朝もやが立ちこめる中、何艘もの船が沖へと進む。どの船も網を揚げたり、舵をとったり、風向きや船の向き、鳥の群れを追ったりと忙しく、絶えず怒鳴るような声が上がっていた。

その中でも一際賑やかな船がある。やはり網を揚げている最中なのだが、指示や声掛けとは違う“歓声”が上がっていたのだ。


「どんどんいきますよー!」
「ラナンラ遅い!網が片寄ってる!」
「いやいや!お前ら十分早いから…!」
「おら!さっさと生け簀に入れねえと甲板が魚で溢れるぞ!」
「おおお!ガッサさん大物がいた!」
「でかしたセド!誰か網持ってこい!!」


わいわいと、まるで子供のようにはしゃぐ漁師たち。その輪の中心にいるのはセドとラナンラだ。本来なら船に乗っている漁師総出で引き揚げるところを、兄妹二人だけで務めている。

はじめは普段と同じように皆で網を引き揚げていた。しかし、水の抵抗と魚とで重たいはずの網がやけに軽い。これにはガッサも首を傾げた。昨日の漁ではそれなりの水揚げだったし、波も天候も異常はない。何より他の船では魚が揚がっている。ならば、なぜ。

あらゆる可能性を考えて険しい顔をしていると、不意に先頭で網を引いていた兄妹の顔が輝いた。


「すごい!魚がいっぱい!」
「おお!引き網ってこんなに獲れるんですね!」


途端、甲板へ流れ込む大量の魚、魚、魚。あまりの手応えのなさに首を傾げていた他の漁師たちも、唖然としてその光景を見つめていた。そして一人、また一人と網から手を離していったのだが…。水揚げのペースは全く変わらない。引き手で残っているのは、セドとラナンラの二人だけ。

説明を乞うような目がいくつもガッサへ向けられた。


「頭…この子らはいったい何者なんですか…?」
「うーむ、俺も詳しいことはなんにも聞いちゃいねえからな。まあとりあえず話は後だ!網は二人に任せて魚をどうにかしろ!!」


一拍遅れて応と答える野太い声。二人も興奮しているのか、同じように声を上げて網を引く。するすると、ただ手繰り寄せるように。これはとても常人に真似できる所業ではないだろう。…結局、その日の水揚げはほとんどセドとラナンラだけでこなしてしまった。



港へ帰る途中、当然話題の中心になったのは二人のこと。皆が兄妹を褒める中、大漁の時だけ掲げる吹流しを立ててガッサは尋ねた。


「漁が早く済んだのは助かったが、お前らいったい何者だ?あれは大人でも揚げられる重さじゃねえはずだぞ」
「あ、俺たちファナリスの血を引いてるんです」
「半分だけなんですけどね」


相変わらず頭にはターバンを巻いたままなので、赤髪はそれほど目立っていない。何より先に目を惹くのは大きな耳の方。そちらにばかり気を取られて、彼らはファナリスの特徴に気づかなかったらしい。


「なるほど。言われてみりゃあマスルール様によく似た目をしてるな」
「そのとんがり耳の方が目立つから気づかなかったよ」
「もしかして、親戚か何かか?」
「あ、そういやこの前マスルール様の妹君に会ったぞ。そうだな…ラナンラより少し小さいくらいだったけど」


このくらい、と示された手の高さはラナンラの額辺り。二人はすぐに先日の夜のことを思い出し、あのファナリスの人たちは兄妹だったのかと納得した。まあ、実際のところは違うのだが。


ひとしきり笑って、興奮から醒めかけると同時に眠気がやってくる。陽も昇る前から起き出して海へと出てきたが、今は朝日が海面から上がりきっている。漁師たちはそれが生活のリズムとして根付いていても、慣れない二人にはこの辺りが限界だろう。

ぐしゃり。ガッサは最初に会ったときと同じように、乱暴に頭を撫でた。


「二人とも、港に戻ったらそのまま家で寝ていいからな」
「ガッサさんは…」
「俺たちはこれから競りだ。なあに、お前らが俺たちの分まで働いてくれたからな。気にするこたあねえぞ?」
「でも…」


申し訳なさそうに眉尻を下げるセド。ラナンラはすでに船を漕ぎ始めていたが、世話になる以上はと踏ん張っている。何度も瞬きを繰り返し、目をこすり、朝日を見つめて眠気と格闘。うちの子供にもこんな可愛げのある時期があったな…と、漁師たちはそれを微笑ましく眺めた。


港に近づくにつれ、いつもとは違う活気が船まで届く。鳴り響く銅鑼、人々の歓声、動き出す大きな帆船。それらを見て、ガッサは思い出したように手を打った。


「そうか、今日はシンドバッド王が外交で国を離れなさるんだったか」
「あ!もしかして今甲板に出てるのって王じゃないですか!?」
「手え振ったら見えるか!?」
「スパルトス様とシャルルカン様もいらっしゃるぞ!!」


遠くからでも目を惹くシンドバッドに、港へ帰ってきた漁師たちが大きく手を振り、皆口々に航海の安全を祈る言葉を叫んだ。シンドバッドの傍らには八人将の二人が控えている。セドたちの乗る漁船からはその顔を確認することができた。

愛想のいいシャルルカンが甲板を移動しながら手を振っている。順に回って、セドたちが乗る漁船にも手を振り返したとき、寝ぼけたセドの耳が音を拾った。


「シャルルカンさんの声…?」


視界はボヤけているし、風向きが違うせいで匂いは辿れない。しかし、あれはたしかにシャルルカンの声だった。柵に預けていた背中を上げ、ずれたターバンを外しながら立ち上がる。ほとんど寝ていたラナンラも声に気づいて、よろよろと立ち上がった。

赤い髪が、潮風に踊る。


「…あああああ!!」
「なんだシャルルカン!何があった!?」
「あそこ!あの漁船!セドとラナンラがいる…!」
「それは…先日の?」
「そう!マスルールとモルジアナが連れてきた奴!なんであいつら漁船に…ああ、それより!おーい!!セドー!ラナンラー!頼むから後でヤムライハに会ってやってくれー!!俺が殺されるー!!!」


シャルルカンの叫び声は銅鑼と波音、それに人の声にかき消されて船まで届かない。明らかにこちらに向かって何かを言っているのは分かったが、何を伝えたいのかまではガッサには分からなかった。

しかし代わりに、いつの間にか隣に並んだ兄妹がその声に答えた。


「わかりましたー!!後で必ずお伺いしますー!!」
「道中、お気をつけてー!!」


そう叫び返して、二人は両手で大きな丸を作る。聴覚に関してはファナリス以上の力を持つこの二人。当然、シャルルカンの声も一字一句逃さず聞き取った。それでも叫び返した声は向こうに届かないだろうから、分かりやすいサインを一緒に返す。

そしてシャルルカンからも大きな丸が返され、国王を乗せた船は朝日に照らされた海を切るようにして旅立った。

当然、残されたのは疑問である。


「お前らシャルルカン様と知り合いなのか…?」
「「尊敬してます!」」
「いや、答えになってねえよ」


どうやら眠気が勝って頭が働いていない様子のこの兄妹。起きたらまずは、質問攻めを覚悟しなくてはならないだろう。



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