二、三日ほど前からシンドリアに停泊している船があった。各国を回っているという客船で、乗客はあまり多くない。風体はごく普通の観光客。しかし、バザールを歩きながら品定めの目を向けていたのは布でも、作物でも、装飾品でもなかった。





「商船じゃあないがよその船が来てるらしいぞ。行ってみるか?」


いつものように漁の後の昼食を取っていると、ガッサが昨晩店で聞いた話を兄妹に伝えた。聞いたのは世界各国を旅する客船が来ていて、次は東に向かって航路をとるということまで。そこから先は話が変わってしまって聞けなかったらしい。

当然、二人は首を縦に振った。


「はい!いろんな場所を回ってるなら何かしら手がかりが掴めるかもしれませんし」
「お母さんは目立つから、同じ国にいたことがあれば話が届いてるかも」


同じ国にいたくらいで、とはいったいどんな母親なのか。気にはなったがなんとなく聞かないほうがいいような気がして、疑問の言葉はそのまま飲み下した。

昼食が終わってすぐ、兄妹は港へと飛び出して行った。しかし目当ての船に人気はなく、どうやら乗客はみな観光に出ているらしかった。もしシンドリア国内で宿をとっていたとしたら、このまま船の前で待っていても時間の無駄になる。話し合った結果、見つかる可能性は低いがバザールを探すことになった。

観光客が行きそうな店に端から順に声をかけて回り、心当たりがないかを尋ねる。


しばらく前にそれらしい人を見たねえ。

向こうの布屋に行くって言ってたな。

酒が飲める場所はないかって聞かれたわ。

ああ、今さっきそこの飲み屋に入ったよ。


そう言って指されたのは、通りから外れた場所にある寂れた飲み屋。少しためらって店に入ると、客は男が一人いるだけだった。


「あの…すみません。少々お尋ねしたいのですが」
「ん?俺か?」


ジョッキ片手にくるりと体を反転させる。日に焼けた肌、人懐っこそうな垂れ目。兄妹の姿を見た途端、浅くかぶったクーフィーヤの下でその目が一瞬だけ細められたのだが、それは二人の視力では捉えられないほどわずかな変化だった。


「あなたは港に停まっている船の乗客ですか?」
「ああ。今世界中を回って旅してるところだ。それがどうかしたか?」
「あの!俺たちのお母さん…ファナリスの女性をどこかで見かけませんでしたか!?」
「長い赤髪で、たぶんすごく目立つんですけど」


男は顎に手を当てて考えるような素振りを見せる。兄妹は静かに答えを待ち、そうして少し大袈裟に、何かを思い出したかのように手を打った。


「ああ!あのときの女性のことかもしれない!」
「知ってるんですか!?」
「君たちの探しているお母さんかは分からないが、彼女から預かっているものが船にあるんだ」


一緒に来てくれるかい?

柔和な笑みをたたえて、男は尋ねる。兄妹は預かっているものと聞いて首を傾げたが、ようやく見つけた母親の手がかり。断る余地はどこにもなかった。


「はい、ぜひお願いします」





話をしながら歩こうと言われ、兄妹はなんの疑問も抱かずに男の後ろをついて行く。それが人気のない道でも、母親の話をしている二人は気にならなかった。

男が乗ってきたという船に着くと、何か大きな木箱を船に積んでいる途中だった。聞けば今晩この国を発つらしい。次はどこの国に向かうのかという質問には、景気のいい国に行くという曖昧な答えが返された。


「お母さんからってなんだろうね」
「まだお母さんって決まったわけじゃないでしょ」
「そうだけどさー」


船内の一室に案内され、兄妹はそれぞれの予想を話しながら待っている。男は預かった品を持ってくると言って席を外しており、部屋にいるのは二人だけ。窓のない小さな部屋は、甲板の足音がよく響いた。


そして、それから十分ほど経った頃。ようやく二人が異変を感じ取った。


「何、この臭い…」
「…鼻が利かない」


嗅覚が麻痺するほどの刺激臭。それはもちろん、この二人だからこそ嗅ぎとれたわずかな臭い。慌てて部屋を出ようとしたが体に力が入らず、足がもつれた。ドアには外から鍵がかけられている。蹴り壊そうにも、二人には足を持ち上げる力すら残されていなかった。

鼻が利かず、視界は霞む。唯一残された聴覚に届く、男の高笑い。ずるずると崩れ落ちて、薄れ行く意識の中で歯噛みした。


(はめられた)


理解したときには、もう遅い。



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