「とても今更なんですが、俺たちこんなに王宮に出入りしてていいんでしょうか?あとこれ、ガッサさんからです」
「本当に今更だね…。いちおうヤムライハの客人ということで通してあるから問題はないと思うよ。魚はそのまま調理場までお願いしようかな」
「良かった…。ずっと聞こうと思ってたんですけど、なかなか怖くて。あ、調理場ってどっちでしたっけ?」
「君たちにはアラジンくんもずいぶん元気づけられてるみたいだからね。引き離すことはできないよ。それと、調理場はこっち」

「それ、疲れないんスか?」
「「何が?」」
「…いえ、なんでもないっス」


いつものように王宮へとやってきたセド。ガッサが作った魚の燻製を箱に詰め、ジャーファルと並んで王宮内を進む。普通の会話すら億劫なのに、二つの会話を同時に進めるなんて。たまたま二人を見かけたマスルールにはそれが不思議で仕方なかった。

箱の中から漂う魚と煙の匂い。すん、と鼻を鳴らして中身を言い当てると、セドが嬉しそうに笑った。店でも人気のある品だからすごく美味しいですよ。そう言ったセドの顔はどこか誇らしげで。ジャーファルはふた月前のあの怯えようからずいぶん変わったな、と感慨深い気持ちでその表情を眺めた。


「あ。そういえばラナンラは?」
「あいつはアラジンたちの所に行ってます。まだあんまり食欲が戻ってないみたいなので…」


あの雨の日、アラジンが王宮から姿を消した時は本当に肝が冷えた。嫌な想像がいくつも浮かんだし、暗い空がさらに不安を煽った。それだけに、帰ってきたときの第一声が“おなかがすいた”だったのにはジャーファルも笑ってしまったけれど。


「二人に会ってから少しずつ食べられるようにはなってきてるんだけどね」
「踊り…」
「そう、それ。マスルールもやっぱり見たい?」
「まあ」
「あ、いや、あんまり人がいると恥ずかしいと言いますか、緊張すると言いますか…」


目をそらして言葉尻を濁すセド。ジャーファルたちも、雨の日のことはアラジンから聞き及んでいる。ルフと踊る不思議な兄妹。真っ先に浮かんだ赤髪の兄妹が再び王宮を訪れたのは、それから数日経ってからだった。ヤムライハに会って帰るところでアラジンに遭遇し、以来、アラジンとその友人のアリババを励まそうと何度もここへ足を運んでいる。

人伝に踊りの話を聞いたヤムライハは分かりやすいほどに落ち込んでいた。今度踊るときは絶対にヤムライハの前で踊るから。兄妹がしたこの約束は、残念ながら未だ果たされていない。


「そもそも、ルフが集まらないとちゃんとは踊れないんです。練習くらいだったらいくらでもできますけど、ヤムライハにはちゃんとしたものを見てもらいたいし」
「なんでそこでヤムライハ?」
「え?あれ…?」
「ジャーファルさん」
「…ゴメン。今のはなしで」
「はあ…」


心なしか、ジャーファルの顔が赤い。セドはわけが分からず首を傾げている。

たしかに、セドはヤムライハを慕っている。年は少し離れているが砕けた話し方で、ヤムライハ自身もそれを許している。しかしその感情はジャーファルが想像したものとは違う。ラナンラがそうであるように、セドもまたヤムライハを姉のように慕っていたのだ。まあ、傍から見ればどうしてもいい雰囲気に見えてしまうのだが。


しばらく歩いて調理場に着き、料理人に箱の中身や保存方法、調理方法などについて大雑把に説明する。ジャーファルは案内が終わるとすぐに仕事へ戻ってしまったが、マスルールだけはなぜかセドの隣から離れない。

少し考えて、セドはがさごそと箱の中を漁り始めた。


「ちょっと待ってください。そのまま食べて美味しいのがあったはずなんで…あった。これです」
「どーも」


渡された瓶を日に透かすようにして中身を確かめる。濃い飴色の中に薄くスライスした魚の切り身が浸かっており、蓋を開けると甘辛い匂いが一気に広がった。


「これは?」
「一度燻製にした魚を薄く切ってタレに漬け込んだものです。味が濃いんで、酒の肴には持ってこいですよ」
「うまい」
「ふふ、ガッサさんにも伝えておきます」


瓶に直接指を入れて、ひとつだけつまみ上げる。口に入れた瞬間はタレの濃い味が広がるが、それが引くと燻製のほのかな香りが広がって優しい味になる。うまい。口は素直な感想を述べて、またもうひとつと次を急かす。

勝手に箱の中身を食べ始めたマスルールを見て、片付けをしていた料理人は困ったような顔で笑っている。セドも渡した後で気づいたのか、すみませんと何度も頭を下げた。それでもマスルールの手は止まらない。

食べながら、ひとつの疑問が浮かんだ。自分は何も言っていないのにどうして腹が減っているとわかったのだろうか。腹が鳴ったわけでもないし、昼が過ぎてからそんなに時間も経っていない。なのに、セドは確信を持ってすすめてきた。考えている内にマスルールはセドの顔を凝視してしまっていたらしく、ためらいがちに的外れな質問を返される。


「お、俺の顔なんかついてます…?」
「いや」
「じゃあ何かしたとか…」
「違う。ただ、」


なんで分かったのかと思って。

相変わらず主語が抜けているし、瓶に伸びる手は止まらない。普通の人ならまた疑問符を返してしまいそうな言葉だったのに、セドはすぐに足りない言葉を頭の中で補ってその疑問に答えた。


「うちのお母さんもよくやるんです。お腹が空いたときに黙ってついてくるっていうの」
「ファナリスの」
「はい。お母さん不器用だったし、料理はお父さんと俺の担当だったから。だからなんとなく、そうなのかなって思いました」


お母さんと口にしたとき、わずかにセドの目に影が差した。未だ手がかりのひとつも掴めていないのだから当然かもしれない。マスルールは左手に持っていた瓶を右手に持ち直し、汚れていないその手でセドの頭をわしわしと撫でる。どうやら、言葉がなくとも伝わるのはお互いさまだったらしい。


「やっぱりマスルールさんはお母さんに似てます」


そう言われて複雑な心境になったことまでは、どうにも汲み取り切れないセドだった。



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