それから一週間ほど船を走らせて、ラナンラたちはようやくレームの地に辿り着いた。ジャーファルの言いつけ通り、三人が顔と髪を隠し、船を降りた…ところまでは良かったのだが。


「ラナンラがいない…!」


そう、早速ラナンラが姿を消してしまったのだ。船を降りるまでは少し険しい顔をしていたものの、冷静さを欠いた様子ではなかったのに。先走って単身奴隷市場へと乗り込んでしまったのか、あるいは匂いか声を見つけて飛び出して行ってしまったのか…。いずれにせよ、早く合流しなければラナンラの身が危ない。

このままマスルールとモルジアナまで見失っては大変だと、ジャーファルは咄嗟に二人の手を掴んだ。彼一人が焦っていたが、マスルールは冷静に、港に並んだ船を指差した。


「ラナンラなら、さっき…」


しかし、マスルールの言葉はそこで途切れた。何かが崩れるような轟音と舞い上がる水飛沫の音に遮られたからだ。音の中心では一艘の船が沈んでいく。港中の驚愕の眼差しを一身に受けて現れたのは、やはりと言うかなんと言うか…ラナンラだった。


「奴らの船を見つけたので、とりあえず沈めておきました」


平然とした口調。しかし、目には殺気が漲っている。ラナンラの頭にジャーファルの拳骨が落ちたのは言うまでもないだろう。


「もしまた勝手な行動をとったら船にくくりつけるからね」
「はい…すみません…」




ジャーファルがラナンラの手を取り、マスルールがモルジアナの手を取って歩く。これにははぐれないようにというのはもちろん、単独行動をさせないようにという理由もある。ラナンラは気恥ずかしいと思うより先に、耳と鼻に神経を集中させることで手一杯だったため、特に照れたりはしていなかった。少し寂しい気がしなくもない。

ジャーファルが後ろをついてくる二人を見ると、モルジアナが俯きがちに歩いていた。ターバンで隠しているせいで分からないが、おそらく顔は赤くなっているだろう。殺気すら感じるラナンラとは大違いだ。

…と、余計なことを考えるのはそこまでにして、ジャーファルは人の多い通りを歩きながら辺りに視線を走らせた。意識せずとも目に入る、赤レンガに大きく書かれた白字の広告で足を止める。


“今月12日、13日、14日に闘技会を開催いたします”


主催者の名前、闘技会の内容、それとおそらく人気剣闘士の名前。街のいたる所に書かれたそれに目を留める人は少ない。もう何カ月も前から書かれているのだろう。ところどころ文字が剥げかけている。


「ジャーファルさん、それは何と書いてあるんですか?」
「ん?…ああ、闘技会の開催日が書いてあるんだよ」
「そうだったんですか」


闘技会と聞いて、それまで全く興味を示さなかったラナンラがじっとその文字を見つめた。賢い子だから文字の読み書きも当然できるものだと思っていただけに、ジャーファルは少し驚いてしまった。純粋なアールヴの民は兄妹以上に目が悪いらしいから、教えられる者がいなかったのだろう。帰ったら二人に字を教えるのもいいかもしれない。

気が済んだらしいラナンラの手を引き、一行は更に街の奥へと進んでいく。



ファナリスを連れた奴隷商人を見ませんでしたか?

ああ、そんな奴を昨日見かけたよ。興行師に吹っかけるって息巻いてたっけなあ。

その男は今どこに?

知らねえよ。あんたもファナリスを買いたいのか?

…まあ、そんなところですかね。

やめとけやめとけ。えらく弱ってて使い物になりそうになかったぞ。

そう…ですか。ありがとうございました。




ファナリスを連れた奴隷商人を見ませんでしたか?

ほう、お前さんもあれを狙っているのかい?

…いえ、そういうわけでは。

ファナリスが入るのは久々だからね、あれはきっといい値がつく。何より闘技会が近い。興行師なら誰でも喉から手が出るほど欲しいだろうさ。

興行師はどの辺りにいますか?

そこら中にいるよ。奴隷商人が触れ回ってるらしくてね、よそからも買い付けに来てる連中がいるんだ。

…なるほど。ありがとうございました。



街中を歩きまわって情報を集めている間、ラナンラは一言も喋らなかった。喋れなかったと、言った方がいいかもしれない。休憩のために座り込んだ階段で、ラナンラを励まそうとモルジアナが話しかけている。

ジャーファルとマスルールは二人から少し離れた場所で、今日得た情報をまとめていた。


「どんな感じでした?」
「しばらくは奴隷市場にも出てきそうにありませんね。情報を回して、値を吊り上げようとしている」
「そもそも奴隷市場自体立たないんじゃないっスか?セドが出てくるまで誰も買わないでしょう」
「…ああ、それもそうか。冴えてるね、マスルール」
「ジャーファルさん、疲れてるでしょう」
「はは…少しだけ」


とっておきが出るまで、興行師たちはどんな奴隷も買おうとしないだろう。買う人間がいなければ市も立たない。少し考えれば想像できそうなことだったが、ジャーファルにはそこに考え至るほどの余裕がなかった。聞いて回る内にセドが無事でないことが分かったせいもある。

ジャーファル、ラナンラ、モルジアナ。誰も彼も疲れている。長い船旅を終えたばかりで街中を歩き回り、心労と疲労ばかりが増えたのだから当然だ。そんな三人を見て、マスルールが口を開いた。


「ラナンラ、モルジアナ」
「はい、何でしょうか?」
「今日はもう宿で休む。これ以上動いてもたぶん、隠れられるだけだから」
「じゃあ、私はもう少しこの辺りで…」
「ジャーファルさんも。あんまり顔覚えられると…動きにくくなるんじゃないっスか」
「うっ」


相手に嗅ぎ回っている人間がいると知られれば、当然、奴らは身を隠すはず。言い返す言葉が見つからず、ジャーファルは苦い顔をして呻いた。

誰かが無理をすれば、他の誰かがそれを諌める。この面子は意外とバランスが取れているのかもしれない。自分の隣に立つマスルール、ラナンラとその手を引くモルジアナを見て、なんとなくそんなことを思うジャーファルだった。



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