どこまでも続く水平線。眺めていても兄の捕まっている船が見えるわけではないと分かっているのに、目を離した隙に船が現れて、そのまま見逃してしまいそうで。険しい表情をターバンの下に隠し、ラナンラは水平線をじっと睨みつけていた。


(なんで、奴隷なんてあるんだろう)


今まで通りすぎた町にも、奴隷と呼ばれる人たちはいた。鎖で繋がれ、枷をはめられ、項垂れるようにして歩く姿に堪らず目を逸らした。同じ人間なのに、人間ではないかのように扱うことが理解できず、どうしようもなく怖かった。




「ラナンラ。あまり風に当たると冷えるよ」
「…そうですね。少し、中に入ります」
「これからどうするかも説明したいんだけど、後にしようか?」
「いえ、大丈夫です。お願いします」


顔色の優れないラナンラを気づかい、ジャーファルが中に入るよう促す。船室ではすでにマスルールとモルジアナが席に着いて待っており、やはりラナンラの顔色があまりよくないことを気にしていた。

連れて行ってくれと言ったのはラナンラ自身。ここで彼らの言葉に甘えるのを、彼女は良しとしない。


「私は、剣闘士がどういうものなのかを知りません。あいつらは…レームに着いたらまず、お兄ちゃんを剣闘士として売りに行くと話していました。剣闘士とは、闘技場とはいったい何でしょうか…?」


この言葉にジャーファルの表情が曇った。マスルールは相変わらずの無表情だが、三人を見比べるモルジアナにも不安の色が見てとれる。立ったままだったラナンラを椅子に座らせて、自分も席に着きながらジャーファルは答えた。


「私がラナンラとモルジアナを連れて行きたくなかった一番の理由です。強いて言うなれば“血の娯楽”とでも言ったところでしょうか」
「まあ、話を聞いて気分の良いものじゃあないっスね」
「怖い所なんですか?」
「恐ろしい所です」


剣闘士という言葉、血の娯楽という言葉。そこから浮かぶイメージに血の気が引いた。


「…剣闘士と言っても、いろんな奴がいた。罪人、奴隷、自由民。無理矢理連れて来られた奴、好きで剣闘士になった奴、歓声が忘れられずに戻ってきた奴。木剣をもらって引退した奴もいた」
「“いた”と言うのは…もしかして」
「マスルールはかつて、剣闘士だったんです。今は剣術は使えないけれどね」
「そうだったんですか…」


空気が重い。内容が内容なのだから当たり前だが、まだ船旅は始まったばかりなのにこの調子ではラナンラが体調を崩してしまう。もともと病み上がりみたいなものだし、余計な心労はかけたくない。けれど話さなければいけないことはまだ話せていない。

ジャーファルは咳払いをひとつして、厄介な要件はさっさと終わらせてしまおうと話を切り替えた。


「まず、レームに着いたら奴隷市場を探します。奴らもすぐにお金に替えてしまいたいはずですから」
「はい。そこで待ち伏せるんですね」
「そうです。ただし、暴力的解決ではなく法的解決で。彼らはシンドリア国民を拐った重罪人。絶対に逃してはなりません」
「手加減、できるかしら…」
「私も自信がありません」
「まあ、俺もそういうのは苦手なんで」
「はあ…。君たち三人は目立った行動は控えてくれればそれでいいです」


各々で握った拳を見つめるファナリス二人とハーフが一人。そもそも奴隷市場の真っ只中に彼らを連れて行くということ自体が危険極まりないのだが、それを理由にしたところで引き下がらないのは分かっている。本当に…どうしてこうも利かん坊が多いのか。

それとなくジャーファルが自分の胃を労っていると、ラナンラが難しい顔をして唸っているのが目についた。分からないことが多いのだろう。


「でも、剣闘士として売るのなら闘技場に売るんじゃないんですか?」
「買うのは興行師です。そして訓練所で剣闘士として育てる。強いものはそれなりに大事にされますが、弱いものは満足な装備も持たせてもらえぬまま野獣か、あるいは上位の剣闘士の前に差し出されることもあるとか」
「セドはそれなりに強いっスよ」
「ええ。それに、アールヴの民を知らなければ誰も彼をファナリスと疑わないでしょう。恐らく、何人もの興行師がセドにたかる」


一度手に入れてしまえば、金を積まれても手放すとは考えにくい。拐われた人たちが誰かの所有物になってしまえば手出しできなくなる。もちろん、一番いいのは市に連れて行かれる前に見つけることだが、闇雲に探して悪戯に時間を浪費してしまうことだけは避けたかった。それこそ、手遅れになってしまいかねない。

ラナンラは奴隷商人の顔を覚えていない。個人の匂いも鼻が麻痺していたせいで覚えていない。それでも、声だけはしっかりと覚えているから耳で探すことも可能だと提案した。


「ラナンラ、船に囚われていたのはどんな人たちですか?」
「私たち以外に男の人が一人、女の人が二人、小さな男の子が一人です。声も覚えています」
「分かりました。レームに着いたら奴隷市場と拐った連中の情報を集めつつ、ラナンラは囚われた人たちの声を探してください」
「セドさんの匂いなら、私も分かります」
「昨日拾ったとき…ラナンラから変な薬の臭いがしたのは」
「それ、たぶん私たちが嗅がされた臭いです。船にも染み付いてたので、あいつらにも臭いが移ってるかも」
「…鼻頼みですか。私は力になれそうもありませんね」


具体的…とは言い難いが、救出方法が決まってわずかながらラナンラの表情にも覇気が戻った。あとは三人が勝手な行動をしないよう見張るだけ、なのだが。

これが一番骨が折れそうだと、ジャーファルはこっそり溜め息をついた。



22/29

topboxNorth wind