窓も灯りもない暗い部屋。緩やかな揺れに合わせて船の軋む音が響く。

部屋にいるのは男女が合わせて四人。皆一様に足枷をつけられており、身じろぎするだけで鳴る鎖の音は嫌でも耳についた。

しかし、この中にセドの姿はない。セドは別の一室で手枷、足枷をつけられ、嗅がされた薬で意識も朦朧とした状態で置かれていたからだ。理由は当然、数時間前にラナンラが逃げたことにある。


「ラナンラちゃんもセドくんも無事だといいけれど…」
「セドは大丈夫だろう。あいつらだって売り物を駄目にしたりはしないはずだ」
「ちょっと、その言い方はないんじゃないの?」
「ぼくたちも、売られちゃうのかな…」


この部屋にいるのは若い娘が二人、男が一人と子供が一人。彼らはいわば人質のようなもの。もしまたセドが一人で逃げようとすれば彼らの命はない。もっとも、今のセドには指一本動かすことすら困難なのだが。


(ラナンラは、ちゃんとシンドリアに着いたかな)


目を閉じて思い浮かべるのは妹のことばかり。薬があるからと油断したのか、最初は普通の足枷しかつけられていなかった。それを壊して、ラナンラだけ逃げさせた。セドが残ったのは他の人たちを守るため。ラナンラを残さなかったのは“こうなること”を危惧したから。

大丈夫。自分に言い聞かせるように、セドは唇を噛み締めた。




そして一夜明けた今日。ラナンラは薄暗い空を視界の端にとらえながら身支度を整えていた。頭にはターバンを巻き、腰には王宮の備品であるシャムシールを二つ。支度を整えて部屋を出ると、そこには心配そうな顔をしたガッサとセーラがいた。


「ガッサさん、セーラさん。行ってきます」
「っとにもう…しょうのないお転婆だよ、ラナンラは。いいかい、ジャーファル様の言うことはよぉく聞くんだよ?」
「はい」
「船で風邪なんか引くなよ?あと怪我も絶対にするな。…ああ、本当は行ってほしくねえんだがなあ…」
「大丈夫です。必ずみんなを助けてきます」
「「あんたが大丈夫か心配なんだよお〜」」


おいおいと泣きつく二人に、ラナンラはどう返していいか分からず眉尻を下げた。みんなを助けて帰ってくると約束しているのにどうしてこんなに心配されるのか。それは“無事、何事もなく”とはいかないだろうと思ってのこと。セドもうそうだが、ラナンラも自己犠牲をいとわない性分。ふた月も一緒にいた二人にはラナンラが無茶をするのが目に見えていたのだ。

ラナンラはなんとか二人を宥めつつ王宮の門へと向かった。急な出立に王宮内はずっと慌ただしかったので、日も昇らぬ内から武官、文官、女官と、さまざまな人とすれ違う。どうかご無事で。言葉の形は違えど、誰もがその身を案ずる言葉を投げかけた。

そうして門前に着いて、目当ての人物の姿を探すためにぐるりと辺りを見渡す。緑のクーフィーヤはまだどこにもない。が、代わりに慣れ親しんだ匂いを見つけた。


「モルジアナ!」
「…ラナンラさん」
「もしかして、怒ってる?」
「はい。ジャーファルさんは何も教えてくれませんでしたから」


そこにいたのはムスッと膨れたモルジアナだった。どうやら置いてけぼりを食らいそうになったことに腹を立てているらしく、その膨れっ面はなかなかしぼんでくれない。

しばらくしてやって来たジャーファルは、モルジアナがいることに驚いていた。バルバッドの一件で彼女の強さを知っているとはいえ、今回ばかりは巻き込みたくなかったのに。連れていけないと言ったら言ったで、いつかと同じように彼女の足元の石板が踏み割られてしまったから、これはもう諦めるしかないだろう。


「二人とも、言うことを聞かないのはこれっきりにするように…」
「「はい」」


引率者の胃はいつだって痛い。


港へ向かう道中もガッサとセーラはしきりに二人の心配をしていた。何せ女の子が二人に増えたのだ。この子たちまで奴隷にされてしまうのではと不安で仕方ない。そこでマスルール様の妹君とはいえ…という言葉を聞いて、モルジアナが必死に否定していたのはまた別のお話。

港ではヒナホホが中心になって出港の準備を進めていた。彼は昨晩からほぼ働き通し。その顔にはさすがに疲れが滲んでいる。


「ヒナホホ殿!申し訳ありません、急に船の用意を頼んでしまって…」
「なーに、気にするな。民を案ずる気持ちは俺とて同じだからな。それと、船はいつでも出港できるぞ」
「ありがとうございます。…あの、マスルールはどうしてますか?」
「奴なら甲板で寝てるぞ」
「本当にここで寝てたんですか…」


くい、と親指で指された先は見えないが、そこで寝ているらしいマスルールを想像して少し力が抜けてしまった。珍しく遅刻しなかったんだから良しとしようじゃないか、とはヒナホホの言。最初からいればそりゃあ遅刻はしないでしょう、という言葉は飲み込んだ。普段から朝の衆議に間に合うよう大広間で寝られては困る。

ラナンラとモルジアナは最後にガッサとセーラに抱きしめられて、船へと乗り込んでいく。そしてその甲板にはパパゴラスに囲まれたマスルールが眠っていた。今度は本気で寝ているらしい。


マスルール、モルジアナ、そしてラナンラ。ファナリスの血を引く者が三人もいる。戦力としては申し分ないが、レームという土地柄、奴隷商人という相手柄、どう考えてもこの人選は間違っているとジャーファルは感じていた。


「レームに着いたら、三人とも顔を隠してください。髪も全部」
「どうしてですか?」
「ファナリスを三人も連れ歩いていたら余計なものまで釣れるから。それと、絶対に!私から離れないように」
「「はい」」
「マスルールにもあとでちゃんと言って聞かせないと…はあ…」


先行きは暗い。わずかに覗いた朝日だけが、やけに明るく船を照らしていた。



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