「ほんっとうに心配したんだからああ!!」
「え?ヤムライハ…?」
「私もどーん!」


ラナンラが目を覚ましたのは夜中になってからだった。起きてすぐ泣き腫らしたヤムライハに抱き締められ、便乗したピスティにのしかかられる。自分の置かれた状況が分からないのか、ラナンラは二人を抱きとめながら目を白黒させた。


「あれ?私、船から飛び降りて…」
「飛び降りたんですか」
「はい」
「まったく、無茶をするんだから…」


ジャーファルが呆れて溜め息をつく。その後ろには壁にもたれて船を漕いでいるマスルールがいて、隣には同じく疲れて眠っているガッサとセーラがいた。ちなみにモルジアナはジャーファルに説得され、緑射塔に戻って休んでいる。

しかし、ラナンラはますます自分の置かれた状況が分からなくなった。

視覚と聴覚は平時と変わらない。嗅覚は…まだ、本調子ではない。妙な薬を嗅がされて、それから、


「海で浮いていたラナンラを、マスルールが助けてくれたんだよ」
「そう、でしたね。…起きたらお礼を言います」


暗い海の中、あの声に名前を呼ばれてひどく安心したのを思い出した。ラナンラはマスルールを見て一度表情を緩めたが、それはすぐに険しいものへと変わる。現状は決していいとは言えないからだ。


「ジャーファルさん、すぐに船の用意をお願いします」
「それなら今、ヒナホホ殿が進めてくださっています。明朝には出港できるけど、君は連れていけな、」


言い終わる前に、ジャーファルの言葉は途切れた。深い緑のクーフィーヤに切れ目が入り、そこから銀色の髪が覗いている。小気味いい音を立てて壁に刺さったのは、船で使うのにとガッサが与えた小さなナイフだった。

ヤムライハとピスティはさっとラナンラから離れた。


「何がなんでも連れて行ってもらいます」


ラナンラの服はヤムライハとピスティが着替えさせ、身につけていたナイフや飾りといった類いのものだけ、ベッド横のテーブルの上に乗せられていた。そこから一瞬の内に掴み取り、正確無比なコントロールで投げられたナイフ。間違いなく、ラナンラは本気だ。

口元を袖で隠し、目を細めたジャーファルは表情のなくなったラナンラの顔を値踏みするように眺める。緊迫した空気にも関わらず、眠りこけたままの三人だけが場の空気を崩していた。


「私を連れて行ってください」
「行けば必ず狙われる。女の子をそんな場所に連れて行けるわけがないでしょう」
「女である前に私はファナリスでありアールヴなんです。行かないわけにはいきません」


アールヴの民は、何よりも家族の絆を重んじる。いつだったか、なぜそんなに兄妹の仲がいいのかと尋ねた時に聞かされた話だ。ラナンラの気持ちも分からなくもない。しかし、ジャーファルにも引く気はなかった。


「ダメと言ったらダメ!危険すぎる!」
「ケチ!ジャーファルさんのどケチ!」
「ケチで結構!」
「あのー…そもそも行き先が分からないんじゃ…」
「ヤムライハ、ナイス!私が行き先を知っていると言ってもまだダメと言いますか!」
「それなら行き先を言いなさい!私たちが必ず助けるから!」
「不平等取引反対!!」


段々、言っている内容が子供じみてきたのは気のせいではないだろう。聞かなければいけないことは他にもたくさんあるのに、この利かん坊は折れる気配がない。ジャーファルはどう説き伏せてやろうかと思案した。

ラナンラは自分を犠牲にすることにためらいがない。こういう手合いは恩義のある相手の言葉に滅法弱いもの。…そこで寝ている三人が言って聞かせれば諦めるはず。

実際、ジャーファルの読みは正しかった。ガッサやセーラ、マスルールに言われればラナンラも渋々頷かざるを得なかっただろう。しかし、残念ながらラナンラが手を打つ方が早かった。




「私…お兄ちゃんと…みんなと約束したんです…。絶対、私が助けに行くって…」


俯き、赤らんだ目から雫がこぼれ落ちる。鼻をすすり、震える声での懇願。さらにヤムライハとピスティがそこへ加勢した。


「ジャーファルさん!私からもお願いします!」
「ラナンラは強いし、相手の顔を知ってるのもラナンラだけなんだし!」
「ヤムライハ…ピスティ…」


三対の、女性の、潤んだ瞳。

…ジャーファルはとうとう折れた。


「はあ…。分かりました。ラナンラの同行を許可します」
「やった!ありがとうございます!」


先ほどまでの涙が嘘だったかのようにハイタッチを交わす三人。してやったりとでも言いたげなピスティを見て、やはり嘘泣きだったかとジャーファルは溜め息をついた。オオカミ少女直伝の涙だったのだろう。たとえ頭で分かっていても、見慣れない泣き顔は心臓に悪い。


「…それで、船の行き先は?」


手枷、足枷をつけられて押し込められた部屋から離れていても、同じ船の中であればアールヴの耳がその声を聞き取る。相手はまさか聞かれているとは微塵も思っていないはずだから、ラナンラは確信を持ってこう伝えた。


「“レーム帝国”です。あいつら、剣闘場がどうのって話してました」



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