答えには少しばかり届かない。全部終わったら聞いてみようか。そう考えて、ジャーファルは木の柵で囲まれた一画を指した。


「…あの柵で囲われた場所がそうです」
「分かりました」


妙な人だかりが柵の外まで広がっている。柵の内側には前座で使われるであろう動物、奴隷とおぼしきさまざまな人種の男たちがいた。しかし、そのどれにも集まった人間の目は向けられていない。

ラナンラは檻や柵、あるいは人ごみの肩や頭を足場にして柵の中央へと向かった。当然、何事かと群衆の目は二人に集まる。中央のお立ち台にいた男も二人に気づいたが、にたりと笑っただけで驚く素振りも見せなかった。


「さあさ皆さん!“プロキシモ”の名前をお忘れなく!明後日、このファナリスを皆さんの前に披露するのは他でもないこの男だよ!!」


浅く被ったクーフィーヤと、人懐っこそうな垂れ目。お立ち台の上で髭面の男の右手を掲げたそいつの顔。忘れるわけがない。この声だって、いっそ不気味なまでの高笑いに変わることを知っている。

ジャーファルを抱えたラナンラが男たちの前へと降り立つ。そこだけ人が捌けて、先ほどまでとは違ったざわめきが辺りを撫でた。


「お兄ちゃんを返して」
「お兄ちゃん、とは誰のことかな?」
「ファナリスの血を引く男よ。あなたがシンドリアから拐った」
「ふふふ、拐ったかどうかは分からないが、たしかにファナリスの男はいたなあ」


男はにたにたと下卑た笑みでラナンラを見ている。人ひとり抱えて飛び回っていたのだ。今さら顔を隠す必要はないとで言うように、ラナンラは顔を覆っていたターバンを投げ捨てた。

流れる赤い髪、特徴的な目元。集まっていた野次馬だけでなく、興行師たちの目にも嫌な光が灯った。これ以上はまずい。ジャーファルはラナンラを庇うように前へ出る。


「あなたには我が国の民を誘拐した疑いがあります」
「そうですか。けれど残念です。もう、あの男は“私の手元にはない”もので」
「…それは、どういう意味でしょうか」


分かっている。分かっているのに、聞かずにはいられない。表情には出さないが、血の気の引いていく音が聞こえた気がする。

男は薄ら寒いまでの笑みを引っ込めようとしないまま、左手に持った鎖を引いた。


「今はこうして薬で弱らせてありますが、二日後には皆さんに血もたぎるような興奮をお届けすることを約束しましょう!ファナリスの回復力を持ってすれば、明日にでも訓練所でお目にかかれるかもしれませんよ!」


倒れ込むようにして、セドが引きずり出された。赤い髪と特徴的な目元がよく見えるよう、男がさらに鎖を引き上げる。呻き声は虫の音ほどの弱さ。自分一人で立つ力もないのか、鎖が離されると呆気なく崩れ落ちた。


「お兄ちゃん…!」
「おっと、こいつはもうプロキシモの所有物だ。勝手なことをしてもらっては困るな」


セドは、すでに興行師に買われた後だった。身分は奴隷となり、ここからジャーファルが法的に介入することはできない。ラナンラはただ一言、“船へ”とだけ絞り出すので精一杯。

強く握り締めたせいで、爪が手の平の皮膚を裂いた。


(考えろ…考えろ考えろ考えろ!レームの法を、法の穴を、まだ何かあるはずだ…!)


ジャーファルは自分の意思を示すように、血の滴るラナンラの手を握った。男は下卑た笑みでラナンラを嗤う。

この男も、船から逃げたラナンラは死んだものと思っていた。しかし、残ったセドとファナリスの生命力を思い出し、その可能性を頭から消した。

だからファナリスの鼻を想定に入れて囮を使ったし、今もセドを引きずり出したことで安易に動けないようにしている。力はあるのに何もできないラナンラが、男には滑稽で仕方なかった。


「そこのお嬢さん。良ければ特等席のチケットはいかがですか?」
「…っ!!」


もう、我慢の限界だった。

ジャーファルの手を振り払い、周りの人間を突き飛ばし、裂けた皮膚にさらに爪を食い込ませてラナンラは拳を握る。プロキシモと呼ばれた興行師は反射的にお立ち台から飛び退いた。

しかし、件の男はセドを盾にするように持ち上げるだけでその場を動かない。余興のつもりなのだろうか。勢いの止まらないラナンラの拳がセドへと向かう。

うっすらと開かれたセドの目が、ラナンラを…そして、間に滑り込んできた人物の背中を捉えた。


「やめなさい、ラナンラ」



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