レーム帝国。その単語が出た瞬間、三人の顔色が変わった。


「レームって言ったら…マスルールは行けませんよね…?」
「そう、ですね。ヒナホホ殿かドラコーン将軍に代わっていただくしかないでしょう」
「んー。私としてはラナンラにも行ってほしくないかな」
「ラナンラには悪いけど、私も行かせたくないわ」


話の流れは分からないが、どうにも雲行きが怪しいことだけは理解した。ジャーファルの紐に絡めとられないよう、ヤムライハの魔法で縛られないよう、ピスティの泣き落としに騙されないよう、ラナンラは警戒して距離をとる。力みすぎた足元で、みしりと石板が音を立てた。

レーム帝国の剣闘場。それはかつてマスルールが剣奴として囚われていた場所。セドがそこへ連れて行かれたとしたら、それは十中八九剣奴として売るためだろう。


「ラナンラ」
「約束を違えるのなら、この宮殿ぶっ壊しますよ」
「まったく…。人の話はきちんと最後まで聞きなさい。誰も連れて行かないとは言ってないでしょう」
「…え?」
「ジャーファルさん!?」


ジャーファルの言葉に拍子抜けしてしまったラナンラ。対してヤムライハは思わず声を荒げた。これでは先ほどまでと立場が逆だ。

ラナンラはやはりまだ子供。戦う術を持っていてもその裏には常に脆さが潜んでいる。それは何がきっかけで崩れてしまうか分からない。この場合、自分が首を横に振っていたらためらいなくこの王宮を壊すだろうとジャーファルは判断した。力の有り余った子供の駄々は、一歩間違えれば双方の身を壊しかねない。

つまるところ、ジャーファルは大人だった。


「一度許可を出した以上、それを取り下げはしません」
「男に二言はなしというやつですね」
「…まあそういうことにしておきましょう。ただし、いくつか条件が」
「なんですか?」
「簡単なことです。でも絶対に守ると誓えないのなら、やっぱりラナンラは置いていくしかないけれどね」


ここまできたら、ヤムライハとピスティが口を挟む余地はない。

ジャーファルさんのことだから、危ない目にあわないような約束でしょうけど。ラナンラが守るかわかんないよね。うん。

そんな二人のひそひそ話は、もちろんラナンラには筒抜けだ。女にも二言はありませんと言い切られてしまった。


「…それで、条件とは」
「一つ。知らない人について行かないこと」
「は、はい」
「二つ。一人で無茶をしないこと」
「…はい」
「三つ。私の側を絶対に離れないこと」
「は、い?」


人差し指、中指、薬指。順に立てられた指を目で追って、薬指のあたりでラナンラは首を傾げた。疑問符つきの承諾だったが、ジャーファルはそれを是ととった。しかし、彼の側を離れないとはいったいどういうことか。


「あの、まさかジャーファルさんの側を離れないって…この国に残るということでは…」
「いいえ。私もレームに向かうという意味です」
「え!?ジャーファルさんも行っちゃうの!?」
「元はと言えば私のせいでもありますから」
「政務はどうするんですか!?」
「幸い、この国には優秀な方が多いので問題ないでしょう。頼みましたよ。ヤムライハ、ピスティ」


王不在の今、この国にとってジャーファルという存在はあまりにも大きい。彼一人で担っていた仕事の量も並ではないはずなのだが、どうしてこの人にはその自覚がないのか…。ヤムライハとピスティはそろって溜め息をついた。

王はいないし、スパルトスもいないし、シャルルカン…はまあ、いいとして。その上ジャーファルとヒナホホかドラコーンまでいなくなってしまうと考えると、二人の肩は嫌でも重たくなる。


「責任重大だわ…」
「がんばろうね、ヤム…」


残す側も残される側も大変なことに変わりはない。ここにきてようやく冷静さを取り戻したラナンラは、申し訳なくなって頭を下げた。わがままを聞いてあげるのは今回だけだからね、とジャーファルはしっかりと釘を刺すのを忘れない。


…さて、ここまでずっと寝ていたガッサ、セーラ、マスルールの三人だが、この内一人は適当なところから狸寝入りを続けている。理由は簡単、なんだか面倒臭そうだったから。


「マスルール。そろそろ起きたらどうですか?」
「話、決まったんスか」
「大方はね」


まったく君はと呆れられようとどこ吹く風。ジャーファル以外は彼の狸寝入りに気づいていなかったから、起きていたこと自体に驚いた。そしてどこから起きてたのという質問にラナンラが起きた辺りから、と返されれば誰だって怒る。

眠たそうに欠伸をこぼし、またマイペースにどこかへ立ち去ろうとするマスルール。与えられた部屋があるのだから自室で寝ればいいものを。毎朝彼を探す部下の身にもなってほしいものだ。


「寝るならちゃんと部屋に帰って寝てくださいね」
「いや、寝坊しそうなんで船で寝ます」
「船って…まさか君、」
「知ってる人間がいた方が、楽なんじゃないスか?」


暗に、自分もレームへ向かうと言っている。マスルールの過去を知らないラナンラはそれを素直に喜んだ。もともと懐いていたせいもあるし、ファナリスの彼が一緒なのは心強かったというのもある。

反対に、マスルールの過去を知っているジャーファルの表情は暗かった。思い出したくないことだってあるだろうに、とは思うのだが…。如何せん、マスルールの表情が乏しすぎて何を考えているのかよく分からなかった。


「…まあいいでしょう。明日の朝は早いですから、みなさんもう寝てください。ラナンラも、まだ薬が抜けきってないだろうから今はよく寝るように」
「はい」
「そんなこと言って、ジャーファルさんは寝ないで仕事するつもりでしょう?あとは私たちに任せて、少しでも体を休ませておいてください」
「ふふ、それではお言葉に甘えて」
「三人とも、早く帰ってきてね!」
「うん。お兄ちゃんたちを助けたらすぐに帰ってくる」


気丈に振舞っていても不安は消えない。けれど、言葉にしてしまえば胸の靄は嵩を増してしまう。ラナンラは大丈夫と自分に言い聞かせて、瞼の裏に兄の笑顔を想い描いた。



20/29

topboxNorth wind