港に着くと、息を切らせたガッサは端から端まで船を見て回った。違う、違う、これも違う。呟く度に表情が険しくなっていく。後を追うジャーファルは率いてきた武官たちに港を包囲するように言い、自身は物陰や暗闇へと注意深く視線を走らせた。
「くそっ!船がねえ!!」
ガッサの怒鳴り声に、ジャーファルは唇を噛み締める。南海生物はシンドリアから見て東の海に生息しているから、岩礁に沿うように北へ舵をとれば遭遇する確率は下がる。夜ならば巣に帰って寝てしまうだろうし、護衛がなくとも海を進むことは可能。
件の船が出てしまったのなら、一刻も早く後を追わなければならないだろう。
「ガッサさん、その船の次の目的地は分かりますか?」
「ここから東へとしか…」
それも、また撹乱目的で話した嘘の情報かもしれない。
一度王宮へ戻って今後の対応を考えましょうと、平時よりいくぶんか低い声で指示を出す。しかし、武官たちが踵を返す中、マスルールだけはじっと海を睨み付けたまま動こうとしなかった。
そして何を思ったのか、マスルールはそのまま海へと飛び込んだ。
「マスルール!?」
武官たちもジャーファルの慌てた声に何事かと振り返った。打ち寄せる波の音に混じり、水を掻き分ける音が暗い海に響く。
マスルールが意味もなくこんな行動をとるはずがない。掲げられた松明の灯りも届かない暗がりに、何かあるはずだとジャーファルは必死に目を凝らした。
「っ、そういうことですか…!」
そうして理解するや否や、海面に沿うように刃を走らせた。伸びた赤い紐はマスルールの腕に絡みつき、しっかりとした手応えをジャーファルに伝える。それにしても重い。筋肉の塊のような体に鎧をつけたままで飛び込んだのだから当然かもしれないが、相変わらず無茶をする。未だ状況の把握できない他の者たちも、とりあえずジャーファルの体を支えて赤い紐を引っ張り上げた。
徐々に灯りの届く範囲にマスルールが引き寄せられる。そして、その肩に担がれていたのは、
「ラナンラ!?」
「はい。意識もあります」
「そうならそうと先に言いなさい!私が気づいたから良いようなものの…!」
「すんません」
ジャーファルが気づいたのは誰かが海の中に浮いているということまで。それがラナンラとは分からなかった。
言いたいことは山ほどあるが、今はそれより先にするべきことがある。ラナンラを海から引き上げ、重たい音を立てながらマスルールが続く。長時間海に浸かっていたであろう体はすっかり冷えていて、視点も定まっていない。いつもなら嗅覚で人を判別しているはずなのに、ガッサの呼びかけでようやくその存在に気づいた様子。つまり、聴覚しかまともに機能していない。
「すまねえラナンラ!俺が何も知らずにあんな船を教えたばっかりに…!!」
「ガッサ、さん…?」
「ああ、無理に喋らなくていいぞ。…ジャーファル様、ラナンラを医者に診せていただけないでしょうか?」
「もちろんですよ。マスルール、お願いします」
「はい」
ラナンラはすぐにでも医者に診せた方がいいと判断し、ジャーファルはマスルールに先に王宮へ向かうよう頼んだ。彼もすぐに承諾して、横たえたラナンラの体を担ぎ上げる。
「…ってこら!女性を肩に担ぐ奴がありますか!」
「いてっ」
「脇に抱えるのもダメ!こうやって!横抱きにしなさい!」
「こうっスか」
「そう!はい行って!」
マスルールとしては、単に自分が運びやすい持ち方をしただけなのだろう。肩に担いでいれば両手が使えるし、脇に抱えていれば片手が使える。…しかし、せめて配慮がほしかった。
どことなく気の抜けてしまった一同も、マスルールの後を追うように王宮を目指した。
(前に運んだのは、)
セドだった。自分とよく似た匂いに釣られて向かった先にいた、ターバンですっかり顔を隠した男。ラナンラを見つけた時はすでに船の影も形も見えなかったから、セドは恐らく他の国民と一緒に拐かされてしまった。
すん、と鼻を鳴らす。腕の中のラナンラからは海の匂いしかしない。なんとなく気になって、マスルールはラナンラの首筋に顔を埋めた。
「…臭い」
実に失礼な話である。胸がなくとも相手は年頃の女の子なのに、この感想はないだろう。すっかり安心しきって眠っているラナンラが不憫だ。
マスルールはいつかと同じく、屋根の上を飛ぶように駆けた。上空を旋回していたピスティもそれを見て王宮へと方向を変える。そうして最後に勢いをつけて跳躍し、マスルールは見事王宮の門前に着地。丁度着地点のすぐそばにいたヤムライハが腰を抜かした。
「ちょっと!何かと思ったじゃない…!」
「はあ、すんません」
「せめて上からじゃなくて前から来れば、いいの、に…」
驚いた拍子に飛び出した言葉が、勢いをなくしていく。手に持っていた杖を放り投げて、ヤムライハはマスルール…正確にはラナンラへと駆け寄った。
「ラナンラ!ずぶ濡れじゃないのよ、もう…ちゃんと生きてるんでしょうね!?」
「いちおう。ただ、」
「何!?」
「臭いです」
「はあ!?ラナンラのどこが臭いっていうのよ!そりゃ今は潮臭いかもしれないけど普段はすっごく優しい匂いが…!」
「そうじゃなくて、なんか薬臭いんスよ」
「なになに?マスルールったらラナンラの匂い嗅いだの?」
いつの間にいたのか、にやついたピスティがからかい混じりにマスルールの顔を見上げていた。ヤムライハもまさか、とでも言いたげな顔で凝視している。
対するマスルールは、心底面倒臭そうに溜め息をついた。
「医者」
「あ!そうよ医者…!早く!薬って言ったわよね!?毒だったら解毒しないとラナンラが死んじゃうわ…!!」
「ヤム、落ち着いて。ラナンラは普通に寝てるだけだぞ?」
「そうかもしれないけど〜!」
ヤムライハが地団駄を踏んでいる間に、ラナンラはマスルールに抱えられて医者の元へと通された。
それから彼女が目を覚ますまでの間、ヤムライハは泣いてその側から離れようとしなかったんだとか。
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